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いま、その翼を広げて


Interlude02-1

 爽やかな鼻歌が廊下に響いている。
 詩桜里は根城である部屋に向かって、軽快な足取りで歩いていた。お気に入りのパンプスが鳴らす足音は、彼女の気持ちを代弁するかのように軽やかだ。
 いま、第二分室には誰もいない。リスティは外出中。セイラも東京の本部に行っている。レイジは田中剛の捜査のため、海外へ出張中だ。セイラは今日中には帰ってくるだろうが、レイジに関しては捜査状況次第では帰国までに時間がかかるだろう。
 リスティはともかく、問題児ふたりがいないのは、詩桜里にとって心の休まる事実だった。ストレスで胃も痛くならない。眉間にしわが寄ることも、声を荒げることもない。
 ……そういえば、母さんからまた新しい紅茶をもらったのよね。リスティももうすぐ帰ってくるだろうから、淹れる準備でもしておこうかしら。
 そんなことを考えながら、第二分室の自動ドアをくぐった。
『あんっ……いやぁ……くはぁっ、んん~~っ……あぁ、だめぇっ!』
 若い女性の喘ぎ声が、なんの前触れもなく詩桜里の耳に入ってきた。絶句する詩桜里。思わず、持っていたクラッチバッグを取り落としてしまう。
『っはぁ、んくぅっ、あんっ、はぁ、そこ、そこぉ! 奥まで……奥まで来てぇっ!』
「……ん? おお、詩桜里ちゃんか」
 優雅にソファに腰かけていたレイジが、白い歯を見せつけるように笑みを浮かべた。彼の前のテーブルには、スタンドに立てかけられたタブレット端末が置いてある。女性のあられもない嬌声は、そこから流れている。ついでに、テーブルの上には詩桜里がいつも使っているティーセットがあった。カップに注がれているのは、ついさっき淹れようと思っていた新しい紅茶だと、詩桜里の鼻はすぐに気がついた。
 この国にいないと確信していた男が目の前に出現した事実。それに自分の大好きな紅茶を勝手に嗜んでいる無遠慮さ。条件反射のように、詩桜里のこめかみに血管が浮き上がり、拳はきつく握りしめてた。
「なんだ詩桜里ちゃん、体が震えてるぜ。声を聞いただけで欲情したか? 俺の体、貸そうか?」
「職場でいったいなにを観てるのよっ!?」
「ん? 『背徳性感シリーズ 豊満で魅力的なボディの義母が、僕の自慰行為を見て欲情して、そそり立つソレにしゃぶりついてきた』」
「誰がタイトル口にしろって言った!?」
「日本のAVはおもしろいよな。タイトルだけで内容がわかる」
「なんであなたがいるの!? 出張は!? 仕事は!?」
「まー落ち着こうぜ。ちゃんと説明するから。ほら、紅茶は淹れ立てだから、一緒に飲もう……おいおい、そりゃリスティちゃんの椅子だぞ。そんなもの持ち上げてどうする気だ――うおぉい! 振り上げるな! タブレット壊そうとするな!」
 レイジは即座に動画を停止し、タブレットを背中のほうへ避難させる。詩桜里は振り上げたリスティの椅子をそのままレイジに向かって投げつけようと思ったが、寸前で思いとどまった。決して量産品の安い椅子ではないし、愛用のティーセットに被害が及んで無惨に破損するのはどうしても許せなかった。レイジはどうなってもいいが、椅子とティーセットはそうではない。
 詩桜里は椅子をもとに戻し、大きく深呼吸しながら給湯室へカップを取りに行った。ポットのお湯でカップをしばらく温める。これをやらないと紅茶を注いだときに温度が急激に下がり、香りが逃げてしまう。
 表に戻ってくる頃には、なんとか落ち着きを取り戻していた。涼しげな顔をして紅茶を飲むレイジを横目に睨めつけながら、ティーポットの紅茶をカップに注ぎ、自分のデスクへ。
 まずひと口。ほろ苦いが切れのよい味わいが舌をとろけさせる。そして爽やかでありながら奥深く濃厚な香りが口から鼻孔へ抜けた。
 お湯の温度も、茶葉を抽出する時間も完璧だった。もちろん紅茶の完璧な淹れ方など、ものぐさのレイジに教えたことはない。そもそも紅茶は茶葉の種類によって淹れ方が大きく変わる飲み物だ。「完璧な淹れ方」なんてものはないのかもしれない。
 雨龍・バルフォア・レイジという男は、このようになんでも「なんとなくの感覚」で正解にたどり着き、それほど苦労することなくこなしてしまう。詩桜里にとっては忌々しい事実だ。
「ちっ」
 文句のひとつでも言ってやろうかと思ったのに、紅茶に関しては非の打ちどころがなかった。
「なんで舌打ちした?」
 そう問うレイジは、詩桜里の舌打ちの意味をわかっているのか、どこか楽しげだ。やはり忌々しい。
 詩桜里は気持ちを切り替える。
「あのねえ、帰国する前にメールの一本でも寄こしなさいよね。そもそもあっちに行ってからなんの連絡もなかったし。報・連・相は社会人の常識!」
