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いま、その翼を広げて


Extrication-43

「……やっぱこれじゃあ釣れないよなぁ」
 様々な瓦礫が大量に浮かぶ海面に釣り竿を向けていた男が、ぼそりとつぶやいた。
 かつてレイジと霞が戦闘を繰り広げた、南裾浦港近辺の堤防。海にまっすぐ延びた埠頭の先端。
 斑鳩聖が折りたたみ式の簡素な椅子に座り、釣り竿を握っていた。餌やポイントを変えて何度か試みたが、まったく釣れる気配がない。
「はぁ。この島で釣れた試しがない。絶対におかし――」
 斑鳩の言葉が途切れた。
 足もとに置いてあったタブレット端末が、警告音のようなものを発生させている。ディスプレイを見た斑鳩は、眉根を寄せた。
「来たか。……これはちょっとまずいかもね」
 ――異様な「気配」を感じたのは、そのときだった。
「――っ」
 もしもこの場にほかの誰かがいれば、斑鳩の動揺した姿が見られただろう。
 空気を変質させるほどの圧倒的なプレッシャー。
 しかし周囲を見わたしてみても、誰も存在してない。存在してないのにもかかわらず、圧倒的な「なにか」が近くにいる。そんな強烈な違和感と矛盾に襲われている。
 そして、不意に――

