すっかり遅くなってしまった。
携帯電話をポケットから取り出し、早歩きしながら時刻表示を見る。
もう一限目が始まってから三分の一の時間が過ぎていた。当然、廊下には誰もいない。校内にいるすべての生徒は、いまごろは熱心に授業を受けている最中だ。
……あんなはずじゃなかったのに。
自己嫌悪に陥っている。書類の記入を間違え、二回も書き直すはめになってしまった。
足早に廊下を歩く。自分の足音が静かな廊下に響いていた。その足音はまるでいまの気持ちを代弁しているかのように荒く、さらに自己嫌悪に陥った。
廊下を曲がり、その先にある階段をふたつ飛ばしで駆けのぼる。ふつう、女の子がこんな荒業を使ってはいけない。勢いで翻ったスカートの中は、下から見たら丸見えだと思う。でもいまはまわりに誰もいないし、そんなことはお構いなしだった。
下駄箱や学食、そして職員室のある一階から、三階にある自分の教室へ向かっていた。 書類を片づけたあと、わたしは月城くんのクラスを中村先生から聞き出していた。彼はB組で、F組とはかなり教室が離れている。
月城秀一。
わたしが恋焦がれた、あの少年の名前。彼がこんなに近くにいるなんて、思いもしなかった。もう出会うことなんてないと思っていた。
特に信じてもいない神様に、チャンスをくれてありがとう、と言いたくなった。
わたしは、彼に言いたいことがふたつある。
わたしを救ってくれてありがとう――彼自身には身に覚えがないはずだ。でも、彼のピアノがわたしを救ってくれたのは紛れもない事実。だからこれはなんとしてでも言いたい。
そして、実はこれがいちばん知りたかった。
それは――
二階と三階をつなぐ階段の踊り場で、息を整えた。急いでいたから息が切れている。……そういえば、ここ最近運動不足だった気がする。
でも、あとひと息。だから一気に階段を駆けのぼった。
――けど、それがいけなかった。
三階にたどり着いたところで、上り階段からこちらへ下りてくる人影に気がつかなかった。
「きゃっ!?」
すれ違いざまにその誰かと衝突し、わたしは尻餅をついてしまう。意外にもおしりへの衝撃は強く、すぐには立ち上がれなかった。
「ごめん。……大丈夫?」
はっとするほど綺麗な男子の声が投げかけられた。高音と低音の調和が美しい。
「こちらこそごめんなさい。前をよく見てなくて――」
彼が左手を差し出してきたので、紳士だなと思いながらわたしはそれを握って立ち上がる。
……あれ、ということは、彼もわたしと一緒で左利き?
握った手は少し冷たかったけど、この上なく綺麗な指だった。指の長さと細さがいままで見たこともないほどバランスよく整い、染みひとつない。仮に天宮くんの手が一〇〇点なら、この手は一五〇点くらいだ。骨ばったごつごつさがないのは天宮くんと同じだけど、声や雰囲気からしてこの手の持ち主は天宮くんではない。
おしりをぱたぱたと払いながら、目の前の人物の顔へ視線を送った。
「――――ぁ」
その顔を確認したとき、心臓が停止したような錯覚にとらわれた。呼吸も止まった。思考も凍った。
時間が止まった――という表現がもっとも正確もしれない。凄まじい衝撃が、時間差で大津波のように襲ってきた。
目の前の人物と、ピアノの旋律でわたしを救ってくれた、あの少年の顔が重なる。
「つ、月城……くん……?」
しぼり出すような声が、わたしの口から漏れた。
「え?」
なぜ自分の名前を? とでも言うような表情を彼は作る。目の前の男子生徒は、紛れもなく月城秀一その人だった。
――そして、次にわたしの口から飛び出た言葉が、月城くんとわたし自身を凍りつかせることになった。