BACKTOPNEXT

光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


第十一章 06

「う……ぁ」
 なんで俺はいま、泣きながら走っているんだ。
 久しく触れてなかった人のぬくもりに、ヴァイオリンの音色を通じて触れているからか? ……ちくしょう。
 そんな非科学的なことがあってたまるか。
 そんなことで俺は泣きながら疾走するという、あからさまな不審者になっているのか。
 でも、なんでこんなに温かいんだ。暑くても寒いと感じていた俺の凍えきった心は、どこに消えた。
 文句を言わなくちゃ。
 ヴァイオリンを弾いているやつに。
 正面から文句を言ってやる。
 さっきからずっと、言葉ではない言葉が、俺の脳に直接注ぎ込まれている。
 ――あなたはひとりじゃない。
 ――あなたには、いまでも見守ってくれる人がいるでしょう?
 天宮哲郎。憎たらしく微笑んだあいつ。
 母さん。誰も敵わない圧倒的な包容力で、俺を包んでくれていた。
 父さん。理知的な瞳で、常に俺を見守っていてくれた。
 そして。
 桃子。最後の最後で、俺のしあわせを願った彼女。
 最後の最後で彼女は悟ったんだ。自分たちが異常な関係であることを。お互いに依存し合う、歪んだ関係であることを。
 きみのいない世界で。
 俺は本当に、しあわせになっていいのか?
 つい、そんなことを思ってしまう。
「はあっ――はぁ――」
 そして俺は、展望台に到着した。 
 そこには、唖然とするほど多くの人々が集っていた。
 俺が来た道とは別の道からも、次々と人が集まってくる。
 人々が観客となって視線を向ける先は、ただ一点だった。
 展望台から見渡せる天野宮の街並みを背景にして、ひとりの少女がヴァイオリンを弾いている。
 見間違えるわけがない。
 綾瀬由衣、その人だ。
 楽しそうに。
 嬉しそうに。
 しあわせそうに。
 彼女を見る人々も、もれなくその感情をプレゼントされている。
 綾瀬由衣の奏でる音楽がいま、たくさんの人々の心をひとつにしていた。
 空間を圧倒的に支配する至高の旋律。それは、人が抱くありとあらゆる感情が、その音色を通じて完全に表現されているようだった。
 時には力強く。
 時には儚く。
 時には陽気に。
 そして、もはや言語で表すことのできない感情の流れ。
 それはもう、「歌」と表現しても過言ではない。
 ヴァイオリンが歌っている。
 言葉よりも鮮明に、人の声よりも鮮烈に心に響いてきた。
 この場にいる観客たちは、ヴァイオリンなんて誰が弾いてもそれほど変わらないだろうという先入観があることだろう。
 しかし、その先入観はたったいま、跡形もなく崩れ去ったはずだ。
 この音は違う。徹底的に、根本的にほかのヴァイオリンの音とは違う。
 音ではないなにか得体の知れないものが脳髄を直接揺さぶりかけるような、不思議な感覚を抱く。
 心が洗われて不安が一気に払拭されるような、心地よい爽快感がある。
 これを聴いて感動しない人間など、存在しない――根拠もないのに、そう確信した。
「……あ……」
 展望台の出入り口近くにいた俺の声は、ヴァイオリンの旋律に紛れる。
 ふと思う。
 「綾瀬由衣」という音楽がいま、この空間を完全に支配している。そして、すべての観客を、例外なく感動させていた。
 俺が一度は破壊した足場から、彼女は這い上がってきた。
 それどころか、さらなる進化を遂げて戻ってきた。ヴァイオリンを人前で弾くことに絶望を抱いた綾瀬由衣は、もういない。
 彼女は文字どおり生まれ変わった。
 これだけの音色。
 希望という名の「光」が端々に満ちた、至高の音色。
 俺が紡いだピアノの旋律なんて、もしかしたらこのヴァイオリンの旋律と比べたら、足下にも及ばないんじゃないか?
 ……いや。
 それは違うか。
 比べることは重要じゃない。
 それを聴いて、誰がどう感じたかが重要なんだ。
 綾瀬由衣のように、俺の旋律で救われた人もいるんだろう。そしていま、この瞬間にこの音色で救われている人もいるはずだ。
 ……これが、音楽。
 感情の交差――人のぬくもり――触れ合い――これらを共有するということが、どれだけ大事なことなのか、俺は知っていた。
