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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第一章 04

 翌日の朝。
 始業前のわずかな休み時間、わたしは職員室にいた。
「いやー、悪いね」
 担任の柳田(やなぎだ)先生は、それほど悪びれた様子もなく謝ってきた。白髪が混じり始めた初老の先生で、丸っこくて憎めない顔立ちをしている。担当の科目は国語。見た目の印象どおり、性格は至って陽気な人だ。
「……えっと、これにまた記入するんですか?」
「そう。ちょっと面倒だろうけど、よろしく頼むよ」
 渡された書類を見つめる。氏名や生年月日をはじめ、イタリアでの経歴や向こうでの成績を、これにまた細かく記入しないといけないらしい。転校前に記入したものとどこが違うのか、わたしにはよくわからなかった。
 ……はあ。
 心の中でため息をつく。
 なんでも、転校の手続きで必要だった書類に不備が発見されたらしい。
 今朝、自宅で朝食を食べているときに柳田先生から連絡があって、もう一度新しい用紙に記入してほしいから資料を持参して少し早めに登校してくれ、とのことだった。
 わたしは壁にかけられていた時計を見た。一限目の授業が始まる午前九時まで、もうそこまで時間は残されていない。
 早く登校したつもりだったけど、本当に「つもり」だったみたい。
「先生、これ始業までに終わりません」
「ん? ……それもそうだな。でも、だから早めに登校してくれって言ったじゃないか」 
 ……いまさらそんなこと言われても。
「女の子の朝は、いろいろと準備が大変なんです」
 昨日のうちに言ってくれればよかったのに、という言葉は飲み込んだ。
 昨日のうちに知っていたら、いつもよりも余裕を持って起床することができたのに。
 それに、普段よりもやたらとひどかった寝癖に苦戦することもなかった。
 あれは、まるでわたしをあざ笑うかのようなひどい寝癖だった。夕べ、わたしはいったいどんな寝相を――?
 ……うう。
 考えないようにしよう。起きたら頭と足の位置がベッドの上で逆転していたのは、わたしの気のせいだった、ということにしよう。うん。
「綾瀬のクラス、一限目は数学だったな。赤井(あかい)先生に綾瀬は遅れるって伝えておくよ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 柳田先生は、数学担当の赤井先生のところへ向かって行った。
 わたしは近くの空いている机に向かい、資料を見ながらさらさらとボールペンを走らせる。
「はあ」
 今度は本当にため息をついた。先生が近くにいないからいいよね、と勝手に解釈する。 
 ……それにしても、これはいますぐに必要な書類なのかな。
 別に昼休みか放課後でもいいんじゃないかとも思うけど、わざわざ忙しい朝に連絡をしたところを見ると、それなりに重要ではあるらしい。わたしが帰国子女という少し特殊な環境も関係しているのかもしれない。
 ……ま、仕方ないか。
 潔くあきらめ、目の前の作業に集中する。
 しばらくペンを走らせていると、次第にペンを持つ左手が痛くなってきた。わたしは筆圧が強いみたいで、長くペンを持っているとすぐにこうなる。中空で手を振り、こわばった筋肉をほぐす。
 しばらく、集中しよう。
「……ふう」
 切りのいいところで、ひと息ついた。
 ただ、かなりがんばったはずなのにまだ半分も記入できていなかった。わたしの経歴は、文章にすると長ったらしくて厄介だ。
「あら、綾瀬さん」
 またため息が出そうなところで話しかけてきたのは、音楽担当の中村詩織(なかむらしおり)先生だった。
 二十代後半の女性。ウェーブのかかったセミロングの黒髪が特徴的だ。スタイル抜群で綺麗な先生だった。コーヒーの入ったカップを右手に持っている。
「中村先生、おはようございます」
「朝から事務仕事なんてご苦労さま」
「はい。もう大変です……代わってもらえませんか?」
 わたしの軽口に「ふふ」とやさしく笑い、中村先生はわたしの隣の席に座った。
 中村先生は一限目の授業がないのか、ゆったりとくつろいでいた。大人の女性特有の、落ち着いた動作でコーヒーをすすっている。絵になる姿だった。
 わたしは再び作業を始めた。
「ねえ綾瀬さん、作業しながら聞いてくれる?」
「はい」
 ……本当は集中したいんだけどな。
 最近気づいたことだけど、わたしは同時にふたつ以上のことをこなすのは苦手だった。
「やっぱり交響楽部に入る気はない?」
「……それは」
 交響楽部。
 それは天野宮学園が全国に誇る部活のひとつ。
 吹奏楽や管弦楽などを統括したオーケストラ編成で演奏を行い、その演奏技術は全国の学生音楽の中でもトップクラスという話は有名――この話は、交響楽部に籍を置く石川さんが、昨日のお食事会のときに教えてくれた。
 中村先生が「やっぱり」という言葉を使ったのにもわけがある。昨日の音楽の授業が終わったあと、わたしは中村先生にこう言われた。
『あなた、入る部活をまだ決めてないなら交響楽部に入らない?』
 突然の誘いにうまく返事ができないでいるわたしに、中村先生は次のように続けた。
『人数が少し足りなくて困ってるのよね。初心者でも大歓迎よ……ていうかあなた、なんか音楽の才能がありそうだし』
 そう言われたとき、わたしは驚きのあまり言葉を失い、不覚にもうろたえてしまった。
 中村先生は、そこまで深い意味で言ったわけじゃないと思う。
 これがほかの部活ならまだよかった。でも、音楽だけは絶対にやるわけにはいかない。なぜならわたしは――
 ――音楽。
 ――人前で演奏。
 ――それは……わたしの。
「――っ」
 昨日の動揺を思い出し、体が硬直してしまう。先生の見ている前で。これはいけない。
 ……しっかり、綾瀬由衣っ!
