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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第九章 01

 時刻は夜の八時をまわった頃。
 寝室は照明を落としているから薄暗く、わたししかいないために静まりかえっている。
 食欲がなかったから夕食は食べていない。おなかは空いてない。
 それもそうだ。
 今日の放課後、あんなことがあったんだから。
 ついさっきまで、わたしの精神は地獄のようなどん底にいた。
 ベッドの上に寝そべり、ずっと考えていた。
 疲れているにもかかわらず、思考が停止することはなかった。視線はさっきからずっと天井に向いている。そこに答えがないのは明白なのに。
 答えはきっと……自分の中にあるんだと思う。
 だから、さっきからずっと考えている。
 わたしがどうしてヴァイオリンを人前で弾けなくなったのか。
 いままで、その理由を深く考えることをしなかった。
 正確には、考えることを拒んでいた。
 怖かったから。
 恐ろしかったから。
 だから、現実から目を背けていた。
 そんなわたしの弱さを、月城くんに完全に見抜かれた。自分ですらちゃんと見ようとしなかった心の闇の真実を、ほとんど交流のない月城くんが簡単に触れてきた。
『――自分を取り巻くあらゆる事象から逃げているうちは、きみは人前でヴァイオリンを弾くことはできない――ヴァイオリンに依存している原因を自分で見つけないと、前には進めない――』
 わたしがなにかから逃げていたことは、自分でもわかった。でも、なにから逃げているのかは、よくわからなかった。
 それを今回、しっかりと考えないと。答えが見つかるまでじっくりと。
 目を背けていたのは、さっきまでで終わり。
 これからの踏ん張りが、立ち直る最後のチャンス――と、自分に言い聞かせた。
 時間はたっぷりある。
「……よし」
 順を追って考えてみよう。
 わたしがヴァイオリンを弾き始めたのはいまから十三年前、四歳のときだった。
 お母さんはわたしにピアノを習わせたかったみたいだけど、自分はヴァイオリンがいいと駄々をこねたらしい。その理由はよく覚えていない。
 それからしばらくは、近所のヴァイオリン教室で腕を磨いていた。そこの先生はもともとプロを目指していた人で、指導者としてそれなりの定評があった。レッスンもかなり厳しかったと記憶している。
 そして八歳のときに出場した全国クラスのヴァイオリンコンクールで、わたしは見事優勝した。審査員の満場一致の完全なる優勝だった。
 お母さんや先生は試しにわたしを出場させたみたいだけど、わたしが地区予選、県予選と順調に勝ち進んでいったことが夢みたいだったと、あとになってふたりから聞かされた。
 わたしの演奏技術は、予選を勝ち進んでいくごとに飛躍的に上昇したらしい。
 そして、最後の全国大会のとき、特別審査員だったのがクラウザー先生だった。
 先生はそのときたまたま来日していて、日本の知り合いから審査員を頼まれていた。
 本当はこのとき、クラウザー先生は審査員をやることが乗り気じゃなかったらしい。恩のある人から頼まれたから仕方なく、というのが本心だったそうだ。
 でも、出場者の中にわたしがいた。
 予想外の才能に出会えた。いまではその偶然に感謝している――後日そんなふうに、クラウザー先生は嬉しそうに語った。
『きみの才能は育て方次第で充分に世界に通じる。どうだ、わたしと一緒にイタリアへ行かないか?』
 全国大会が終わったあとすぐに、クラウザー先生から言われた言葉だ。
 クラウザー先生は親日家でもあるから、日本語が堪能だった。
 幼かったわたしはあまり考えることなく、すぐに「はい」と返事をした。
 あの頃のわたしは、ヴァイオリンを弾くことがいちばんの楽しみで、同時にしあわせでもあった。
 海外でヴァイオリンの勉強をすること。
 迷いなんて米粒ほどもなかった。
 それから、イタリアへ行ってヴァイオリンの勉強がしたいと、必死になって両親に訴えた。 その当時は、ジャーナリストであるお父さんも、海外での仕事はそんなに多くなかった。お父さんのアシスタントであるお母さんも、海外での活動経験は少なかったと思う。
