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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


間奏曲 ― Interlude ― 06

 秀一と桃子の邂逅から約七年後。
 イタリアにあるコンサートホールにて、新たなる運命の出会いが、いままさに起ころうとしていた。
 空気を震わせて響くその旋律に、少女は言葉に表せない至高の興奮を覚えていた。
 十代前半の年頃と思わせる可憐な少女はいま、自分の価値観が豹変するほどの衝撃を受けている最中だった。
 歴史ある荘厳なホール全体に響きわたるピアノの音色。
 空間を圧倒的に支配する至高の旋律。
 それは、人が抱くありとあらゆる感情が、その音色を通じて完全に表現されているようだった。
 時には力強く。
 時には儚く。
 時には陽気に。
 そして、もはや言語で表すことのできない感情の流れ。
 少女は、それはもはや「歌」と表現しても過言ではないと感じた。
 ピアノが歌っている。
 言葉よりも鮮明に、人の声よりも鮮烈に、心に響いてきた。
 ピアノなんて誰が弾いてもそれほど変わらないだろうという先入観があった。
 しかし、その先入観はたったいま、跡形もなく崩れ去る。
 この音は違う。徹底的に、根本的にほかのピアノの音とは違う。
 音ではないなにか得体の知れないものが、少女の脳髄を直接揺さぶりかけるような、不思議な感覚だった。
 それなのにもかかわらず、不快感はいっさいない。むしろ、心が洗われて不安が一気に払拭されるような、心地よい爽快感があった。
 希望という名の「光」が、音色の端々に満ちていた。
 少女はふと思う。
 自分が弾くヴァイオリンで、ここまでの旋律が奏でられるか、と。
 少女は、物心がつく頃からヴァイオリンを始めた。けど、自分はヴァイオリンでよかったと思う。いま、目の前の演奏を聴いて確信した。
 もし、自分がピアノを選択していたら。
 そして、今回の演奏を聴いたら。
 ……わたしには、絶対に……無理。
 おそらく、想像を絶する絶望を抱いていたと思う。
 いったいどれほどの練習と研鑽を重ねれば、これほどまでの演奏が可能になるのだろう。 一生のすべての時間をピアノの練習と神への祈りに捧げても、この旋律の領域までは到達できない。
 そう思わせるほど、この演奏は完全なものだった。
 ピアノを弾く者――ひいては音楽に携わる者が絶対に越えられない壁。それが、この旋律であった。
 ヴァイオリンだってそんなにうまくないのに――雲の上の存在を、少女ははじめて認識した。
 少女の思案をよそに、ピアノの旋律はクライマックスへ向けて転調した。
 最高潮であるはるかなる高みへとのぼり始める。魔法のような繊細なタッチで紡がれていく旋律は、聴く者の心を完全に惹きつけていた。
 少女は、次第に自分が空を飛んでいるような感覚に包まれていく。
 目をつむると、大空をかける自分の姿が思い浮かんだ。
 急降下。
 急旋回。
 急上昇。
 風を受けて飛ぶ自分。
 重力から解き放たれた解放感。
 ああ、なんて気持ちがいいんだろう――少女は、いまだかつてないほどの高揚感に包まれた。周囲の観客もすべて、自分と同じような感覚を抱いていると、少女はなぜか確信した。
 やがて。
 最後の一音が響いた。
 その瞬間、時間が止まったような錯覚に陥った。まるで数時間経過したような、それでいて数秒しか経過していないような――そもそも時間の概念など、どこかに置き忘れていた。
「……あ」
 少女が小さくつぶやくと同時に、まるで爆発するような大喝采が起こった。
 観客はみな立ち上がり、手が痛くなるのを無視するようにして一心不乱に拍手を送る。
 中には声をあげて泣く者もいた。震えながら抱き合う夫婦らしき姿も見える。少女もいつの間にか立ち上がり、拍手を送っていた。
 満場一致のスタンディングオベーションに迎えられたピアノの弾き手が、無駄のない綺麗な動作でピアノから離れる。
 そして、舞台上で観客と向かい合った。
 まだ幼さの残る少年だった。
 少女と同じ年頃。照明に照らされた彼の表情は、一点の曇りもない見事なものだった。  整った顔立ち。
 澄んだ眼差し。
 なにより、全身にみなぎる自信。
 この少年が、観客のすべてを例外なく感動させた事実に、少女は心の底から戦慄し、呆然とした。
 少年は優雅に一礼し、舞台袖へと歩んでいった。
 指先まで神経を集中させたような動作は、どこまでも美しい。
 少年の姿が見えなくなっても、観客は拍手をやめなかった。
 ……これが、音楽。
 少女は、自分の頬に熱いものが流れているのに気づいた。
 止めどなく溢れてくる涙。少女はこの涙を、今日のこの旋律を絶対に忘れない。
 そう胸に誓った。
 そしてこれが、初恋が芽生えた瞬間だった。
 同時に、ひとつの淡い願望が生まれる。
 この少年の隣で、いつかヴァイオリンを弾いてみたい、と。
 ――少女の名は、綾瀬由衣といった。 


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