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いま、その翼を広げて


Interlude04-1

 話は夏休みにさかのぼる。
 サマーフェスティバルを一週間後に控えた頃。例の地震はまだ起こっていなかった時期。朝から気温が三十度近くあった、真夏のある日だった。
 A校舎一階の廊下を、ふたりの人間が歩いている。ひとりは織田光一郎。もうひとりは眼鏡をかけた女性だった。
 長髪を、後頭部でべっ甲色の髪留めでまとめている。ガンメタルの分厚いフレームをした眼鏡の存在感は大きいが、不思議とそのシャープな顔立ちに似合っていた。身を包むすみれ色のパンツスーツは、おろしたてのようにパリッとしている。
 東雲友梨子。臨時で学園にやって来た教師だった。
 廊下を歩いていく。行き先は学園長室。
 しかし、東雲の足が止まり、視線は壁に向かう。彼女の呼吸は自然に止まっていた。
 先を歩いていた織田が振り返る。そして、東雲が足を止めた理由をすぐ察した。
「ああ、やはり目にとまりますか。さすが美術教師」
「この絵は……?」
 壁にかけられた巨大な絵画が一枚。
 奇跡の一枚がそこにあった。
 中央に巨大な樹が描かれた見事な絵だ。みずみずしい葉の茂る樹は崖の上にあり、周囲は海と青空に囲まれている。
 空には雲が漂い、鳥が飛んでいる。さらに精緻に描き込まれた星の枝は、本物より美しいのではないかと錯覚するほどに色彩鮮やかだ。海の向こうには陸地があり、建物や森などが描かれているが、その構成や構造は決して写実的なものではない。それでもバランス感覚は抜群で、まるで違和感がない。
 これを描いた人物は紛れもない天才だと、東雲は確信する。いままで様々な絵画を見てきたが、ここまで圧倒的なものとは出会ったことがない。ひと目見たら惹かれてやまず、目を離すことができない。
 絵画の横にプレートがあった。

『はじめて識る世界は、なによりも美しかった――』

 プレートにはほかに、去年開催された国内有数の絵画コンクールで、最優秀賞を受賞したことが記されてあった。
 描き手の名前は――
「……真城惺」
 東雲がつぶやくように口にする。
「その生徒は、いま二年でわたしのクラスに在籍しています……そういえばうちのクラス、二学期から美術の授業は東雲先生の担当ですね」
「この生徒は、プロの絵描きを目指しているのですか?」
「いいえ。そんな話は聞いていませんが。それで、美術の先生としてどうです、この絵は」
「わたし、学生時代は画家を目指していたんですよ。でも、早々にあきらめてよかった」
「はい?」
「こんな天才には、凡人が一生絵の修行をして、どれだけ神に祈ったとしても、絶対に敵いません……この生徒は、世界をどういうふうに見ているのでしょうか」
 あらためて絵画を見つめる。
 人間が持ちうる感情を、すべてかき立ててくる。優しい愛情、怒り狂う激情、切ない慕情。もどかしさや悔しさ。震えるほどの楽しさや嬉しさ――老若男女、地域や人種を問わず持ち合わせている普遍性が、絵の隅々まで宿っている。
 光と影の描き方が独特だった。世界の美しさを光、残酷さを影とするのなら、この絵はあまねく世界の「すべて」をたった一枚で表現している――東雲はそう感じた。
「あ、ごめんなさい。つい夢中になってしまって」
 歩みを再開しながら思う。
 この世界を究極的に、考え得る極限まで美しく感じることのできる感性――真城惺という人物は、誰もが無意識に求めていながら、絶対に手に入れることのできないそれを持っている。
 会うのが楽しみだった。


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