放課後の図書室に、わたしはいた。一度冷静になって、原点に戻ってみよう――そう考えて、分厚い国語辞典を開いている。
『――本当にプロのピアニストだったら、どうしてやめちゃったんだろうね――』
昼休みに木崎さんがこのように言っていた。
そのとき生まれた違和感。
「やめた」と「捨てた」――この違い。
まず、「やめる」と引いてみる。
『《やめる》―辞(める)・止(める)―
一、続いていたある動作、作用、状態などを途絶えさせる。
二、就いていた職、地位などを退く。職業などから手を引く。
三、これからしようとしていたことを中止する。』
次に、「捨てる」と引いてみた。
『《捨てる》―すてる―
一、不要なものを投げ出す。放棄する。手元から放る。
二、いままでの関係を絶ち、そのまま見捨てる。放置する。
三、持ち続けていた思いをなくす。熱意や関心などが冷める。』
最初からどこかでわかっていたようなものだけど、あらためて調べてみると全然違った。わたしは「捨てる」のそれぞれの用法に意識を奪われた。
だってこれは――プラスの要素が微塵もない。放棄とか見捨てるとか冷めるとか、マイナスなイメージしか浮かんでこないような言葉だ。にもかかわらず、わたしは「捨てた」という言葉を使った。
たしかに、わたしはイタリアをはじめとしたヨーロッパでの暮らしが長い。実際、日本にいた時間よりも海外生活のほうが長かったりする。海外生活ではほとんど英語かイタリア語を使っていたけれど、それでもさすがに日本語の「捨てた」と「やめた」の違いくらいはわかる。
あの言葉が出た瞬間は、まだなんの違和感も感じなかった。その言葉がもっとも適切であると、当然のように思っていた。
月城くんがピアノ界の引退を発表したのは、いまから二年前にさかのぼる。それはなんの前触れもなく発表され、ヨーロッパのクラシック業界全土を揺るがした。音楽史を塗り替えた若き天才ピアニストの引退は、それくらいの破壊力があった。
ただし引退の理由は不明だった。引退するという事実だけが発表され、その真相についてはさまざまな憶測や推測が飛び交っていた記憶がある。
でも、わたしはそれが発表される前に事実を把握していた。あれは引退発表がなされる二週間ほど前だった。その事実をわたしに伝えたのは――
「……あ」
あの人だ。遠い空の下、異国の地にいるあの人。
『大事な話がある』
神妙な面持ちで、最初にそう切り出された。
『シュウイチ・ツキシロがピアニストを引退するそうだ。まだ正式発表はないが、早々に日本に帰国するという話を聞いた』
それを聞いたとき、しばらく呆然とした。そして、我に戻ったわたしはすごい剣幕で、あの人にその理由を問い質した。
信じられなかったから。
信じたくなかったから。
嘘であってほしい、そう思った。
『彼は……ピアノを捨てたらしい』
あの人はそう答えた。あまり感情を表に出さないあの人にしては、かなり悲哀に満ちた声だった。あの人はそれ以降、かたくなに口をつぐんでそれ以上のことを語ろうとはしなかった。
それからどうしたのか、よく覚えていない。それくらい、わたしにとってはショッキングな事実だった。しばらくは食事ものどを通らないほど落ち込んでいたと、のちにあの人が言ってた。
……そうだ。たぶんこのとき、「月城くんがピアノ界から引退したこと」と「月城くんがピアノを捨てたこと」がイコールで結ばれて、同一の意味としてわたしの中に植えつけられたんだ。
そういうことだとしたら――
「……なんで?」
誰にも聞こえないよう、小さくつぶやく。冷静に分析してみると、ふたつの大きな疑問点が浮き彫りになった。
ひとつ、月城くんがピアノを捨てた本当の理由。これはいままでずっと気になっていたことだったけど、わたしがその答えを知ることはなかった。
もうひとつ、あの人はどうして「月城くんがピアノを捨てたこと」を知っていたのだろう、という点。
だって、月城くんの引退発表には、詳しい理由がなにも語られてなかった。それなら、あの人はどこでそれを知ったんだろう。しかも引退発表がされる二週間も前に。
そして今朝。わたしの言葉を受けて、凍りついたような表情をした月城くん。いま思えば、あれはわたしが言ったことが核心を突いていたからではないの?
