BACKTOPNEXT

いま、その翼を広げて


Alive & Brave 2 - 凜

 なんとなく目が覚めた、午前一時。
 悪夢を見たわけでもないのに、ひどくのどが渇いていた。
 麦茶でも飲もうと、廊下に出る。
「…………?」
 季節の変わり目を感じるような涼しい風を肌で感じた。
 前にもこんなことがあった。あれはたしか、セイラが転校してきた前日。
 あの日の自分の行動をなぞるように、ベランダへ向かう。やっぱりあのときと一緒で、窓が開いている。
 そして――揺れるカーテンの奥で、金髪がなびいていた。
 でも声をかけようとして、思わず踏みとどまった。
 悠が泣いていた。肩をふるわせて、自分を抱きしめるようにしている。心奥からの嗚咽。
 ふと思い出す。真奈海の家族がうちの店に来たとき。素敵な時間を写真で切り取ろうとする悠が、急に泣き出した。そして、バックヤードでいまみたいに全力で泣いていた。
 そんな彼女が、赤く腫らした瞳で俺を見た。
「――――ぁ」
 小さく声を上げたのは、どっちだろう。
 ここまで来たら、見てないふりして立ち去ることはできない。
 裸足のままベランダに降りて、思わず――
 本当に思わず、悠を抱きしめた。
「り……りん……くん?」
「いいから」 
「……っ……うっ……ぁあっ……!」
 俺の腕の中で激しく震えながら、悠は慟哭した。

 しばらくして泣き止んだ悠から少し離れ、夜空を眺めている。
 雲はなく、思ったより空気は澄んでいて、頭上いっぱいに無数の星々と、色彩鮮やかな星の枝が広がっていた。
 悠はベランダの壁に身を寄せながら、さっきから静かに佇んでいる。十分は経過したはずだけど、正直時間なんてどうでもよかった。
「あの……凜くん」
 小さな声に、悠のほうへ向く。
「……なにがあったの?」
「――――」
「まあ、言いたくないならいいんだけど」
 この言いまわし、なんか癖みたいになってる。
「……わたし……その」
 悠が自分から語るまで待った。
 俺なんかが悠の核心部分に触れていいのだろうか、という疑問を心の奥深くに封印する。
「まだ……誰にも言わないでね……?」
「うん。もちろん」
「惺のヴァイオリンと一緒に、ピアノ弾くのが楽しくて……幸せで」
 楽しくて幸せなのに、あんなに泣くのか? 嬉し泣きって様子でもなかった。
「ピアノは……もう捨てたはずなのに……」
「捨てた……?」
「ピアニストを休業してから……わたしの演奏、今日まで見たことあった?」
「……そういえば」
 悠がピアニストを休業したのは、去年の春。創樹院学園に入学と同時だった。
 うちのリビングにはアップライトピアノが置いてある。母さんが子どもの頃ピアノを習っていて、その名残だそうだ。
 悠がうちに居候してから、何度かそれを弾いている姿を見たことある。
 でも、去年の春以降は……?
「ない……?」
 学業を優先するためにピアニストを休業。学園入学後すぐ、悠は生徒会に所属した。「生徒みんなの役に立ちたいから」と、以前言っていた。
 生徒会が忙しくて、ピアノを弾いている余裕がなかったから――本人から聞いたわけでもないのに、そんなふうに考えていた。
「わたしね……もうすぐ、ピアノ弾けなくなっちゃうの」
「――――え?」
「わたしが病院通いしてるのは知ってるよね?」
「ああ……でも、その、詳しくは」
「神経内科」
「神経……?」
 そのキーワードは、前にも聞いたことがある。
「わたし、病気なの」
「――――」
「……あ、ごめんね。こんな重い話で」
 悠の瞳が再び揺れる。
「病気って……どんな?」
「明確な病名はないの……ただ、全身の神経が徐々に働かなくなっていくんだって」
 神経は全身に張りめぐらされている。そんなの医療の知識なんかほとんどない俺でも知っている。それが働かなくなっていく……?
「で、でも悠は今日ピアノ弾いてた! 完璧な演奏だったって、みんな言ってたし……お、俺ですら……感動した……!」
 なんで俺はこんなに慌てているんだろう。心と言動が、どんどん乖離していく。
「耳のいい凜くんでも、さすがに気づかないかな……わたし、あれでけっこうミスしたんだよ? 初見の楽譜でも、プロのピアニストだったら絶対にしないようなミス。まあ、久しぶりだったていうのもあるんだけど」
「……ミス?」
 まったくわからない。
 悠の演奏は精密機械のようでありながら人間性あふれるほど優しくて、どこにも非の打ちどころが――
「たぶん、あの場で気づいていたのは惺だけだったと思う。わたしにはなにも言わなかったけど」
 ああ、そうだ、と悠は思い出したように続ける。
「あの曲、惺のオリジナルなの」
「え?」
「惺が作曲して、ピアノとヴァイオリンの二重奏にするために編曲したんだって」
 たしかに、聴いたことのない曲だとは思った。
「お食事会の前に惺に呼ばれて、楽譜を渡されたの。『演奏会を開こう。みんなのために』って言われたら断れなくて……ひどいよね、惺」
「……ひどい?」
「あんな素敵な曲、作れちゃうんだもん。しかもいつでもわたしと二重奏できるように、ずっと前に編曲していたみたいで……許せないな」
 悠は、こちらが気圧されるほど切ない笑顔を浮かべた。
 惺がどんな気持ちであの曲を書いたのか、正確なところまではわからない。
 でも、一度聴いただけで魂に染みいるような、「人間性」のすべてを濃縮したようなあの至高の旋律が、生半可な気持ちでできるわけない。
 惺は悠に嫌われていることを誰よりも自覚している。それでも、あの曲を作った。
「わたしね……たぶん、成人するまでに徐々に、手足の感覚がなくなっていくみたい」
「……そんな」
 あと三年もない。
「治らないの? 手術とか――」
「無理みたい」
 喰い地味で悠が言った。
「不治の病みたいだよ。……あはは、ドラマみたいだよね」
 こんな現実、いくら悠でもすぐに受け入れられるとは思えない。きっと散々あがいて、わらにでもすがるような気持ちで神に祈って、やっと出た答え。
 悲しいまでの現実を悠はいま、受け入れている――?
 俺の足が震えていることに気づいたのは、そのときだった。
「凜くん……?」
 どんな言葉も口から出なかった。
 口よりも先に足が動き、俺はその場から逃げ出していたから。


BACKTOPNEXT

総合TOP  /  WORKS TOP

Copyright © 2018 One Night Works/悠城健太朗, All Rights Reserved.