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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第十章 02

「はい」
 哲郎がどこからかポケットティッシュを取り出し、俺に差し出してきた。
 鼻血を拭け、ということか。
「……ずいぶんと用意がいいな?」
「きみを殴ることは最初から決めていたからね」
 だからこうなることは予想していた、と。
 どこまでも憎めないやつだ。
 ティッシュを千切って丸め、鼻に突っ込んだ。
「でもまさか、蹴りが出るとは自分でも思わなかったよ」
「……おいおい、ということは、俺はそのまさかで蹴られたのか? 痛かったんだぞ、あれ」「悪かった。……でもさ、きみがいけないんだぞ。秀一が最初から本当のことを言わないから」
「悪かったな、まわりくどくて」
「そういえば、綾瀬さんにもまわりくどい説明をしたらしいね」
「あ?」
「金儲けがどうとかいう話だよ。たしかにきみはお金を稼ぐためにピアノを弾いていたことは事実だ。でも、それはあの子を――」
「うるさいな」
 吐き捨てるように言った。
「な、なにが?」
「いいんだよ、あれで。嘘はついてない」
「たしかにそうだけど……」
 あのとき本当のことを言っていれば、綾瀬由衣にひっぱたかれることはなかったと思う。
「真実を話して、それが彼女の中で美化されて、俺に対してまた妙な尊敬の念を抱かれたらたまらないだろ」
 あのとき、俺は綾瀬由衣を徹底的に突き放す必要があった。
 そして、綾瀬由衣にも俺に完全に突き放された、という実感が必要だった。
「はあ……ややこしい話だね……これは」
 ため息混じりに哲郎は言う。どっと疲れが出たような様子だ。
 でもまあ、これで哲郎は納得してくれるだろう。このまま仲たがいして得がたい友人を失うような、最悪の事態は避けられそうだ。 
「秀一」
「ん」
「殴ったり蹴ったりして悪かった」
「ああ、それはもういい」
「だからと言ってはなんだけど、僕を殴ってくれないか」
「…………はあ?」
 またこいつはおかしなことを。
「だって、このままじゃ不公平じゃないか」
「気にするなって……ああ、そうだ。これは貸しにしておこう。うん、それがいい」
「おいおい、それじゃあ……」
 気が済まないと、暗にそう言っている。
「じゃあ哲郎、ひとつだけ答えてくれ」
「うん?」
 俺は爆弾を落とした。
「おまえ、綾瀬由衣に惚れただろう?」
「なっ――!?」
 爆弾は無事に爆発してくれたようだ。
 そのときの哲郎の顔は、かなりの傑作だった。しかしそれは一瞬で、哲郎はすぐに自分を取り戻した。
 鼻で笑ってやろうと思ったけど、丸めて突っ込んだティッシュが勢いよく発射されそうだったので、すんでのところでこらえた。
「……気づいたのか?」
「なんとなくな。おまえが今回ほど、他人の心に深く踏み込んだことはない」
 哲郎は一見、爽やかで人当たりがいい。人付き合いはお手のもの、と思われがちだ。
 でも実は、他人に対して強固なまでの壁が内面に潜んでいる。
 哲郎は必要以上に他人に干渉することをしないし、逆をいえば、他人に干渉されることもどこかで嫌っている。これは、長い付き合いのある俺ぐらいしか見抜けられないだろう。
 ……俺と似ている部分。どこか他人とは思えない部分があるのは事実だ。哲郎との縁が切れない理由も、そのあたりにあるのかもしれない。
 今回の俺と綾瀬由衣の一件は、そんな哲郎にしては特別な、例外的な出来事のようだ。
「見抜かれたのか……この僕が」
「察しがいいのはおまえだけじゃないぞ。俺がヨーロッパを駆けめぐっていたのは伊達じゃない」  
 大人の人間関係というのは面倒くさい。それは全世界共通事項だ。
 上手な人間関係を築ける人は、人間に対する観察力に長けている。俺はそれをヨーロッパの音楽業界で学ぶことができた。
 ……もっとも、いま現在、日常生活でその能力が発揮されているかは置いておくとして。
「はあ……弱みを握られたな」
「そうだな。おまえにしてはめずらしい」
 哲郎の隙は貴重だ。
「……たしかに、綾瀬さんに惹かれ始めていたのは事実だ」
 潔く認めた。
 だから俺の綾瀬由衣に対する暴挙が許せなかったのだろう。
 こいつが怒るなんてめったなことじゃありえない。それぐらいに哲郎の内面的な自己管理は徹底している。
「いままで出会ったことのないタイプだったからね、綾瀬さんは。純粋で、素直で、不器用で……」
 哲郎や俺が持ってない要素ばっかりだ。
 別の出会い方をしていれば、もしかしたら俺も――
「でも、今回のことで、僕の想いは決して通じないとわかった」
「なに?」
「綾瀬さんを救えるのはね、世界中を探しても、やっぱりきみだけだよ秀一。たったいま、そう確信した」
「なんでそうなる」
「そういうものだよ、きっと」
 哲郎は夜空を見上げた。俺もつられて頭上を見上げる。
 このあたりは東京のような大都会と違い、光源が少ない。だから望める星の数も多い。
 雲ひとつない、綺麗な星空が天上に広がっていた。 
「理由になってないぞ」
「いいんだよ……ところで秀一」
「……まだなんかあるのか?」 
「綾瀬さんが立ち直れなかったら、きみはどうするつもりだ?」
