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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第二章 02

 三階に下り立った頃、静かなはずの廊下に足音が響いてきた。
 心なしか足音は荒い。どうやら急いでいるみたいだ。しかも、徐々にこちらへ近づいてくる。
 まあ、言うまでもなく遅刻者だろう。俺も人のことは言えないけど。
 急に足音の間隔が短く速くなる――が、俺がそう思ったときはもうあとの祭り。すでに手遅れだった。
「きゃっ!?」
 女子の短い悲鳴とともに、背後からの強い衝撃が俺を襲う。
 どうやら足音の主は唐突に速度を上げて、下の階から階段を駆けのぼってきたらしい。すごい勢いだったみたいで、ぶつかった彼女はそのまま尻餅をついた。
 おしりをさすって痛がっているので、さすがに無視するわけにはいかない。そのときちらっと、彼女が右手首に腕時計をしているのが見えた。
「ごめん。……大丈夫?」
 そう言いながら、彼女に向かって左手を差し出した。ちなみに俺は右利きだ。
「こちらこそごめんなさい。前をよく見てなくて――」
 鈴の音のような澄んだ声でそう言いながら、彼女は俺の手を取って立ち上がった。やわらかく、温かい手。そのときの温度差から、自分の手が冷たかったことに気づいた。
 彼女の姿をさりげなく観察した。
 女子にしてはやや背が高い。一六五センチ以上はあるだろうか。
 彼女は主に左手で制服についた埃を払っている。予想どおり、左利きらしい。ふつう、利き手とは逆の手首に腕時計をはめるという、とっさの判断は正しかったみたいだ。
 ……ん?
 彼女の腕時計を見て、なにか違和感が生まれた。
 丸い文字盤を縁取る金色のメッキ。文字盤に並ぶローマ数字。いまの時刻を指す短針と長針。それに茶色い革のベルト。高級そうな時計ではあるけど、一見して特におかしいところはない。
 ……いや、でも。
 どこかおかしい気がする。
 ……まあ、いいか。時間もないことだし。
 とりあえず彼女の顔を見る。
 まるでシャンプーのCMに出てきそうなほどしなやかで長い髪。くっきりとした二重まぶた。小さく整った鼻に、潤んだ唇。肌のきめは細かく、こちらは化粧品のCMでも通用しそうだ。
 綺麗な子だと、素直にそう思う。しかし、見覚えはない。
 下の階から上がってきたことから察するに、俺と同じ二年生か、さもなくば四階に教室のある一年生ということになるが、俺の記憶に目の前の女子のデータはない。
 別に全員と友達というわけではないが、同じ学年だったら全員の顔と名前はだいたい一致している。
 それなら、まだよく知らない入学したての一年生かと確信しかけたとき、彼女の様子が豹変した。
「――ぁ」
 俺の顔を認識するなり、彼女は驚愕の表情になる。たとえるならそう、大好きだった恋人になんの前触れもなく別れを告げられたような、かなり追い詰められた悲痛な表情だ。
「つ、月城……くん……?」
 彼女の言葉に、今度は俺が驚いた。
「え?」
 顔には出なかったと思うが、なかなかの衝撃度。
「きみは……?」
 どこかで会ったことがあるだろうか。
 いや、それはない。一度会った人の顔は、俺はほとんど忘れることができない。
 彼女は初対面だ。
「あ……あのっ……!」
 なにかを必死に訴えるような、でもうまく言葉にできないような、そんな感じだった。どうして彼女はこんなに必死なんだろう?
 そして、やっとしぼり出された言葉。
「どうして……ピアノを捨てたの?」
 一瞬、思考が停止した。
「なっ――」
 思考停止の次の瞬間、不覚にも凍りついてしまった。
 さすがの俺もこれには動揺を隠せない。あまりの衝撃に、よろめくように数歩後ずさる。
 たぶん彼女から見たら、俺は大きく目を見開いていることだろう。血の気も引いているように見えるかもしれない。
 なぜ、初対面の彼女が――
 ――いちばんの秘密。
 ――触れられたくない真実。
 それを知っているのだろうか。
 彼女も彼女で、なぜこんなことを言ってしまったのか自分でもわからないようで、俺と同じように大きく動揺している様子だった。彼女の実直そうな瞳が揺らいでいるのがわかる。
 俺はすぐに自制心を動かし、動揺を鎮めた。
 冷静に――
 そうだ――冷静になれ、月城秀一。
 自分にそう言い聞かし、俺は問うた。
「きみ、名前は?」
 自分の声が普段よりも低く鋭くなっていることに気づくが、別に構わない。いまはそんなことどうだっていい。
「あ、え、えっと――」
 俺の気配が変わったことに少し怖がっているようにも見えるが、この際仕方がない。これ以上怖がらないうちに、とりあえず名前だけでも聞き出そう。
「アヤセ……アヤセユイです……」
 一抹の恐怖が浮かんだ声音で紡がれたのは、やはり知らない名だった。
「学年とクラスは?」
 さらに畳みかけた。まだいける。
「……に、二年です……二年F組」
 同じ学年? 
 そう言われてよく見たら、彼女の胸のリボンは二年を表すオレンジだった。ちなみに一年生は緑、三年生は青だ。
 俺の知らない生徒。
 二年F組の「アヤセユイ」。どういう漢字を書くのかは知らない。名字はおそらく「綾瀬」だろうが、下の名前にはいくつか候補がある。だけどいま、彼女に詳しく聞いている時間はない。
 ……ちょっと待てよ……F組だって?
 あいつがいるクラスか。
 それなら、いまの俺がなすべきことは――
 俺は彼女を残し、自分のクラス、B組の教室へ向かうことにした。階段を背にして左、西の方角に伸びる廊下に足を向ける。
「あっ、待って!」
 俺の背に問いかける彼女の声は、まだなにか伝えたいことがあると暗に物語っている。でも、いまは本当に時間がない。
「F組って、今日の一限目は数学だろ? 数学の赤井先生は遅刻者には厳しいぞ」
 振り返ることなく答えた。
「え……」
 どうして別のクラスの時間割を知っているの――などと絶句しているであろう彼女を残し、俺は歩き出した。
 彼女の気配が徐々に遠のいていく。
 F組の教室は階段を挟んだ逆の方角に伸びた廊下側にあるから、俺を追ってくることはないだろう。
 それにしても。
 ……どうして。
 長い廊下を歩きながら、妙に苛立っていた。それは荒くなった足音にも顕著に表れている。
 だからつい、自分の教室のドアも乱暴に開けてしまった。
 教室が静まり返り、一同の注目が俺に集まる。
「……おい、月城」
 いったい、いままでどこにいた、と説教を始めようとする社会担当の近藤(こんどう)をにらんで黙らせ、やはり乱暴に、窓際の席についた。
 俺の雰囲気に気圧されたのか、それ以上問い詰められることはなかった。近藤は柔道部の顧問で体が大きい割には、それと反比例するようになぜか気が小さい。近藤はわざとらしく咳払いしたあと、何事もなかったかのように授業を再開した。
 授業が中断され、自分のせいで教室に変な空気が流れたことにも構わず、窓の外へ視線を向ける。授業なんて最初から真面目に受ける気はなかった。
 窓を額縁にして描かれている空。
 俺の苛立ちをよそに、それはどこまでも青かった。


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