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光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~


後奏曲 ― Postlude ― 02

 瞳を覗き込まれたと思ったら、由衣が急に唇を奪ってきた。
 瞳の奥のぞいてみるふりしてキスをした――一昔前、そんな歌詞の歌が流行った気がする。 俺がヨーロッパへ渡るだいぶ前だ。誰の曲かは忘れたけど。
「んぅ……ん」
 と、色っぽい声を出すのは由衣。大胆にも彼女のほうから舌を入れ、絡ませてきた。日を追うごとに大胆になっていくことに、由衣は自分で気づいているのか。
 ……しあわせだ。
 だけど。
 誰にも見られていないということがわかっているとはいえ、これ以上キスし続けたらいろいろな意味で問題だ。
 一抹の物足りなさを感じながら、お互いに唇を離した。
 寂しげに揺れる由衣の瞳に、俺が映っている。 
「充電は完了?」
「……うん」
 由衣の頬はかすかに紅潮している。そんな彼女を押し倒したくなる衝動を、俺は必死にこらえた。
 しばらく見つめ合う。
 由衣の瞳に迷いはない。もう、彼女はヴァイオリンに対して感じていた闇を、完全に払拭することができたようだ。
 そのときふと、人の気配がした。
「月城くん、綾瀬さん」
 下手の舞台袖から顔を出したのは、俺のクラスの委員長である市川さんだった。哲郎と同じく、彼女にもこの演奏会の手伝いをしてもらっている。
 俺に気があるらしい彼女に由衣のことを紹介したとき、少し険悪なムードになるかと心配したけど、それは杞憂に終わった。
「こっちはもう準備できたよ。ふたりは?」
「大丈夫だ」
 俺の言葉に続き、由衣もうなずく。
「わかった。じゃあ天宮くんにキューサイン出すから、ふたりとも定位置について」
 市川さんはそのまま舞台袖に消えた。
「じゃあ由衣、お互い全力を尽くそう」
「うん――じゃあね」
 由衣はそのまま翻り、やがて上手の舞台袖へと消えていった。ちなみにヴァイオリンもそこに置いてある。
 俺はその場に立ち尽くしていた。まぶたの裏に残る由衣の後ろ姿が、なぜか頼もしく感じられたからだ。
 ……こんなことしている場合じゃないな。
 ぐずぐずしていられない。俺もすぐ、舞台袖に隠れた。
 ……由衣。
 実は彼女に黙っていることがある。
 静寂の中で俺は想いに沈んだ。
 観客が座る一角、上手側の壁際に特別席がある。
 入学式や卒業式などで、教師一同が座るのもだいたいあのあたりだったはずだ。都合のついた一部の教師たちが、ありがたいことに演奏会を見に来てくれた。彼らがそこに座っている。
 でもその場所には、教師以外のふたりの人物も座っていた。学園関係者ではない部外者だ。
 ひとりは、格闘家のような体格をした巨躯の男性。
 もうひとりは、背の高い老人。矍鑠とした外国人。
 由衣にとって、大切なふたり。
 由衣の父、綾瀬孝明氏。
 そして由衣のヴァイオリンの師、ベルナルド・フォン・クラウザー氏。
 彼らふたりには、由衣が立ち直ったことをどうしても知ってもらいたかった。ヴァイオリンを再び手にしたことを、いち早く知ってほしかった。
 だから俺は今回の演奏会が決まったとき、ヨーロッパでの人脈を通じ、まずクラウザー氏に連絡をつけた。俺から突然の連絡を受けたクラウザー氏は、いつぞやのシュミットさんと同じく、さすがに驚いた様子だった。
 俺はまず、自分と綾瀬由衣との関係を打ち明けた。お互いの心の闇に触れ合う例の一悶着を経て、やがて恋人として結ばれることになったというくだりは、話していてかなり恥ずかしかった。
 俺のおかげで立ち直ったという由衣。
 そして、彼女のおかげで救われることになった俺――とにかく、彼女がこの天野宮学園へ編入してきてからのことを全部、クラウザー氏に話した。
 話を聞いた彼はただひとこと、「そうか」とだけ言い、やはりあるがままにすべてを認めてくれた。
 そして今回の演奏会。立ち直った由衣と救われた俺が、二重奏による演奏会を開くことになったと伝えた。
 しかし、ここで思いもよらない展開になった。クラウザー氏は、演奏会の日程を訊いてきたのだ。
 とりあえず答えた。だが次に彼が言った言葉に、今度は俺が驚くはめになった。
 クラウザー氏は、来日してその演奏会を鑑賞しようと言ってきたのだ。その日程なら、スケジュールを調整すればなんとかなる、そんなことをつけ加えた。
『立ち直ったユイがどんな表情をするようになったのか、わたしは楽しみでならない。もちろんシュウイチ、きみもそうだ。久しぶりにきみのピアノを聴いてみたくなった』
 クラウザー氏はまた、こうつけ加えた。
『……そうだ、ユイの父親、タカアキ氏にもわたしから連絡をつけておこう』
 孝明氏の連絡先は知らなかったから、この申し出はありがたかった。
 それからしばらくした頃、孝明氏のほうから俺に連絡があった。
 彼は、俺が綾瀬家が秘める闇を知悉(ちしつ)していると認識した上で、やや悲愴感の漂う声で言った。