 だから、未知なる世界へ旅立とうとする娘が両親はやはり心配だったのか、最初の頃はあまりいい顔をしなかった。それでもわたしは、ずっと訴え続けた。
 いつからかクラウザー先生も説得に加わり、わたしと先生の熱心な説得に負け、やがて両親も折れることになる。
 そして両親に見送られ、わたしはクラウザー先生と一緒にイタリアへと渡った。
 それ以来、わたしはずっとイタリアを中心としたヨーロッパにいた。お父さんとお母さんが海外に取材拠点を移したのも、たしかこの頃だった。 
 ヨーロッパの音楽業界でわたしは、たくさんの人たちと出会うことができた。
 国籍や人種を問わず、音楽をやり続ける人たち。
 人に感動してもらいたい。
 音楽を通じて自分の想いを伝えたい。
 もっと大勢の人たちに自分の音楽を聴いてもらいたい。
 そんな普遍的なことを胸に秘めながら、「人のため」に音楽をやっていく人がたくさんいた。
 最初の数年間はまだよかった。あの頃のわたしは、新しい人と出会うのが楽しみでならなかった。クラウザー先生のレッスンは予想以上に厳しかったけど、毎日が充実していた。
 でも一度だけ、スランプに陥ったことがある。五年前、ヴァイオリンを弾いていることにはじめての不安を覚えたときだ。
 そのときのわたしを救ってくれたのが、月城くんだった。
 彼のピアノの旋律が、わたしの中でくすぶっていたあらゆる不安を完全に払拭してくれた。
『ユイ、よく覚えておくといい。あれが――シュウイチ・ツキシロが奏でるピアノの旋律こそが音楽の到達点、「神の旋律」だ』
 月城くんのリサイタルが終わったあと、クラウザー先生はこう言った。
 神の旋律という言葉を、わたしはそのときはじめて知った。
 同時に意味も教えてもらった。人に夢と希望を与える至高の音楽――あのとき、音楽の神髄を垣間見た気がした。
 その出来事がわたしを立ち直らせた。
 月城くんのピアノを伴奏に、ヴァイオリンを弾きたい。
 彼と一緒に音楽を紡いでいきたい。
 そんな願望が生まれた。
 それから歯を食いしばって、涙をこらえて、一日の大部分の時間をヴァイオリンの練習に費やした。寝る間を惜しんで、ふつうの勉強にも精を出した。
 やがてわたしは周囲の人々に才能を認められて、はじめてプロのヴァイオリニストとして舞台に立つことになる。それが四年前だ。
 クラウザー先生がかつて在籍していた交響楽団が、わざわざわたしのデビューコンサートの共演を申し込んでくれた。
『ユイ・アヤセのプロデビューに、我々は協力を惜しまない』
 そう言われたと、のちにクラウザー先生は語ってくれた。
 信じられないという驚き。
 純粋に、単純に嬉しかった。
 感謝の気持ちに涙が止まらなかった。
 ここまでだ。
 わたしがよかったのは。
 そして、あの出来事……三年前の中東……無差別テロを皮切りに、わたしを取り巻く状況が一変した。
 ヴァイオリンに対する想いも、どこかで変わった気がする。
 それはずっと、自分がプロになったからだと思っていた。
 ……あれ。
 わたしを取り巻く状況。
 ヴァイオリンに対する想いの変化。
 なにかが引っかかった。
「……ううん……違う……」
 もしかして。
 間違っていたのは――
 このあたりの部分?
 昏睡状態になってしまったお母さん。
 お母さんを助けなかったお父さん。
 そして、お父さんを憎んでしまったわたし。
 それまで大好きだったお父さんを恨まないと、自分の精神を保っていられなかった弱くて脆いわたし。
 状況をあるがままに受け止めることができなくて、全部を直視したくなかった。
 それから。
どうしたっけ。
 ……えーと。
 わたしはたしか、いままで以上の集中力でヴァイオリンを弾いたんだ。
 コンサートやリサイタルはもちろん、練習でも一心不乱だった。
 クラウザー先生にもう休みなさいと言われても、わたしはなぜか弾くことを止めなかった。
 いま思えば、一心不乱にヴァイオリンを弾くわたしは、どこか病的な気配があったかもしれない。
 だって、その時期にヴァイオリンを弾いていたとき、自分がなにを考えどう思っていたのかよく覚えてないんだもの。
 つまり。
 あの出来事――無差別テロに関する一連の出来事でいちばん変わったのは……もしかしてわたし自身?