月城くんがピアノを捨てた理由。それから、月城くんがピアノを捨てたことを、あの人が知っていた理由。
このふたつの理由の裏に、わたしの違和感の正体があるような、そんな気がした。
……知りたい。
わたしは真実を知りたい。
月城くんは、どうしてあれほどまでに素晴らしいピアノを捨て、引退してしまったのか。音楽の神様に愛されたと評された絶対的な才能。それを簡単に手放すほどの理由。
そこには、わたしの想像がまるで及ばないほどの真実が隠されている――直感がそう告げた。
それならまず、なにから始めよう。
月城くん本人に訊く? 幸い、月城くんは身近にいる。訊こうと思えば簡単に訊ける。
「……無理」
首を横に振った。それはだめだ。わたしはたぶん、今朝の一件で月城くんから警戒されているはず。わたしの言葉を受けた月城くんの様子から、それは容易に推測できる。
そうでなくてもそんな無粋な真似はできない。わたしは毎日のように月城くんのことを思い浮かべていたけど、月城くんからしたら、わたしは今日はじめて出会ったばかりの単なる女子生徒だ。ほとんど初対面なのに、そこまで踏み込むなんてできない。
今朝、月城くんと出会った直後はその距離の近さに一瞬だけ浮かれたりもしたけれど、実はなにも変わっていなかった。物理的な距離が近づいただけで、わたしの想いが結ばれるわけでもない。お互いが精神的に近づかないと、なにも始まらない。
……じゃあ、どうすればいいの?
悔やんでも悔やみきれない。ああ、わたしはやっぱり不器用だ――激しい自己嫌悪がよみがえり、机に向かって突っ伏した。
幸い、図書室だけあってまわりは静かで、感傷に浸るにはもってこいの場所だ。
……うん。しばらく、ここでこうしていよう。真実を知る方法を考えるのは、また今度にしよう。
――そのとき。
図書室の静寂を破る、けたたましい電子音が唐突に響き出した。ポケットに入っていたわたしの携帯電話が、音の元凶。
「はぅあっ!?」
情けない悲鳴をあげながら、すぐに音を消す。どうやらマナーモードにするのを忘れていたみたい。
横目でちらっと周囲の様子を観察すると、視界に入るすべての生徒の視線がわたしに集まっているのがわかる。しかも、みんな例外なく怪訝で怖そうな表情で。
「ご、ごめんなさい……」
謝る声は徐々にしぼんでいく。いまのわたしは、端から見ると恥ずかしさと申しわけなさで顔が真っ赤になっているはずだ。
カウンターの中にいた司書らしき人が、わざとらしく咳払いをするのが聞こえる。その咳払いには「図書室では静粛に」という意味が含まれているに違いない。
ああっ、どうしてわたしはこんなに不器用なのでしょう――わたしがこんなふうに生まれることを定めた神様を、少しだけ恨んだ。
誰にも聞こえないような小さいため息を吐きつつ、携帯電話を開いて内容を確認する。メール受信で、差出人は石川さん。
今日の昼休みに、石川さんと木崎さんの連絡先を交換した。いま、石川さんも木崎さんも部活動に専念している頃だと思う。石川さんは交響楽部で、木崎さんはテニス部に所属している。
石川さんは、どうやら忙しい部活の合間にメールをくれたらしい。
《昼休みに言い忘れたんだけどさ、月城くんのことをもっと知りたいなら、天宮にいろいろ聞くのもいいと思うよ。あいつは月城くんと幼なじみだったらしいから。あたしたちが知らないことも知ってるんじゃないの? それじゃあ健闘を祈る。がんばれ恋する乙女。陰ながら応援してるぜっ》
「――嘘」
またとない情報だった。なんてタイミングのよさだろう。こういうのをたしか、思いがけないしあわせ――僥倖って言うんだっけ。
わたしはまだ、幸運の女神様に見放されてないのかもしれない。
《ありがとう。とおっっっっても助かったあ!》
石川さんへやたらとテンションの高いお礼の返事を送ったあと、いても立ってもいられなくて、すぐに図書室を飛び出した。
走りながらわたしは、さっき恨んだことを棚のいちばん上に上げ、再びチャンスをくれた神様に手のひらを返したような感謝をしていた。