わたしはいま、人生最大級の自己嫌悪に陥っていた。
昼休みの喧騒をよそに、どんよりと曇り空のように沈んでいる。今日の空は快晴なのに。
『どうして……ピアノを捨てたの?』
どうしてあんなこと言ってしまったんだろう。しかもあのタイミングで。
ほかに言うことがあったんじゃないの――そもそも名乗る前じゃない――あれじゃわたしはただの変な人だ――後悔は尽きない。
月城くんのことで頭がいっぱいになっているときに、当の本人が前触れなく目の前に現れた。そこでわたしの思考は文字どおり完全停止してしまったみたい。
でも――
もっとも会いたかった人。いちばん想いを伝えたかった人。そんな人が目の前に現れたら、動揺しないほうが難しい。あのときは、なにかひとことでもいいから言葉にしなければいけないと思った。なにか伝えなければいけない。とっさにそう感じた。
そして、この上なく焦ったわたしが発した言葉が、あのひとことだった。
「……うう」
たしかにわたしが知りたい核心部分ではあるけど、本当にどうしてあの状況であんなことを言ってしまったんだろう。
わたしの言葉を聞いた月城くんは、唖然として凍りついていた。世界の終わりを間近で見たような、そんな壮絶な表情をしていた。
……わたしはもしかして、月城くんの踏み込んではいけない部分に触れてしまったのかな? 誰にだって人には話せないような深刻な事情や秘密がある。もちろん、このわたしにだってある。
これから先、どうやって彼と付き合っていけばいいんだろう。
もしかしたら、もう相手にされないかもしれない。廊下とかですれ違ってもお互いまったく気にしないような、そんな関係になるのかもしれない。
最悪の想定に、わたしは震えた。背筋に冷たいものが走ったような気がした。
……はは。笑っちゃうよね。だって、まだなにも始まってないはずなのに、もう終わることがわかっているんだもの。
わたしはいったい、何度失敗すれば気が済むんだろう。いつまで未熟者のままなんだろう。
……このままじゃ、あの人に顔向けできないじゃない。
このままなにもせずに終わるくらいなら。
せめて、謝りたいと思った。
最初は許してもらえなくてもいい。それでもまずは月城くんに直接謝ろう。迷惑かもしれないけど、一歩踏み出そう。後悔するのは、それからでも遅くない。
そう決意した矢先、目の前に近づいてきた人の気配に気づいた。
「綾瀬さん」
うつむいていたわたしが顔を上げると、そこには木崎さんがいた。控えめな声色。隣には石川さんもいる。
せっかくの決意が揺らいだような気がした。同時に、どこか救われたような気もする。
――逃げるの?
なにか、心の奥底から声のようなものが聞こえた気がしたけど、わたしはそれを無視し、木崎さんに返事をした。
「今日、なんか元気ないように見えたけど、大丈夫?」
木崎さんが、やはり控えめに訊いてきた。
石川さんが続く。
「授業で先生に指されてもなんか上の空だったし、覇気がないっていうか……具合悪いんじゃないの?」
「えっと、そういうわけじゃなくて……」
……どう答えればいいんだろう。「好きな男の子の心の闇に触れて、自己嫌悪に陥っていました」なんて、素直に言えるはずがない。
「違うならいいんだけど……」
と、木崎さん。
「ねえ、まだ転校してから間もないんだし、なんか悩み事があるなら、あたしも絵里もなんでも聞くわよ」
今度は石川さん。
「綾瀬さん、転校してきたばかりでまだわたしたちにも慣れないかもしれないけど、話してくれないかな。わたしも由美子も秘密は絶対に守るし、もし誰かに聞かれたくないようなら、場所を変えるし」
ふたりの実直な眼差しに、わたしは根負けした。転校してきたばかりのわたしをここまで思ってくれるなんて、なんて友達思いなんだろう。
日本人は親しくない人に対して意外に冷たい、と海外では噂されるけど、それは嘘だと思った。だって、出会ってまだ二日目なのに、このふたりのやさしさ。それと他人のことを思いやれる気持ち。
忘れていた大切ななにかが芽生えたような、すごく温かい気持ちになる。
……ちょっとくらいなら、話してもいいかな。
――やっぱり逃げるの?
なによりもわたしは、誰かに聞いてもらって楽になりたいのだと思った。救われたような気がしたのも、たぶんそのせいだ。自分ひとりで抱え込んで解決できるほどわたしは器用じゃないし、強くもない。
――そう、あなたは。
さすがに全部は話せないけど、話せるところまでは聞いてもらうのもいいのかもしれない。月城くんに謝るのは今度にしよう。謝るのは少し頭を冷やしてからのほうがいい。
うん。きっとそうだ。そうに違いない。そうであってほしい。
――弱いね。
――やっぱり逃げちゃった。
――現実から。
――あーあ、だめなわたし。
深層心理からにじみ出てくるような、不愉快な声。それは、先ほどから耳鳴りのように響いていた。
違う。これは逃げるんじゃない。わたしはっ――!
「実はね……」
心の声を振り切るように、わたしは切り出した。