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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第十一章 10

 穏やかな波が、すぐ目の前にある砂浜に打ち寄せている。
 感慨深げにそれを眺めたあと、歩みを進めた。
 周囲に人影がないのは幸いだった。
 この浜は遠浅で岩礁も多いから、もともと海水浴には向いてない。しかも、いまはまだ泳げるような季節じゃないから、普段から人が少ない。
 だから俺と桃子は、ひまを見つけてよくここに来たんだ。
 誰もいない砂浜に座って、お互い肩を寄せ合っていた。ほかにはなにもしない。無言で押し寄せてくる波を眺めていた。
 思えば、あのときが俺と桃子にとって、いちばんしあわせだったのかもしれない。
 ヨーロッパに渡りプロのピアニストになってから、俺は社会という余計なしがらみに組み込まれてしまった。ピアノを弾くことが一種の義務になってしまった。
 日本にいたときはまだ余計なしがらみなどなく、桃子のことだけを考えることができた。 ピアノも好きなときに好きなだけ弾くことができた。
 足に波が届く。冷たい海水が靴の中に浸入してきても、歩みを止めなかった。
 この冷たさを越えれば、俺は桃子に会える。
 またあのぬくもりに触れることができる。
 さすがは遠浅の海。しばらく進んでも、膝より上が海水で濡れることはなかった。
 さっさと行き――いや、逝きたいのに。
 桃子。
 会いたい。
 早く――
「――っ」
 しばらく進むと、がくん、と足場が急になくなった。よろけるように前のめりになり、俺は頭まで沈んだ。
 すぐに体勢を立ち直した。いつの間にか胸までが海面の下へ沈んでいた。急に水深が深くなっていたようだ。
 再び歩みを進める。さっきまでとはうって変わって、急に勾配がきつくなっていく。
 首までが完全に沈んだ。
 それでも臆することなく俺は歩んでいく。
「……?」
 不意に、俺の名を呼ぶ声がした。
 一瞬、桃子の声かと錯覚したけど、どうやら違うらしい。
 声は背後の砂浜から。しかも男の声だった気がする。さらに加えてかなり悲痛な声の響き。
 それならひとりしかいない。
 ……哲郎。
 相変わらず目聡いやつだ。
 ……ああ、そういうことか。
 理解した。タクシーの中から哲郎を見たとき、あいつは誰かと電話しているようだった。
 それが綾瀬さんなら、この場所に哲郎が現れても不思議ではない。
 たぶん、彼女から俺の様子を聞いたんだろう。それでここまで駆けつけてきたんだ。あいつなら俺の思考を見抜いて、ここで死ぬことを推察できるはずだ。
 でも、哲郎に助けられるわけにはいかない。
 俺はここで死ぬんだから。
 邪魔しないでくれ。最後のお願いだ。
 もう少しで――俺は。
 桃子。
 彼女に会える。
 温かい彼女に。
 何物にも代え難い、大切な――
 ――ああ。
 ついに、頭まで完全に沈んだ。
 呼吸を整えていなかったから、すぐに息が苦しくなっていった。
 けれど怖くはない。
 死の先に桃子がいるのなら、死は恐れるに値しない。
 涙が溢れているのが、海水の中でもわかった。熱い涙が、冷たい海水と混じっていくのをおもむろに想像した。
 ごほっ、と大きな息の塊を吐いた。口の中に海水が流れ込んでくる。
 ……しょっぱい。  
 ああ、これはたったいま流した涙のしょっぱさかもしれないな――そんな詩的なこと考えられる余裕も、もうわずかだろう。
 意識が遠のいていく。 
 やっと……桃子のところへ。
 肺の中の空気もそろそろ尽きるはずだ。
 ――だが。
「――っ!?」 
 急になにかに腕をつかまれ、俺の意識は現実へ戻された。
 力強い腕が、俺の体を海上へと引き上げようとしている。
 ……哲郎か?
 俺の最後の願いは、どうやら届かなかったらしい。
 残りわずかな力を振り絞り、その腕を引きはがそうとした。
 いいから離してくれ。
 俺はもう死にたいんだ――そんな想いを力に込めた。
 でも、俺をつかむ腕はいっそう力を強くし、意地でも離そうとしてくれなかった。
 ……ああ。
 もう、だめ……だ。
 体に力が入らない。
 意識は体とともに、再び深い海の底へ沈み始めた。
 ――だが、再び。
「――ぁ?」 
 朦朧とした意識の中で俺は、なにかに包まれた気がした。
 冷たい海の中でもなぜかそれは温かいような、不思議な温度を感じた。
「――んっ!?」
 急に唇が塞がれ、大量の空気が肺へと流れ込んでくる。
 そこではじめて見えた。
 俺をつかんでいたのは、親友の天宮哲郎ではない。
 俺の真相に触れ、逆に俺もそいつの闇を暴いた人物――
 綾瀬由衣だった。


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