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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第十一章 01

 天野宮自然公園の一角に、厳かな雰囲気に包まれた霊園がある。
 俺はいま、その中をひとり歩いていた。
 ここは、いわゆる日本古来の墓地とは一線を画している。赤い煉瓦で舗装された歩道に、道端に植えられた色とりどりの花々。墓と墓の間隔はかなり開いていて、窮屈さを感じさせない。どんよりとした暗い雰囲気ではなく、明るい雰囲気に包まれた外人墓地のような場所だ。
 その一角、墓が置かれた中ではもっとも標高の高い区画に、月城家の墓があった。墓のすぐ後ろは胸ほどの高さの塀があり、その向こう側は切り立った崖だ。
 洋風の墓石。そこに刻まれる三人の名前。
『月城光太郎』――父さん。『月城美由紀』――母さん。
 そして。
『月城桃子』――義理の妹にして、俺がこの世でもっとも大切にしていた少女の名前。
 しばらく墓石を眺めたあと、とりあえず墓の周囲に生えている雑草を抜き取り、清めたところで墓石に水をかけた。
「久しぶり」
 線香の香りが漂い始めた頃、墓石に向かって声をかける。この前ここに来たときはそう……父さんと母さんの命日だったから、実に四ヶ月ぶりだ。
 今日、この日――桃子が天国へと旅立った命日だった。
「……桃子」
 鮮烈なまでの記憶が蘇る。
 その頬に触れるだけで、その細い体を抱きしめるだけで、それこそ世界中の人々が一生に感じるしあわせを全部足しても釣り合わないような、極上の幸福を抱いてくれた桃子。
 触れ合う――そんな人間としてごく当たり前な、ありふれた行為だけさえあれば、彼女は最高にしあわせだった。あそこまでしあわせのハードルの低い人間を、俺は桃子以外に知らない。
 桃子は体が弱かった。心臓に先天的な要因があったようだけど、詳しい原因は、結局最後までわからなかった。
 でも確実に、年を追うごとに彼女はだんだんと弱っていった。ヨーロッパへ渡ってから、桃子は何度も入退院を繰り返し、何度も手術を受けるようになった。当然、それには膨大な費用がかかる。俺がプロとしてピアノを弾いていたのも、その費用を稼ぐためだ。
 ただし、いちばんの理由はそうじゃない。
 一生働かないでも暮らしていけるだけの金額を、早く稼ぎたかった。そうすればさっさとピアニストを引退して、日本へ帰国できた。そして桃子と一緒に静かに暮らすことができた。
 ほかにはなにもせず、ただ桃子のそばにいられる。たったそれだけで俺は満足だった。桃子もきっと、それを望んでいたと思う。
 そんな生活を夢見て、俺は桃子のことだけを考えて一心不乱にピアノを弾き続けた。
 俺はピアノが好きだ。
 だけど、桃子に比べたらピアノなんてどうだっていい。たとえ指が潰れて一生ピアノを弾くことができなくなっても、桃子さえいれば構わない。俺の演奏で他人が感動しようがしまいが、桃子さえいればどっちだっていい。
 俺がプロとしてピアノを弾いていた理由は、そんな利己心の塊だった。
 プロになる前のほうが、理由としては尊かったかもしれない。けど、いつからかそんな利己的な考えに変わっても、人々の反応は変わらなかった。むしろ、いままで以上の感動と感嘆の意を表してくれた。
 不気味だ――こんな想いが、やがて俺の心を支配していった。
 そして二年前の今日、桃子は亡くなる。
『秀ちゃんはピアノを弾いて……わたしのことは、もういいから……』
 そして、続く言葉。
『……いままでありがとう。わたしは、もうひとりでも大丈夫だよ……だから、秀ちゃん……しあわせに……なってね……』
 そう言い残し、彼女は静かに息を引き取った。
 あんなに安らかな死に顔を、もう二度と見る機会はないだろう。ただし、彼女が本当にしあわせな気持ちで旅立ったのか、その真意を知る機会はもう永遠に訪れない。
 桃子はもともと頭の悪い子じゃなかった。だから自分が望めば、ただひとこと「わたしと一緒に死んで」と言えば、俺があとを追うことも承知していたはずだ。
 でも、桃子はそれを望まなかった。最後になって、彼女は俺のしあわせだけを祈り、死んでいった。
 俺はそこで、すがるものを失ってしまった。桃子は死ぬことで俺から解放されたのかもしれない。
 でも、残された俺は? 俺はどうなる。桃子がいなくなったら、それこそ生きていく理由がないのに。
 それでも俺には桃子を恨むことなんかできっこない。だから俺は自暴自棄になり、好きだったピアノを投げ出した。
 ピアノを捨てたんだ。桃子を失ったとき、あらゆることに嫌気が差した俺は、ピアノを捨てた。本当に、すべてがどうでもよくなった。自分の生死すら、どうでもよくなった。
 それでも死ねなかったのは、やっぱり桃子の最後の言葉があったからだと思う。
 桃子が旅立ったあとすぐ、俺はピアニストとしての地位や名声を完全に放り出して日本へ帰国し、天野宮学園へと入学する。
 そんな感じで今日までの約二年間、俺は抜け殻のような生活をしていた。
 そして先日、目の前に彼女が現れた。綾瀬由衣――俺のピアノを聴いて救われたという、彼女だ。
 ――そのとき、不意に。
 なにかの音が聞こえた。
 ……歌……いや、違う。
 人の声のような温かみを持っている。でも、明らかに歌声とは違う音。
 耳を澄ました。
 ……この旋律。地球の裏側にいても聴こえてきそうな、力強い調べ。でも同時に、包み込むようなやさしさも秘めている。
 ……ヴァイオリンの……音色?
 しかも、安物のヴァイオリンと並の演奏者ではない。ここまでの響きは、選び抜かれたヴァイオリンと、かなりの研鑽を積んだ演奏者にしか紡ぐことができないレベルの音だ。
 ……似ている。
 弦帝こと、ベルナルド・フォン・クラウザーが奏でたヴァイオリンの旋律に。
 俺が唯一尊敬した、彼の音楽に。でも、彼とは別次元の色も持っている。それがなんなのか、うまく説明はできないけど。
 こんな心地いい音、いままで聴いたことがあっただろうか。荒んだ心の棘が綺麗さっぱり丸まっていくような、そんな感覚。
 ……まさか、な。
 おもむろに歩き出した。
 目指すはあそこ――天野宮自然公園が全国に誇る展望台。
 音はそこから、光のように降り注いでくる。


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