 人のぬくもりやつながりからしか、音楽の感動は生まれない。俺はそれらの事実から目を背けていただけだ。
 目を背けていたのは綾瀬由衣だけじゃなかった。
 俺自身も、か。
「……はは」
 文句を言うどころか、俺は彼女に感謝しないといけないじゃないか。
 ……わかった……やっとわかったよ桃子。
 これが答えなんだ。
 やがて。
 ゆっくりと歩むような速度で、ヴァイオリンの旋律が終わった。
 役目を終えた音たちは、静かにその場から退散していく。俺は名残惜しさを、いつまでも感じていた。
 そして、観客の中からまるで大爆発するような拍手が巻き起こった。
 それぞれ思い思いのやり方で、綾瀬由衣の演奏を絶賛した。
 デートに来ているカップルや、犬の散歩に来ている老夫婦、家族連れ……彼らがどれほど素晴らしい表情をしているのか、もう語るまでもない。
 拍手や賞賛の怒号が響く中、俺はヴァイオリンを弾き終えた綾瀬由衣に近づいていく。  そして語りかけた。
「立ち直った……みたいだな」
「うん。おかげさまでね」
 綾瀬由衣――いや、綾瀬さんが答えた。
 俺がここにいることを驚いてないってことは、俺がここにいてもおかしくないことを知っていることになる。
 ……哲郎め。絶対にあいつの差し金だ。覚えていろよ。
「ちゃんと来てくれてよかった。月城くんが聴いてなかったらどうしようかと思ってたんだ」
 彼女の笑顔は、俺の邪心を振り払うほど美しかった。背景にある景色ですら、彼女の前では霞んでしまう。
「あんなに追い込んだのに、どうしてそんなにしあわせそうな表情で演奏できるんだ?」
「できるよ。だってわたし、ヴァイオリンが好きなんだもん」
 さも当然に、彼女は答える。
「……好きって、そんなひとことだけで?」
「うん。それに気づけたのは、月城くんのおかげだよ」
 俺は知らなかった。絶望の淵から立ち上がった人間が、ここまで素晴らしい表情をすることを。
 好き……か。
「月城くん、このあいだ、ひっぱたいちゃってごめんなさい」
 綾瀬さんは頭を下げた。
 そういえばそんなこともあったなと、他人事のように思い出した。
「それはもういいよ。俺が悪かったんだし」
 もう済んだ話だ。俺は気にしない――そんな俺の雰囲気に気づいたのか、綾瀬さんはほっとしたような仕草を見せる。
「うん……あの、もうひとつだけ聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
「月城くんは、いまでもピアノ好き?」
 もう、目を背けない。
「ああ。大好きだ」
 本音だった。たぶん桃子は、俺のこの気持ちに気づいてしまったから、最後にあんなことを言ったんだろう。
 ……いままで気づかなくてごめんな、桃子。
 あの子のほうが、俺のことをわかっていたみたいだ。
「よかった」
 嬉しそうな綾瀬さん。
「綾瀬さん」 
「えっ――?」
 俺は彼女を抱き寄せた。
 華奢な体が俺の腕の中に収まる。
 お互いの吐息を感じられるほどの距離。
 彼女の体温が一気に沸騰したのがわかる。
 周囲から黄色い歓声があがるのは気にしない。
 ……こんなにも、人の体温は温かい。
「つ、月城くんっ!?」
「綾瀬さん、きみのおかげで、俺も気づいたことがある」
 耳元で囁く。
「……う、うん」
 戸惑いつつも、彼女は耳を澄ましてくれた。
「人のぬくもり……こんなに温かいものを、俺は桃子以外に知らなかった……いや、正確には知ろうとしなかった。世界は広いのに、俺は狭い殻の中に閉じこもっていたんだ。その事実に気づくことができた。きみのヴァイオリンのおかげだ」
 綾瀬さんはただ黙って、俺の言葉に耳を傾けている。
「でも、桃子――それが俺の『世界』のすべてだ。いまでも、桃子より大切なものは存在しない。これから先も、それは永久に変わらない」
 簡単な話だった。答えは自分の中にあったんだ。散々悩み苦しんでいた迷いにはたったいま、別れを告げた。
 だから俺は、覚悟を決めた。 
 次の言葉が、綾瀬さんの時間を止めることになっても。


BACKTOPNEXT

総合TOP  /  WORKS TOP

Copyright © 2017 One Night Works/悠城健太朗, All Rights Reserved.