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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第八章 01

 寒い。
 ベッドに入って、まず感じたことがそれだ。
 無意味に寝返りを繰り返す。時刻は午後七時をまわった頃だろうか。そんな時間から眠れるわけがなかった。
 自室にいた。十畳ほどの広さ。あまり使うことがない机に、隙間が目立つ本棚。壁の一部はクローゼットになっている。俺が寝転んでいるのは、部屋の隅に置かれたベッドの上だ。
 照明は消している。いま、俺は「光」を見たくない。カーテンの隙間から、青白い月明かりが差し込んでいるが、なぜかそれすら直視できなかった。月の光というほのかな光さえ、いまの俺にはまぶしすぎる。
 恐ろしいまでの静謐な空気だけが、この部屋に立ち込めていた。
 今日の放課後、綾瀬由衣を追い詰めた。あのときの彼女の表情を、一生忘れることができないだろう。きっと、すさまじいまでの絶望感を彼女は抱いたはずだ。
 でも、あれでよかったんだと、いまは考えるしかない。
 ちらっと――徹底的に泣き崩れたであろう綾瀬由衣の姿が、脳裏をよぎる。
 実際に見たわけじゃない。立ち去るときに振り返っていれば、そんな彼女を目の当たりにしたはずだ。
 だからその姿をどうしても想像してしまう。
「……くそ」
 俺と違って彼女はまだ――
 ぞくっと、背筋に悪寒が走る。これから彼女が立ち直れなかったら、俺は償えないほどの罪を背負うことになる。
 ……やっぱり寒い。
 気温はそこまで低くはないと思う。でも、寒いものは寒い。
 布団に包まり、再び無意味な寝返りを打つ。どうも落ち着かないようだ。セミダブルのベッドは、ひとりでは大きく感じる。
 ひとりでは。
 ……ふたりのときは。
 ふと思い出す。こんなときあの子は――寒がりで寂しがりのあの子は、必ず俺にまとわりついてきた。それは朝でも昼でも夜でも関係なかった。
『秀ちゃん……ぎゅってして』
 あの子――桃子の声がよみがえる。
 秀一だから秀ちゃん、らしい。
 とある孤児院に預けられていた少女は、いつからか俺にとって家族の――いや、それ以上の存在になっていた。
 この家で一緒に暮らすようになってから、桃子はひとりで寝たことがない。ぬくもりを求めて、いつも俺の布団に潜り込んできた。
 だから俺の両親は、シングルではなくセミダブルのベッドを用意してくれたのだ。ふたりで寝るなら、シングルは狭いでしょと、母親は理解してくれた。
 桃子の華奢な体をやさしく抱きしめてあげると、彼女は涙を流した。哀しいわけでもつらいわけでもないはずなのに、その涙はとどまることなく溢れ続けていた。
 人のぬくもりに触れるしあわせ。
 それが、桃子のはじめて知った感情だった。俺は当初、桃子はなんらかの理由で感情を「失った」と思っていた。
 でも、それは間違いだった。あの子は、最初からなにも知らなかったんだ。当然、最初からないものは失いようがない。
 他人と触れ合い、感情を共有する。そんな誰もが日常生活の中で培っていくことを、桃子は俺と出会うまで知らなかった。
 それは桃子の出生に関連している。はじめてその事情を知ったとき、ひどい母親もいるもんだと生まれてはじめての憤慨を抱いた。
 桃子が預けられていた孤児院の院長が教えてくれた話だ。教育を放棄し、桃子をただ生物学的な意味で「生かす」ことだけを考えていた母親。母親は、いわゆるシングルマザーだったらしい。父親は不明だそうだ。
 桃子に対して母親は、微塵の愛情もなかったという。育てるのは面倒だ。でも、逆に死なれるのはもっと面倒だ――そんな考えだけで、要は食事を与えるだけで桃子を放っておいた母親。
 愛情を与えることを拒絶した母親。親としての責任を、完全に放棄した母親。それはもう、もはや母親などとは呼べない。鬼畜という名の別の生き物だ。
 桃子はなにを思って生きていたのだろう。やがて唯一の肉親である母親にも捨てられ、孤児院に入れられることになったとき、桃子はどんな感慨を抱いただろう。
