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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


間奏曲 ― Interlude ― 04

 孤児院の中から、ピアノの音色が聴こえてきた。
 築数十年という木造建築の壁には、防音といった機能はほとんどない。
 透き通るようなピアノの音。
 普段はそんなもの気に留めない。
 しかし桃子は、この旋律にいままでにない不思議なものを感じた。
「…………?」
 そういえば、孤児院の先生が言っていた気がする。
 今日は午後からピアノの演奏会があるから、遊びに出かけてもお昼までには戻ってくるように――そんなこと自分には関係ないから、すっかり忘れていた。
 だからいままで自分は、施設の裏側でいつものようになにもすることなく、ぼーっとしていたのだ。
 話しかけてもあまり反応を示さないから、最近では先生たちにも放っておかれることが多い。
 桃子は、無意識のうちに旋律が流れてくる方向へ足を向けた。なにがそうさせたのかはわからない。ただ体が勝手に動いた。
 庭に面した広い室内に、大勢の人々の気配があった。
 桃子はそっと物陰から中の様子をうかがった。孤児院の子どもたちや職員などが集まり、部屋の奥のほうへ視線を向けている。
 子どもたちは膝を抱えて座り、大人たちは子どもたちを囲むようにして傍らに立っていた。
 そこは、わくわく広場と名づけられた、この孤児院の中心的な場所だった。
 時には食事をするための食堂となり、時には勉強するための教室となる。また、雨の日にはみんなでここに集まり、お絵かきや折り紙などで遊んだりもする。
 みんなでわくわくしながら遊ぼう、だからわくわく広場――しかし、桃子にはなにが「わくわく」なのか、まるでわからなかった。
 古いグランドピアノは部屋の奥に置かれている。集まったみんなが視線を向けているのは、そのピアノで間違いなかった。
 桃子はつい、そのピアノから流れてくる音色に聴き入ってしまった。
 どこかで聴いたことのある曲だった。
 ゆっくりと心地よく響いてくる調べは『パッヘルベルのカノン』という題名であまりにも有名な曲だったが、桃子には知るよしもない。
 それから、何度か曲が変わった。
 あらゆる雑念を忘れて、桃子は旋律が紡ぎ出す世界観へ没頭する。
 はじめて聴く曲がほとんどだった。
 時間が経つのを忘れていた。
 はじめての感覚に戸惑っていることすら、やがて忘れていった。
 空気を震わせて響くその旋律に、桃子は言葉に表せない未知の感覚を抱いていた。
 空間に響きわたるピアノの旋律。それは地球の裏側にいても聴こえてきそうなほど、神聖で澄みきった調べだった。
 その旋律が、少女の中に眠る未知の感情を呼び起こす。
 楽しいこと。
 嬉しいこと。
 悲しみや切なさも。
 そして、しあわせ――幸福ということ。
 いままで感じたことのなかったありとあらゆる感情が、ピアノの旋律に喚起されて産声をあげた。
 少女の内面で感情の波がうねり、激しい奔流となっていく。
 旋律が転調するのに合わせて、その波も次から次へと形を変えた。
 桃子にとって、それは本当の意味で未知なる感覚だった。
 感情を抱くという気持ちを、心が動くという情感を、桃子はこの瞬間まで知らなかった。
 そして、桃子はピアノがここまで神秘的な音を奏でるということも知らなかった。
 音を鳴らす楽器のひとつ――そのような認識しか持ち合わせていなかった。
 でも、この音は違う。なにかが決定的に違う。
 そう――これは。
 ただの音ではない。
 光だ。
 音は光に変換されて、桃子の全身をやさしく包み込む。温かい光。希望に満ちた光。
 それは桃子がいままでずっと触れたくて、それでも触れることができなかったものだった。
「――――ぁ」
 桃子の頬を、熱いものが流れる。
 ひとすじの涙。止めどなく溢れてくる想い。
 自分がどうして涙を流しているのか、理解できなかった。
 たしかなのは、喜怒哀楽を超越したなにかが、ピアノが紡ぎ出す旋律を通じて、心を揺さぶっていることだけ。
 やがて――
 最後の一音が響いた。その音は空気に霧散していく。ゆっくりと歩くような速さで、静かに消えていった。
 まもなく訪れたのは静寂。空間を支配したのは、狂おしいほどに切ない静謐だった。
 時間が止まった――少なくとも桃子にはそう感じられた。
 ピアノの演奏を聴いていたのは一秒だったのか、それとも数時間だったのか。まったく判断できないほどの奇妙な感覚。
「――っ」
 ああ……やだよ……
 もう終わりなの?
 ――もっと聴いていたい。
 ――ずっと聴いていたい。
 ――わたしのためだけに弾いてほしい。
 ――わたしのことだけ見ていてほしい。
 桃子の心の深層に、淡い願望が生まれた。
 桃子が呆然としてるうちにピアノの弾き手が椅子から立ち上がり、観客と向かい合った。
 桃子は瞠目した。
 ひとりの少年。
 幼い顔立ち。
 この少年が、いまままでピアノを弾いていた――いままでなぜか気づかなかった。
 自分と同じくらいの年齢なのに、先生よりもずっと上手な腕前。いや、もはや比べられない。次元がまるで違う。
 少年は優雅に一礼した。
 そのとき、頭を上げた少年と、桃子の視線が交わった。
 少年の瞳は、桃子がいまだかつて見たこともないほど澄んでいた。純粋で屈託のない表情も、いままで想像すらしたことなかった。
 少年は桃子を見て、不思議そうな表情を作る。
 桃子は少年の瞳に、自分のすべてを見透かされるような感覚を抱いた。
「――っ!?」
 やがてなにかが「怖く」なり、桃子はその場から立ち去った。
 なにが怖いのかわからない。そもそも「怖い」という表現も的確かどうかわからない。
 少年と目を合わせていたのはほんの一瞬だ。しかし桃子には、それが永遠とも感じられるほどの奇妙な感覚だった。
 このとき、少年――月城秀一と、のちに月城桃子という名になる少女が、運命の邂逅を果たした。


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