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いま、その翼を広げて


Extrication-33

 自分の死期が予想よりはるかに近いことを悠が知ったのは、十五歳のときだった。
 連日のリサイタルで疲労が重なり、倒れたことがある。売れっ子ピアニストのスケジュールは過密で、それがはじめてではなかった。
 だがそのときはいつもと違った。手足の震えに、全身を覆う妙な違和感。
 思えば幼少の頃から神経内科に通っていた。悠自身はあまり記憶にないが、父に「あんよとおててがおかしいの」と訴えていたらしい。その当時から神経に軽微な異常があると診断されていたが、大人になるにつれて症状は消えていくでしょうとも言われていた。
 そして倒れて担ぎ込まれた病院で、それまで受けたこともないレベルの精密検査を受けて、やっと発覚した。
 自分の寿命が、あと五、六年ほどしかないことを。
 手足の感覚が徐々になくなって、いずれピアノが弾けなくなることを。
 治療方法はないと、医師から告げられた。高度に発展した現代医療でも、どうすることもできない、と。
 最初は信じられなかった。
 でも、信じるしかなかった。様々な病院で似たような検査を受けたが、結果は同じ。治療方法が見つけられないこともすべて同じ。
 ああ、だめなんだ――
 悠は笑った。
 笑って受け入れた。
 悠はピアノをなにより愛していた。
 ピアノを弾いている瞬間は、幸福に満ちていた。
 自分の演奏を聴いて、この世のすべての幸せを濃縮したような表情を浮かべる人々。それを見るのが、たくさんの笑顔に囲まれるのが好きだった。
 これから一生、それが続いていくものだと、どこかで思っていた。
 でも、そうじゃなかった。
 それなら、と悠は考える。
 もっとも身近な人を幸福にする手伝いをしたい。
 だから悠は、事情を知って連日泣いていたマネージャー、星峰小夜子に言った。
「ピアニストを休業します」
 創樹院学園への進学はもともと決まっていた。ピアニストとしての活動も、学業と両立させて行う予定だったが、それらはすべてキャンセル。フォンエルディアでの単独リサイタルを最後に、悠はピアニストを事実上引退した。
 それからの日々は、悠にとって輝かしいものだった。
 素敵な友人に囲まれ、笑いの絶えない日常は、悠が心から願っていたもの。
 この思い出があれば、たとえ死ぬ間際でも笑っていられるだろう。
 死んでも、自分が生きていた「記憶」は未来永劫、世界に残り続ける――と。
 それだけは、誰にも侵せない悠だけの希望。 
 
 そしていま。
 悠はひとり、茫洋たる光の中で眠っていた。
 ここがどこなのか、悠は知らない。たとえ意識があったとしても、見当すらつけられないだろう。
 悠の希望は、この光の中にはなかった。


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