「詩桜里ちゃんはあれな。ビタミンAや葉酸よりもカルシウムを摂ったほうがいいな。かっかしやすいみてえだから」
 ぬわはっは、と笑い飛ばすレイジに、詩桜里はがくっと脱力した。この男と真面目にやり合うぶんだけ、自分が馬鹿を見る。
「……さっさと報告してちょうだい」
 詩桜里の仕事モードの雰囲気を察したのか、レイジも居を正した。紅茶を飲み干し、おもむろに口を開いた。
「田中剛は実在しねえな」
「は?」
「だから、やつは実在する人間じゃない。あたかも実在するように巧妙に仕組まれた、ペーパーカンパニーならぬペーパーヒューマンと言ったところか」
 レイジは数日前、田中剛についての情報を調査するためにアメリカへ発った。彼が留学していた当時の情報を得るためだ。それから田中剛が所属していた各国の研究機関にも順に調査しに行く予定だったが、すべて調査を終えて帰国するにはやや早い。詩桜里の目算では、最低でも十日はかかるかと考えていたのだが。 
「ずいぶんと早い帰国ね?」
「最初のアメリカで偽装に気づいたからな。ほかの国でも似たような結果が出るだけなら、わざわざ俺が赴く必要はねえ」
 ほかの国における捜査は、それぞれの国のレイジの知り合いであるICIS捜査官に丸投げしたらしい。顔の広さは渡り鳥であるレイジの強みである。
「偽装と考えた根拠は?」
「は? んなものねえよ。俺の直感だ」
 頭を抱える詩桜里。
「も、もうちょっと具体的に説明して」
「要するにだな、田中剛っつう人物が存在していた記録は、たしかに残ってるんだよ。大学の名簿や、住んでいたとされるアパート、その他もろもろ。――だが、人々の記憶にはまるで残ってねえ」
「記憶?」
「そう、記憶だ。やつと大学の同期生だった連中や教職員、何人かと面談した。写真も見せたな。そしたら、だれも田中剛なんて人物は覚えてなかった。誰ひとりだぞ。こんなおかしな話があるか」
「単に影が薄かっただけとか? ほら、あまり印象的な容姿ではないし、欧米の人には日本人の顔なんて、どれも同じに見えるっていう――」
 ちっちっち、とレイジは舌を打つ。もちろん詩桜里にしても、本気で言ったわけではない。
「それこそ根拠に乏しいな。だからこそ直感だ。田中剛は、何者かがなりすまし、存在するように偽装した実在しない人物。おそらくは例の製薬会社に潜入するためだけに作られた架空の経歴だろう」
「でも、田中剛の戸籍はちゃんとこの国に存在してたわよね?」
「戸籍がなにになる? 戸籍なんていまやそのほとんどがデジタルデータで保管されている。偽装するのはそう難しいことじゃねえさ」
「わざわざ国外での経歴を中心に作ったのは、警察の捜査を難しくさせるため……いわば、時間稼ぎ」
「そう考えるのが妥当だろうな。もっとも、いま俺たちがやっているようにICISが出てくれば国外でも細かく調べられて、怪しまれるのも織り込み済みだろう。だが、俺たちがそこまで到達した頃にはもう田中剛なんていう人間はこの世のどこにも存在しない。残ったのは存在意義をなくしたデジタルデータだけだ」
「結局、田中剛って何者?」
「それがわかれば苦労しねえな。とりあえず一筋縄ではいかない切れ者なのは間違いないだろうが」
 国内外を含めて、人間ひとりぶんの存在情報を偽装する。そう言えば簡単だが、実行するにはかなりの労力と知識、そして資金が必要なはずだった。
「この偽装工作、最初から最後まで個人でできるかしら」
「難しいな。できないことはないだろうが、バックに何らかの組織がいると考えたほうが自然だな。そのあたりも調べてみたが、よくわからなかった。わざと隙を見せるような部分もあれば、まったくつけいる隙がないところもある。喰えねえやつだぜ、まったく」
「田中剛に関したはもう手詰まりみたいね。あとはセイラ待ちか」
「そういや、セイラはどこにいる? リスティちゃんもいねえみたいだが」
「ふたりとも外出中。リスティはもうすぐ戻ると思うけど――」
 詩桜里がそう言ったタイミングで、リスティが戻ってきた。彼女はレイジを見て、驚いた表情を浮かべる。しかしすぐに状況を理解し、まずは詩桜里のもとへ。簡単な報告と数枚の書類を渡し、自分の席に戻った。リスティの座った椅子が、さきほど詩桜里が凶器に使おうとしていたことを彼女が知るよしはない。
「なあ詩桜里ちゃんよ」
「なに?」
「セイラのことだが、しばらく見ないあいだにあいつ、ちょっと丸くなったか?」
 体型のことを言っているのではなく、性格について言及しているのだと詩桜里はすぐに理解する。わりと食べるほうなのにまったく太らないセイラを、詩桜里はいつも羨ましく(というより妬ましく)思っていた。
「そうかしら。わたしは毎日顔を見合わせているから、よくわからないけど」
「なんつーかな、最初にあった頃のあいつは、抜き身の刀身というか、そういう危なっかしい雰囲気があった。元暗殺者っつう過去も納得できるほどにな」
「……そう言われてみればそうね」