「……そう……か」
 天啓を受けたように、頭の中の霧が晴れた。
 やっとわかった。
 冷静になって、目を逸らさずに現実を直視することができた。
 わたしはただ逃げるために、ヴァイオリンを弾いていたんだ。
 ヴァイオリンを弾いているときは、つらいことも哀しいこともなにも考えなくていいから。 だからヴァイオリンに傾倒したんだ。
 人に感動してもらいたいとか、もっと聴いてもらいたいとか、そんなことはいつからか二の次になっていた。
 人のことを考える余裕を失念し、自分の弱い精神を守るためだけに音楽に傾倒した。
 テロ事件以降、わたしがいままで以上に、それこそ死に物狂いでヴァイオリンに傾倒したのも、死に物狂いで逃げたい現実に直面していたからなんだ。
 ヴァイオリンから逃げ出したわけじゃない。
 現実から逃げ出して、ヴァイオリンだけを心の拠り所として、歪んだ形で依存したんだ。
 わたしの音楽を認めてくれた人たちがいる。
 わたしの音楽を求めてくれた人たちがいる。
 そのことに対して、どうしてわたしは感謝の気持ちを忘れてしまったんだろう。この時点でもう、わたしは自分の過ちに気づくべきだったんだ。
「わたしの……馬鹿」
 悔恨の声が小さく響く。
 そうだ。わたしは大馬鹿だ。 
 音楽は人のためにある――クラウザー先生がわたしに対してよく言っていた言葉。それはもう、耳にたこができるくらい言い聞かせられた。
 クラウザー先生から教えてもらったことを、わたしはなにも理解していなかった。
 わたしは人に感謝することを二の次にして、自分のことしか考えることができなくなってしまった。
 だからそのつけが半年前、お母さんが息を引き取ったことをきっかけにして、人前でヴァイオリンが弾けなくなるという形で支払われた。
 念願のプロデビューまで果たしたのに、わたしは自身の弱さのせいで、それを棒に振ってしまった。
 対価はあまりにも高かった。
 でも今回、月城くんと話したことで、少しは冷静になれた気がする。
「脆いね……わたしって……」
 例のテロ事件がきっかけだったとしたら、それから約三年間、わたしはなにをやっていたんだろう。
 そんなわたしを黙って見守ってくれていたクラウザー先生に、もう合わせる顔がない。
 クラウザー先生、ごめんなさい。
 こんな出来の悪い弟子で。
「ぅ……ぁ」
 不意に涙が溢れてきた。
 放課後、天宮くんの胸で散々泣いたのに、まだ涙が残っていたみたい。
 哀しくて。
 簡単なことに気づけなかった自分が情けなくて。 
「……クラウザー……先生」
 会いたいな。久しぶりに。
 そして謝りたい。
 いままで大事なことに気づかなくてごめんなさい、と。
 ……元気にしてるかな。
 最後に会ったのはいつだろう……そんなに時間は経っていないはずなのに、もう何年も会ってない感覚。
 クラウザー先生はわたしが日本に帰国するとき、空港までわざわざ見送りに来てくれた。少し体調を崩してたみたいだったけど、笑顔で送り届けてくれた。
『ユイ……しっかりな』
 こんなわたしに。
 未熟者のわたしに。
 めったに見せない笑顔を添えて見送ってくれた。
 わたしが人前でヴァイオリンを弾けなくなっても、怒ることなく見守ってくれた。
 普段のレッスンでは鬼のように厳しいのに。
 クラウザー先生が怒らなかったのはきっと、わたしの過ちを自分自身で気づいてほしかったからだ。
 会いたい。
 ……あ。
 涙が、また――
「だめ……わたしっ」 
 こんな情けない顔で、クラウザー先生と顔を合わすなんてできない。もっとしっかりしなくちゃ。
 お父さんのこともそうだ。いますぐ話し合ったりするのは無理かもしれない。
 でも、もう少し冷静になれたら、そのときは――
 ……変わろう、わたし。
 ベッドから上体を起こし、ぱんっ、と両の頬を叩く。
「……あ」 
 思い出した。
 叩くといえば。
 月城くんの頬を、よりにもよって思いっきり叩いてしまった。
 気が動転していたとはいえ、あれは軽率すぎた。
 ……わたしってやつは。
 謝らないといけない人が三人いる。
 クラウザー先生。
 月城くん。
 それから天宮くんもだ。
 彼の胸を借りて一時間以上も泣き腫らしてしまった。それだけでも申し訳ないのに、放心状態のわたしをここまで送ってくれた。
 もう恩だらけ。謝るだけではなく、彼には感謝の気持ちを伝えないといけない。
 自分のことだけ考えていたいままでのわたしには、ついさっき別れを告げた。
 だから、いまから変わっていかないといけない。
 できることからやろう。
 時計を見た。時刻は九時ちょっと前。随分と長い時間、考え込んでいたみたい。
 枕もとに置いてあった携帯に手を伸ばした。
 


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