 それを考えるだけでも、いまだに憤りを隠せない。
 でも桃子は、哀しいとか寂しいとか思う以前に、基盤となる感情の動き、つまり心がなかった。感情が育まれる環境ではなかったから、それは仕方ない。
 けれど、それがどれだけ恐ろしいことか。俺は、そんな桃子を見捨てることはできなかった。はじめて出会ったときから、なぜか俺は桃子のことを忘れることができなかった。
 運命の邂逅というのは、あのような出会いのことを言うのだろう。桃子を守り続けよう。それもずっと――出会ってから間もなくして、そう思った。
 俺のそんな想いを、両親は真摯に受け止めてくれた。両親は素晴らしい人格者だったと、いまでも誇りを持って言える。両親は、金儲けや親としての見栄や体面をまるで気にすることなく、ただ俺のピアノの才能を守るために立ちまわってくれた。
 桃子のことも理解してくれて、やがて月城家の養子として引き取ってくれた。戸籍上は、桃子は俺の義理の妹にあたる。同い年だが、俺のほうが生まれた日が早かった。
 それからの二年間は平穏な日々を送った。桃子は俺以外の人間に心を開くことは絶対になかったが、俺の両親だけには徐々に開くようになっていた。
 もうしばらくすれば、桃子は本当の家族になる。戸籍上という形式的なものではなく、真の絆で結ばれた本当の「家族」という意味だ。俺も両親もそのように信じていた。
 だが、桃子が義理の妹になってから二年後、つまり俺と桃子が七歳のとき、両親が交通事故で他界する。このことが、ある意味で運命の歯車を狂わせたのかもしれない。いままで自分を見守っていてくれた両親を失い、俺はその年齢にしては不相応な、かなり厳しい決断を迫られた。
 両親はもういない。これから先は、自分で自分を守らないといけない。さらに、同時に桃子も守っていかないといけない。桃子の心は誰よりも脆く、また体も弱かったから、誰かがそばにいて支えてやらないと簡単に壊れてしまう。
 彼女を守るためにはどうすればいいか。
 俺にはなにができる。
 答えはひとつしかない。
 月城秀一という人間には、ピアノしかなかった。それなら話は単純だ。親の意向を無視するかたちで、俺はピアノのプロの世界に足を踏み入れた。
 桃子のためにピアノを弾くことを決めた。そのとき、ピアノを弾いて大勢の人に喜んでもらうという価値観は完全に逆転した。いままでの月城秀一が、すべて消滅した瞬間だった。
 それから俺は十年間、桃子のためだけにピアノを弾き続けた。
 けど――いまから三年前に桃子は、原因不明の病に倒れた。綾瀬孝明氏とパーティーで会ってからしばらく経った頃だ。
 それから一年後、つまりはいまから二年前。
 桃子は、静かに息を引き取った。このとき、俺はピアノを弾く理由を完全に消失してしまった。
 もう俺には生きていく理由なんて見当たらない。それでも、どういうわけか死を選ぶことはできなかった。なぜなら、桃子が最後に残した言葉が、俺をずっと「生」に縛りつけているからだ。
『秀ちゃんはピアノを弾いて……』
 そこから続く言葉が、どうしても忘れられなかった。なぜ桃子は最後の最後になって、あんなことを言ったのか。
 桃子が望むなら、俺は自分の命を捨てることすら辞さなかったのに。その言葉の意味を探ることだけが、いまの俺を生かしているわけだ。
「……俺は」
 どうしたらいい。これから先、なにを頼りに生きていけばいい。
 綾瀬由衣という、ひとりの人間を追い詰めた罪も重くのしかかってくる。そういえば、去り際にすれ違った哲郎のやつも怒らせたかもしれない。
 哲郎は、俺と桃子の事情を知っている数少ない人間だ。もしかしたら、今回のことで哲郎との絆にも修復不可能な軋轢が生じるかもしれない。
 あいつまで失うのか……?
 心が暗い。こんな精神状態で明日、学園になんか行けるわけはない。
 すぐに登校拒否を決めた。明日は一日、徹底的に沈んでやる――そんなネガティブな思考が、まるで闇のように俺を覆い尽くした。


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