《はじめまして、煌武聖陽》

 声のような「もの」が、斑鳩に届いた。耳を通して聞こえてきたのではない。脳に直接声が送られているような不可思議な感覚。
 きょろきょろとするが、やはり周囲には誰もいない。
《そんなに驚かないでよ。アタシを呼んだのはあなたでしょうに》
 老若男女の声を無数に重ね合わせたかのような、不気味な音声。もちろん性別も年齢もいっさい不明だ。
 斑鳩は、すぐに声の主が誰なのかピンときた。その瞬間、彼の頬を冷や汗が伝う。
「まさか……アヌビス……さんですか?」
《あなたから連絡がくるとは思ってもなかったわね》
「はは……僕だって、まさかあなたが本当に現れてくれるなんて思ってなかったですよ……あれ、僕のこと知ってるんですか?」
《あなた、自分で思ってるよりも有名人よ。〈神の遺伝子〉を世界にばらまいた世界でも有数の極悪人》
 この人だけには言われたくないなと思う斑鳩だったが、もちろん口には出せない。
《アタシにだけは言われたくないって顔してるわね》
「そ、そんなことは……えっと、それよりどこにいるんですか? 姿が見えないとしゃべりにくいんですけど」
《アタシ、シャイなの》
「そ……そうですか」
 アヌビス――正体不明の暗殺者。名前なのかコードネームなのか不明だが、昔からこう呼ばれていた。暗殺者というカテゴリーではおそらく世界最強最悪の存在だろう。古来より世界的に有名で、その存在はもはや都市伝説レベルにまで昇華されている。
 いわく、人類すべてが敵になっても勝てる、だとか。
 いわく、人類が登場したと同時に誕生した、人類最古の悪の遺産、だとか。
 いわく、数千年前から代々受け継がれてきた暗殺者の血脈、だとか。
 斑鳩がかつて絶対に敵対してはならない人物のひとりとして数えた人物だが、その素顔を見た者はいないとされている。
 ――こ、ここまで怖いとは思わなかったっ!
 基本的にどんなことがあっても動じず、平常心を失わない斑鳩でも、今回ばかりは素に戻って怯えていた。
 黒月夜のアジトにSFGが襲撃した際、斑鳩がその場にいなかったのは、アヌビスに連絡をとるためだった。アジトの設備ではどうにもならないほど、高度な通信端末が必要だったためだ。
《で、なんの用かしら》
「助けてほしいんです」
 恐怖を押し殺し、なんとか言葉を紡ぐ。
《あなたを?》
「いえ。僕の妹たちを」
《それはつまり、ついさっき星核炉〈アクエリアス〉から潜水艦で脱出したあの子たちのこと?》
 光の世界から帰還した惺、セイラ、凜、悠の四人。彼らは潜水艦に乗り込み、すでに〈アクエリアス〉を脱出していた。
「なんで知ってるんですか……? いえ、わかっているなら話は早い。いま、SFGの増援部隊が〈アクエリアス〉に向かって飛んでます。あの潜水艦に気づくのも時間の問題でしょう。逃げられるわけがありません」
 先ほどのタブレット端末が発した警告音は、SFGの接近を知らせるものだった。SFGの動向は常に監視している。ゾディアーク・エネルギーの本社が事態収拾のために、SFGの増員を送ってくることは斑鳩も予見していた。
 そして接近しているSFGの量がまずい。アルゲンタヴィスなどの数十機の航空機に、一個中隊レベルの人員が搭乗している。
《彼らも本気か。冗談みたいな増員を送ってきて……くっくっく、必死すぎて笑っちゃう》
「……あなたは全部知っているんですか?」 
《そうでもないわね。知ってることだけ。少なくとも惺と悠は「死なないことが確定」しているけど。セイラはどうかしら……まあそれでも、あの規模だといくらなんでも手に負えないか》
「…………?」
 惺とセイラを、まるで直接知っているかのような口ぶり。さらに意味深な言葉。しかし詳しく訊ける雰囲気ではない。
《つまり、それをアタシにどうにかしてくれって?》
「……はい。おそらく、そんなことを頼めるのは世界広しといえども、あなたしかいないでしょう」
《もうあなたには関係ないでしょう。放っておけばいいのに》
「凜は僕の大切な妹です。あのくそったれな家族の中で、凜だけは違った。あの子は僕の希望だった。……でも僕は、彼女を守り切れなかった……だから、せめて今回だけは。惺くんや悠ちゃん、セイラ捜査官は、凜の大切な友人みたいですし」
《ふうん……あなたにしては感情的な理由ね》
「――――」
 自覚はあった。
 自分はどうしてこんなことを頼んでいるのだろう。
《それで、報酬は?》
「僕の命を」
 これにはなんの躊躇もなく、斑鳩は即座に言い切った。
 この瞬間、斑鳩は死の覚悟をした。
 凜が助かるなら、自分の命など安いものだと心底思っている。
《……へえ》
 それからしばらく、アヌビスの返事はなかった。
 恐ろしいまでの沈黙。
 やがて――
《もしも「金ならいくらでも払います!」とかつまんないこと言うようなら、その首、即座に落としてたけど》
「……いやまあ、どっちみち死ぬんですけど」
《決めた。あなたの命はアタシがもらう》
「……はい」  
《アタシのもとに来なさい》
「…………え?」
《あなたの頭脳は、ここで失うのは惜しい。たぶん、人類の中ではアタシの次くらいに知能が高いんじゃない? だからこき使ってあげる》
 言っていることが壮大すぎて、なかなか頭に入ってこない。
《さあどうする? それともここで死ぬ? だったらあなたの死体を撒き餌にして、大物釣り上げてあげるけど。釣れたら魚拓にして、あなたの墓前に添えるわ》
 どこかで聞いた台詞。
 斑鳩はつい笑ってしまった。
 そしてまたしても覚悟する。
「――わかりました」
 躊躇はない。
 この瞬間悟った。ああ、僕はこの人と出会う運命だったのだ――と。
《契約成立。じゃあまずは、アタシの仕事を取りかかるとしますか。ちょっと行ってくるわね。SFGの連中と遊ぶのは久しぶり……ちょっと楽しみ。うふふ》
 次の瞬間、アヌビスの気配が完全に消えた。
 たっぷり数十秒後、脱力した斑鳩がコンクリートの地面に転がった。
「はぁ――はぁ――マジで死ぬかと思った。なんだあの人……いや、そもそも人なのか?」
 しかしそれはいくら考えても答えの見つからない命題だと考え、すぐに払拭する。
 やがておもむろに起き上がり、ゆっくりと空を見上げた。
〈星の枝〉の輝きは、もう通常のものに戻っている。
「――姐さん、黒月夜は楽しかったよ。先に逝ったみんなも気のいいやつらばかりだった」
 冥福を祈るように、目を伏せる。
「凜、きみには幸せになってほしい。それが僕の唯一の願いだ。たぶんもう会うこともないだろうけど」
 斑鳩は振り返り、おもむろに歩き出した。
 ざざん、と埠頭のコンクリートに波が打ちつける。

 ――やがて斑鳩聖は、日本から完全に姿を消した。


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