 自分に向かって、かなり必死に言い聞かせた。
 先生に悟られないよう、小さな動作で大きく深呼吸した。
 ……よし、大丈夫。 
 さて、どうしよう。昨日は「ほかの部活を見てから決めます」と、無難なことを言ってなんとかしのいだ。
 大人の礼儀としては、ちゃんと断ったほうがいいかもしれない。
「ごめんなさい……わたし、たぶん部活には入らないと思います」
 作業を中断し、中村先生に向かって言った。
「……そう」
 わたしの真剣さに気づいたのか、中村先生はそれ以上食い下がるような真似はしなかった。
「ごめんなさい」
「いいのよ。こちらも少し不躾だったみたいだし……あんまりしつこいと嫌われちゃいそうだしね。もう言わないわ」
「本当にすいません」
 理解のある先生でよかった。
「それにしても、あなたを見てたら別の生徒のこと思い出しちゃったわ」
「え?」
「あなたと同じような文句で誘ったんだけど、なんか深い事情がありそうなすごーく真剣な眼差しで断ってきたのよね。でも次の瞬間には子どもみたいにおちゃらけてたから、真剣なのかそうじゃないのかいまいちつかめない生徒だったんだけど」
「……そんな生徒がいるんですか?」
 変人……って、会ったことないのに失礼かな。
「ええ。でもこんな噂があってね。なんと彼は、かつてプロのピアニストだったとか。どう? びっくりするでしょ」
「……彼?」
 ということは男子。しかもかつてプロのピアニストだった。過去形ということは、いまはプロではないということ……?
 たしかに、その噂が本当なら驚く。
「ツキシロくんっていうんだけどね、あなた以上の堅物よ。それから何度か誘っても、けんもほろろだったわ」
 ツキシロ……って、まさか月城!?
「――っ!」
 その名前につい、わたしは思いっきり椅子から立ち上がっていた。太ももが机の裏にぶつかったけど、気にする余裕はなかった。
「あ、綾瀬さん、どうかした?」
 きょとんとした様子の中村先生に、有無を言わせない剣幕で尋ねた。
「いま、誰って言いました?」
「え、えっと、月城くんがどうかした?」
「月城って、月(つき)城(しろ)秀(しゆう)一(いち)くんのことですか?」
 さらに畳みかける。その名前に心臓の鼓動が速まるのを感じた。
 冷静でいられない。体が熱を帯び始めた。
「あら、知ってるの? たしかあなたとは違うクラスじゃなかったかしら」
「先生、教えてくださいっ。月城くんのクラスは!」
 つい大声をあげてしまい、職員室中の視線がわたしに注がれた。そこではっとして冷静になる。
「……あ、すいません。取り乱して」
「いえ、それはいいんだけど……綾瀬さん、なんか変よ。大丈夫?」
「は、はい――」
「おーい綾瀬、終わったか?」
 やたらと陽気な声が、わたしの思考を乱した。柳田先生だった。彼はわたしの目の前にある書類をじぃーっと見つめる。
「なんだ、まだ半分も終わってないじゃないか。しかも大声あげてどうした」
「あ、ご、ごめんなさい」
「転校早々遅刻するなんて、クラスから浮くぞ。いいのか?」
「……すいません。さっさとやります」
 さっきからわたしは謝ってばかりだな、と思った。
 柳田先生はホームルームのため、クラスへ向かった。
 わたしも必要以上に遅くなるわけにはいかない。
 とりあえず目の前の事務作業を片づけようと、思考の隅から月城秀一の名前を追い出すように努力する。
 ――月城くん。
 努力……する。
 ――月城秀一。
 だめ。いまはそれどころじゃ。
 ――ピアノの音色。あの神秘的な旋律。
 お、追い出して……
 ――わたしがずっと想っていた人。
 そんなことはできなかった。
 さっぱりと集中の仕方を忘れたわたしは、いつもはしないような簡単なミスを連発した。


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