 詩桜里もセイラと会った当初を思い出してみる。感情があまり読めないポーカーフェイス。口数も少なかった。それが、感情を表に出さないのではなくて、表現方法を知らないからだと気づくまで少し時間がかかった。
「いまのあいつはどうだ。まるではじめて生きる実感を手にしたごとく、覇気に満ちている。性格もまーるくなったよな」
 任務とはいえ、生まれてはじめて学校に通ってるっつうのもあるかもな、とレイジは付け加える。
「いい傾向でしょ、それは」
「一般人視点ならそうなる。が、とりあえず暗殺者としてはもう完全に失格だ」
「セイラはもう暗殺者には戻らないわよ。それに、ICISの捜査官としては、特に問題はない」
 問題がないどころか、捜査官としての実力は最初から申し分なかった。元暗殺者という追われる側の経験を持っていることは、捜査をする上で有能な情報や視点を現場にもたらしていた。あの歯に衣着せぬ性格や口調はここ最近、個性の範囲として周囲に認められつつある。
「なあ詩桜里ちゃんよ、あいつは将来何者になるんだ?」
「……将来?」
「セイラの観察期間はあとどれくらいだ?」
「二年は切った」
 観察期間、すなわち観察役および身元引受人である詩桜里が一緒に暮らさないといけない期間は、再来年の三月まで。期限が過ぎたら、セイラの保護観察処分は終了する。その後、セイラには本当の意味での自由が与えられるのだ。極刑になってもおかしくない罪を背負った人物にしては、破格の待遇なのは間違いない。
 要するに観察期間終了後、セイラがICIS捜査官を続ける必要性はないのだった。
「もちろん、あいつが望めばこのまま捜査官を続けることも可能だろう。だがな、俺の直感じゃ、そうはならない。あいつは辞めるだろうよ」
「どういうこと?」
「勘だよ、勘。根拠なんてねえよ。詩桜里ちゃんは、セイラに観察期間が終わったあとどうするか訊いてないのか?」
 その問いに、詩桜里は答えることができなかった。セイラの観察役になって一年半ほど。一緒に暮らすようになったのも同じ頃だ。なぜだかわからないが、詩桜里はこれからもずっとセイラと一緒に暮らしていくような、そんな感覚があった。
 セイラがICISを辞め、あのマンションから去って行ったら――そう考えると、とたんに寂しくなった。
「……今度訊いてみるわ」
「そういや、セイラには学園に愛する男がいるんだったか?」
 惺のことだ。彼とセイラの関係は、レイジも簡潔に説明されて知っている。ついでにセイラが書いている報告書にはだいたい目を通している。つまり、出し抜けにキスしたり、惺を押し倒し、愛の行為におよぼうとした経緯も把握していた。
「セイラの片思いじゃなければいいんだけどね」
「ふん。もしかしたら、その男のところへ転がり込むかもな……おもしろくねえ……その前に俺がやつの膜を破って……」
 最低レベルのセクハラ発言を口走るレイジに、黙って話を聞いていたリスティが心の底から引いている。さすがに慣れている詩桜里は聞き流した。
「あ、室長。セイラ捜査官から通信です」
「つないで」
 詩桜里のパソコンのディスプレイにウインドウが表示され、その中にセイラの顔が映し出された。
『解析が終わった。データを持って帰還する』
 堀江美代子の自宅にあったパソコン。そこに隠されていたデータのことだ。本部の専門家チームがデータ解析を進めていたが、最終段階でなかなか手こずっていた。それにいい加減しびれを切らしたセイラが、自ら解析するといって本部へ向かったのが今朝。そしてものの数時間で、専門家たちが阿鼻叫喚とする速度でデータ解析を終えた。ちなみにセイラの神業めいた技術力を前に、数人の専門家は半ばやけっぱちになって辞職してやろうかと考えたという話を、当然ながら詩桜里たちは知らない。
「それで、どんな代物が出てきたのかしら」
『詳しくは帰ってから報告するが、信じがたい内容なのはたしかだな。もっとも、わたしが予測した範疇ではあるが』
「了解……ほら。セイラでもこうやってちゃんと報告するのよ?」
 詩桜里がレイジを見ながら言う。レイジは「あー、わかったわかった」と言うように、やる気なくひらひらと手を振った。
『なんだ。レイジはもう帰ってきてるのか』
「ええ。……って、いまの台詞だけでよく気づいたわね?」
 セイラからはレイジの姿は見えない。
『ふむ。レイジがここまで早く帰ってきているということは、田中剛の経歴は偽証、実在しなかったか』
 すべて最初から知っていたような口ぶりのセイラに、詩桜里は感心とあきれが混ざった複雑な心境になる。洞察力がありすぎてもはや怖い。
「なに、それも予測してたの?」
『少し考えれば誰でもわかるのではないか? ふむ。そちらの話も帰ってから詳しく聞こう』


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