『由衣がヴァイオリンに対して歪んだ依存をするようになったのは、ある意味……いや、全部わたしのせいだろう』
 孝明氏はしばらく言葉に詰まった。例のテロ事件、妻の麗子さんの死、そしてひとり娘から向けられた激しい恨み――そんな情景や感傷が、孝明氏の脳裏を走馬燈のように駆けめぐっているのだろうと思った。
『あの子――由衣とは、前から話をしなくてはいけないと思っていた。けど、どうしてもそのきっかけがつかめなかった。というよりは、お互いがお互いを避け合っていたというほうが正しいかもしれないな。由衣もわたしも、どうしようもないほど弱かったみたいだ。
 ……もし、その演奏会が由衣と話すきっかけになるのだったら、わたしはどんなことをしても帰国しよう』
 それから間もなく、クラウザー氏の来日と孝明氏の帰国が決定する。
 そして今日の本番を迎えることになった。
 ふたりがこの演奏会に来ていることは、由衣には内緒にしてある。
 もしもあらかじめ知らせていたら、不器用な由衣は余計な気苦労を背負うことになると判断したからだ。だから演奏会が終わるまで黙っていようと決めた。
 クラウザー氏と孝明氏のことを知っているのは、学園長をはじめとする教職員の一部と、生徒では哲郎だけだ。
 今朝早くに空港までふたりを迎えに行ったのは俺と哲郎だった。ちなみに、憧れのクラウザー氏を前にした哲郎は、いままで見たこともないほど緊張し、銅像のように固まっていた。あれは歴史に残るほどの傑作だったけど、からかうのはかわいそうだから俺の心の奥にしまっておこう。    
 ……さて。
 間もなく、幕が上がる。
 想い沈むのはここで終わりにしよう。
 やがて、哲郎の声が舞台の向こう側から聞こえてきた。マイクを使っているからか、いつも以上によく通る声だ。
「さて、皆さん。お待たせいたしました」
 司会を哲郎に頼んで正解だったなと、あらためて思う。
 あいつは人前に出るのも慣れているし、声の抑揚や言いまわしもなかなかうまい。なんでもそつなくこなすのが天宮哲郎という人間だ。
 携帯電話や時計のアラームなどはお切りください――そんな定型文を言っているのが聞こえる。
 それからは俺や由衣の簡単な紹介。長すぎずくどすぎず、ほどよいユーモアを交えた、哲郎の個性が光る紹介の仕方だった。
「――この演奏会を鑑賞した後悔は、絶対にありません――それでは皆さん、心ゆくまでお楽しみください――ふたりをどうぞ大きな拍手でお迎えください」
 哲郎の名司会が終わり、観客たちの拍手が響く。
 そして、幕がゆっくりと上がっていった。
 外界を拒絶していた、いままでの俺。
 この幕が上がりきることで、そんな昔の俺とは別れを告げる。
 感慨深く、幕が上がりきるのを眺めた。ふと、由衣はどんな気持ちでこれを眺めているのだろうと思った。
 しばらくして、幕が完全に上がった。
 観客の拍手もさらに大きくなる。
 俺は姿勢を正した。世界と自分がつながったような感覚に包まれる。ヨーロッパで何度も行った演奏会の感覚が、いまになって鮮やかに蘇ってきた。
 忘れていた情緒に、俺の心は大きく躍った。
 よし。
 行こう。
 おもむろに歩き出す。俺の直線上には、ヴァイオリンを持った由衣の姿が見える。彼女も俺と同時にゆっくりと歩き出した。
 歩いている途中に視線を交わす。
 ――がんばろうね。
 ――ああ。
 そんな声なき言葉が交わされる。由衣はかすかに微笑んだ。そんな彼女を見て、きみがいればどんな局面でも大丈夫――そんな恥ずかしいこと極まりない台詞が本気で浮かんできたのは内緒だ。
 舞台上の中心点を挟んで、俺と由衣は観客に向かい合った。
 大勢の観客たちが、俺と由衣を迎えてくれた。大半は学園の生徒たちだ。テストが無事に終わり、心なしか晴れやかな表情をしているようにも見える。
 彼らに深々と一礼をし、俺は少し戻ってピアノの前へと着席する。
 観客の拍手がやみ、静寂が訪れた。
 由衣も定位置につき、ヴァイオリンを構えた。それをきっかけに、再び視線で合図を確認し合う。
 ――いくぞ。
 ――うん。
 さあ、ここからがスタートラインだ。
 未来がどうなるかなんてわからない。
 それでも、歩いて前へ進むことしか人間はできない。
 ただし、俺は桃子のことを忘れない。忘れることなんて不可能だろう。
 たまには立ち止まって、過去を振り返るのもいいのかもしれない。ちょっと思い出すだけなら、ばちは当たらないはずだ。
 由衣にも、いつかは桃子の話をしたいと思っている。
 これから先、俺や由衣に必要なのは過去に固執することではなく、未来をしっかりと見据えることだ。
 スタートラインとなる今回の演奏会。
 今日この日は、俺たちにとって忘れられない記念日になるはずだ。
 俺――月城秀一。
 彼女――綾瀬由衣。
 










 ――やがて、ふたりの演奏会が、静かな旋律を伴って始まった。




(完)


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