 哲郎は真剣な眼差しを俺に向け、言葉を投げかける。
「……別に、どうもしないさ。ただ、そうなれば彼女のヴァイオリニストとしての物語が幕を下ろす。そして俺はもう彼女に関与しない。それだけの話だ」
 哲郎は眉をひそめた。
「あのさ秀一、こういうときはさ、『俺は彼女が立ち直ってくれることを信じている』とか、気の利いた台詞を言うべき場面じゃないのかい?」
 そんなドラマのようなくさい台詞が言えるか。 
「だって実際問題、俺は彼女のことよく知らないし」
 はじめてちゃんと会話したのは昨日だ。
 しかも、俺が一方的に追い詰めただけの会話とは呼べない会話――もはや、はじめて話したとは思えないほどの修羅場になってしまったけど。
「冷たいんだね、きみは」
「それは違う。現実的、だ」
「わかった。もういいよ。僕だけが彼女のことを信じるから」
「それは勝手だけど、彼女は思うほど強くないんじゃなかったのか?」
「うん。それは本当だ。でも、弱くもないかな」
 また意味のわからないことを言い出した。
「は? どっちだよ」
「どちらも。人には二面性があるってよく言うでしょ? たぶんきみとか綾瀬さんは、その二面性が顕著なんだよ。芸術に秀でた人ってそういうタイプが多いって話は、どうやら本当みたいだ」 
「なら、俺のどこに二面性があるんだ?」
「さっきみたいに現実的で冷たい一面と、この上なくお人好しでやさしい一面とかだね。たぶん、きみの本質は後者のほうにあると思う」
 聞き捨てならないこと抜かしやがった。
「……俺のどこがやさしいって?」
「だってそうでしょ? そうでもなければ、ひとりの女の子のためだけにピアノを弾き続けるなんて不可能だ。綾瀬さんに対してもそう。自分が悪役に徹しても、彼女のことは救おうとしたし」
「……だから、それは買いかぶりすぎだ」
 救おうとしたわけではなく、救える可能性があったから、俺はちょっときっかけを与えただけにすぎない……って、この言い方だと、大上段からの目線でかなり偉そうだやっぱり。 俺は何様だ。
 綾瀬由衣はあれだ。少しもったいない気がしただけだ。
 目の前にあるたぐい稀なヴァイオリンの才能を潰すなんて、一度でも音楽に傾倒したことのある俺にはできなかった。ただそれだけの話。
「どうだか」
 ふふ、と哲郎は笑う。
 こいつは、要所要所で俺の本質を捉えているからあなどれない。いちばん敵にしたくない相手だ。こいつと対立するのは、さっきのが最初で最後であってほしい。
「ねえ」
「なあ」
 言葉が重なった。
「なんだい?」
「いや、俺のは後まわしでいい。哲郎こそなんだ?」
「あー、ええとね……実は」
「ああ」
 俺は先をうながした。
「昨日の夜、綾瀬さんと電話で話したんだよ」
 神妙な様子の哲郎。真剣な話のようだ。
「……おまえからかけたのか?」
「違う。彼女からだよ」
「……へえ」
 人は極限まで追い詰められたら、ふつうは外の世界との接触を拒むはずだ。
 俺に散々追い詰められても、彼女にはまだ自分から外の世界へ向かって行動する底力があったということになる。
 哲郎が綾瀬由衣のことを弱くもないと評したのも、あながち過大評価ではないようだ。
「で、なにを話したんだ?」
「心配かけてごめんなさいという謝罪と、あと、きみのことを話してたよ」
「俺?」
「そう。……月城くんには感謝しているってさ」
 どこか悔しげな哲郎。
「……感謝だって?」
 予想もしていない言葉。
「うん。きみのおかげで、わたしは自分自身と向き合うことができた、だからありがとうって言いたい。そう言っていたよ。どこか吹っ切れた様子だったね」
「……そうか」
 本当にそう言ってたのだとしたら。
 綾瀬由衣が弱い?
 もしかしたら本当は……
「僕の想いが通じないと悟ったのも実はそのせいさ。ああ、もう彼女は月城秀一にしか心を開かないんだなって」
「おいおい……そんな馬鹿な」
「そんなことないさ。れっきとした事実だよ」
 俺たちはそれ以上なにも言わなかった。
 沈黙。
 静寂ではない。
 波が砂浜に押し寄せる穏やかな音だけが、俺と哲郎の間に流れている。母親の胎内にいるような落ち着く響きだった。
「それで、秀一はなにを言おうとしたんだい?」
 俺は答える代わりに空を見上げた。
 哲郎もその視線を追う。さっきとは逆の構図だ。
 先ほどと変わりのない星空が、俺たちを見下ろしていた。
 満天の星空に対して、下手な装飾はいらない。
 ただ美しい。それだけだ。
「なあ、哲郎」
 つぶやくように言った。
「綾瀬由衣のヴァイオリン、聴いてみたいと思わないか」
 哲郎が隣で驚いている。まさか俺の口からそんな台詞が出てくるとは思ってもみなかったんだろう。
 綾瀬由衣は、いったいどんな旋律を紡ぐのだろうか。
 歪んだ形とはいえヴァイオリンに傾倒し、必死に努力を重ねていたであろう彼女。
 そして、あの「弦帝」ベルナルド・フォン・クラウザーが認めた才能。
 そんな彼女に、俺はどこか興味を抱いていた。
 ……ああ、ということは。  
 俺は彼女に立ち直ってほしいのかもしれないな。
 ふと、そう思った。
 この気持ちは哲郎も同じだろう。
 俺の内心をよそに、夜はさらに更けていった。 


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