翌日の朝。始業前のわずかな休み時間、わたしは職員室にいた。
職員室の端っこにある来客用のソファに座り、目の前の書類と格闘している。
……はあ。
心の中でため息をつく。
なんでも、転校の手続きで必要だった書類に不備が発見されたらしい。今朝、自宅で朝食を食べているときに先生から連絡があって、もう一度新しい用紙に記入してほしいから資料を持参して少し早めに登校してくれ、とのことだった。
壁にかけられていた時計を見た。一限目の授業が始まる午前九時まで、もうそこまで時間は残されていない。早く登校したつもりだったけど、本当に「つもり」だったみたい。
「先生、これ始業までに終わりません」
「ん? ……それもそうだな。でも、だから早めに登校してくれって言ったじゃないか」
と、ソファの向かいに座っている担任の柳田先生。
「女の子の朝は、いろいろと準備が大変なんです」
昨日のうちに言ってくれればよかったのに、という言葉は飲み込んだ。
「うちのクラス、一限目は数学だったな。赤井先生に綾瀬は遅れるって伝えておくよ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
柳田先生は、赤井先生のところへ向かって行った。
「はあ」
今度は本当にため息をついた。先生が近くにいないからいいよね、と勝手に解釈する。
……それにしても、これはいますぐに必要な書類なのかな。
別に昼休みか放課後でもいいんじゃないかとも思うけど、わざわざ忙しい朝に連絡をしたところを見ると、それなりに重要ではあるらしい。わたしが帰国子女という少し特殊な環境も関係しているのかもしれない。
仕方ないかと潔くあきらめ、目の前の作業に集中する。
それから数分後。切りのいいところで、ひと息つく。ただ、かなりがんばったはずなのにまだ半分も記入できていなかった。わたしの経歴は、文章にすると長ったらしくて厄介だ。
「あら、綾瀬さん」
またため息が出そうなところで話しかけてきたのは、音楽担当の中村詩織先生だった。
二十代後半の女性。ウェーブのかかったセミロングの黒髪が特徴的。スタイル抜群で綺麗な先生だった。彼女はコーヒーの入ったカップを右手に持っている。
「中村先生、おはようございます。」
「朝から事務仕事なんてご苦労さま」
「はい。もう大変です……代わってもらえませんか?」
わたしの軽口に「ふふ」とやさしく笑い、中村先生は向かいの席に座った。
中村先生は一限目の授業がないのか、のんびりゆったりとくつろいでいた。大人の女性特有の、落ち着いた動作でコーヒーをすすっている。絵になる姿だった。
わたしは再び作業を始めた。
「ねえ綾瀬さん、作業しながら聞いてくれる?」
「はい」
「やっぱり交響楽部に入る気はない?」
「……それは」
交響楽部。それは天野宮学園が全国に誇る部活のひとつ。吹奏楽や管弦楽などを統括したオーケストラ編成で演奏を行う。その演奏技術は全国の学生音楽の中でもトップクラスという話は有名――この話は、交響楽部に籍を置く石川さんが、昨日のお食事会のときに教えてくれた。
中村先生が「やっぱり」という言葉を使ったのにもわけがある。昨日の音楽の授業が終わったあと、わたしは中村先生にこう言われた。
『あなた、入る部活をまだ決めてないなら交響楽部に入らない?』
突然の誘いにうまく返事ができないでいるわたしに、中村先生は次のように続けた。
『人数が少し足りなくて困ってるのよね。初心者でも大歓迎よ……ていうかあなた、なんか音楽の才能がありそうだし』
そう言われたとき、わたしは驚きのあまり言葉を失い、不覚にもうろたえてしまった。
中村先生は、そこまで深い意味で言ったわけじゃないと思う。これがほかの部活ならまだよかった。でも、音楽だけは絶対にやるわけにはいかない。なぜならわたしは――
「――っ」
昨日の動揺を思い出し、体が硬直してしまう。
……しっかり、綾瀬由衣っ!
自分に向かって、かなり必死に言い聞かせた。それから先生に悟られないよう、小さな動作で大きく深呼吸。
……よし、大丈夫。
さて、どうしよう。昨日は「ほかの部活を見てから決めます」と、無難なことを言ってなんとかしのいだ。大人の礼儀としては、ちゃんと断ったほうがいいかもしれない。
「ごめんなさい……わたし、たぶん部活には入らないと思います」
作業を中断し、中村先生に向かって言った。
「……そう」
わたしの真剣さに気づいたのか、中村先生はそれ以上食い下がるような真似はしなかった。
「ごめんなさい」
「いいのよ。こちらも少し不躾だったみたいだし……あんまりしつこいと嫌われちゃいそうだしね。もう言わないわ」
「本当にすみません」
理解のある先生でよかった。
「なんか、あなたを見てたら別の生徒のこと思い出しちゃったわ」
「え?」
「あなたと同じような文句で誘ったんだけど、なんか深い事情がありそうなすごーく真剣な眼差しで断ってきたのよね。でも次の瞬間には子どもみたいにおちゃらけてたから、真剣なのかそうじゃないのか、いまいちつかめない生徒だったんだけど」
「……そんな生徒がいるんですか?」
変人? ……って、会ったことないのに失礼かな。
「ええ。でもこんな噂があってね。なんと彼は、かつてプロのピアニストだったとか。どう? びっくりするでしょ」
「……彼?」
「ツキシロくんっていうんだけどね、あなた以上の堅物よ。それから何度か誘っても、けんもほろろだったわ」
ツキシロ……って、まさか月城!?
その名前につい、わたしは思いっきりソファから立ち上がっていた。太ももがテーブルの裏にぶつかったけど、気にする余裕はなかった。
「あ、綾瀬さん、どうかした?」
きょとんとした様子の中村先生に、有無を言わせない剣幕で尋ねた。
「いま、誰って言いました?」
「え、えっと、月城くんがどうかした?」
「月城って、月城秀一くんのことですか?」
冷静でいられない。体が熱を帯び始めた。
「あら、知ってるの? あなたとは違うクラスなのに」
「先生、教えてくださいっ。月城くんのクラスは!」
つい大声をあげてしまい、職員室中の視線がわたしに注がれた。そこではっとして冷静になる。
「……あ、すいません。取り乱して」
「いえ、それはいいんだけど……綾瀬さん、なんか変よ。大丈夫?」
「は、はい――」
「おーい綾瀬、終わったか?」
やたらと陽気な声が、わたしの思考を乱す。柳田先生だった。彼はわたしの目の前にある書類をじぃーっと見つめる。
「なんだ、まだ終わってないじゃないか。しかも大声あげてどうした」
「あ、ご、ごめんなさい」
「転校早々遅刻するなんて、クラスから浮くぞ。いいのか?」
「……すみません。さっさとやります」
さっきからわたしは謝ってばかりだな、と思った。
これ以上は遅くなるわけにはいかない。とりあえず目の前の事務作業を片づけようと、思考の隅から月城秀一の名前を追い出すように努力する。
――けど、さっぱりと集中の仕方を忘れたわたしは、いつもはしないような簡単なミスを連発した。