屋上への扉を開けると、春と夏の中間を予感させる生暖かい温度の風がわたしを迎えた。風は思いのほか強い。さりげなくスカートを抑えた。
わたしが屋上へ着いたとき、天宮くんはもうそこにいた。フェンスに軽く寄りかかり、所在なさげに校庭に視線を送っている。
綺麗な横顔だな、と思った。鼻は高く、唇の形も秀麗でなんとも素敵――と、ここまでははじめて彼を見たときにも感じたことだった。
けれど話しかけようとして、少し躊躇してしまった。いまの天宮くんには、どこか近づきがたい雰囲気がある。瞳にはどこか哀愁じみた光がたたえられ、すべてを達観したような感じを受ける。でも、見ずにはいられない独特の引力もある。そんな男性に冗談とはいえ結婚を申し込まれた事実に、不覚にも心臓の鼓動が高まった。
「天宮くん」
高鳴った鼓動を隠すように、必要以上に声を大きくしてしまった。そして、振り返る天宮くんはわたしを確認するなり、「ぷはっ」と吹き出した。同時に、近づきがたい雰囲気はどこかに霧散する。
「ああっ、どうして笑うのよっ」
「だって、綾瀬さんて意外に……お茶目なんだね。冗談にあそこまで真剣に乗ってくれるなんて思わなかったよ」
「あ、あれは天宮くんがいけないんだからね……まったくもう、転校して間もない生徒をいじめるなんて」
この話題でしばらく笑い合ったあと、本題に入る。
「それで、わたしのことを探してたみたいだけど?」
「うん。そういえばまだ連絡先交換してなかったね。うっかりしてた。……教室に鞄が置いてあったからまだ校内にいるのかと思ったけど、思ったより手間取っちゃった」
「ごめんね。放課後はずっと図書室にいたんだ。ちょっと調べたいことがあって」
「ふうん。転校早々大変だね。で、調べものは見つかったかい?」
「うん。おかげさまでね」
大事なことを見つけることができた。いや、見つけたというよりは「気づいた」と表現したほうが正しいかもしれない。
「やめた」と「捨てた」の意味の違い。でも、それはいまは関係ない。隅に置いておこう。
しかし次の瞬間。
「ああっ!?」
わたしは大声をあげていた。
「ど、どうかした……?」
「わたし、調べものに使った国語辞典、読んだまま片づけてないっ」
「……へ?」
「どうしよう……ああ……そういえば、嬉しくなって……読みっぱなしで飛び出しちゃったんだ……」
「え、飛び出したの? 綾瀬さんが? ええと、図書室から嬉しそうに? ……なんでまた?」
天宮くんは、わたしのその姿がどうしても想像できないらしい。だって、眉間にものすごいしわが寄ってる。
「うん。石川さんがすごく嬉しいことをメールで教えてくれて、それで……」
あのときは有頂天になって、なにも考えてなかった。……どうしてわたしは、月城くんがらみのことになると我を忘れてしまうんだろう。
司書さんの頭に角が生えた姿を、おもむろに想像した。携帯の件といい今回の件といい、絶対に顔を覚えられた。
……しばらく図書室に行くのはやめよう。
「ちなみに、その嬉しいことってなにかな。差し支えなければ教えてくれるかい?」
「あのね、天宮くんがB組の月城秀一くんと幼なじみだって話を聞いて……それで」
「なんだって?」
そのときの天宮くんの顔は、どう表現したらいいかわからなかった。心の底から驚くような、でもどこか嬉しいような、そんなどっちつかずの表情。天宮くんがこんな中途半端な表情をするなんて意外だった。
「いま、月城秀一って言った?」
さっきよりもわずかに涼しい風が吹き抜ける。
「う、うん……知ってるよね、月城くんのこと」
「どうして綾瀬さんは、秀一のことを?」
下の名前で呼ぶほど、彼と親しいということ……?
それはともかく、わたしは説明した。今朝、廊下で出会い頭にぶつかってしまったことを。
「それだけかい?」
「ううん……その、わたし……そのとき失礼なことを言って怒らせちゃったらしくて」
……それは、天宮くんに話していいのかな。でも、下の名で呼ぶほど月城くんと親しいなら、天宮くんは例の事柄を知っていてもおかしくはないはず――そう考えて、わたしは意を決した。
「……天宮くんは、月城くんがピアニストだったってこと知ってる?」
天宮くんの瞳に鋭利な光が宿った――ような気がした。
「――ああ。知ってるよ」
いつもより若干低い声。やっぱり、天宮くんは知っていた。そして唐突に、天宮くんの気配の質が変わった。
「でも、なんでそれを綾瀬さんが知ってるんだ? 秀一がピアニストだったことは、学園内では噂の域を出ないのに。しかも秀一とは別のクラスだ」
それをどうして、昨日転校してきたばかりのきみが知っているのか――天宮くんの瞳が、わたしにそう語りかけている。瞳の色は深い黒で、どこか刃物のような鋭さがある。やわらかな雰囲気を持つ天宮くんにしては意外な眼差しだった。さっき感じた鋭利な気配は気のせいではなかったらしい。
誤魔化せない――無意識のうちにそう悟った。不器用なわたしが、いまの奇妙なまでに鋭い天宮くんに太刀打ちできるはずもない。天宮くんの眼力は、わたしにそう悟らせるほどの説得力があった。
「わたしね、聴いたことがあるの。月城くんのピアノの演奏」
天宮くんが驚愕する。
このとき、奇妙なほど冷たい風が吹いた。
同時に天宮くんの、爽やかで近づきやすい存在感が、完全にどこかへ消えた。たとえるなら、いまの冷たい風が天宮くんの爽やかさをどこかへ吹き飛ばしたような、そんな感じ。
わたしの気のせいかもしれないけど、いまの天宮くんは、どこか達観した、人と距離感のある気配を放っている。これはそう……わたしが話しかける前に校庭を眺めていたときのような、とても同い年には思えないほど圧倒的な存在感。
怖い――ついそう思ってしまった。
「それは……直接かい?」
「う、うん」
天宮くんはわたしから視線を外し、真剣な眼差しで遠くを見た。考え込むような気配が伝わってくる。そして、「どういうことだ秀一……聞いてないぞ」と、小さくつぶやいたのを聞き逃さなかった。
天宮くんが再びわたしに向いた。
「それはいつの話?」
「え……えっと、五年くらい前かな」
天宮くんの気配に押されつつ、わたしは答えた。
「五年前ということは……場所は海外のどこか?」
「うん。イタリアのヴェネツィアだったよ」
忘れるはずがない。あれは、ヨーロッパでも指折りの歴史を誇るコンサートホールだった。満席の観客の前で紡がれた旋律。わたしの運命と価値観を変えたあの旋律。ちょっと思い出しただけで胸が絞めつけられた。
「えっとね――」
そのときの感想を、天宮くんに伝えた。あのときの感覚を言葉に表すのは、わたしの語彙では難しかったけど、それでも必死になって伝えた。
自分の価値観が変わるほどの衝撃を受けたこと。あの旋律を聴いて救われたこと。
天宮くんは静かに耳を傾けてくれた。
「価値観が変わるほどの旋律、か……どうやら本当らしいね。綾瀬さんの話」
「嘘なんてつかないよ」
「――じゃあ、単刀直入に訊く。きみはあいつになにを言ったんだ?」
「それは――」
今日、ずっと抱いていた違和感のきっかけ。あの言葉がなければ、わたしの疑問は生まれなかった。つまり、いまこうして天宮くんと向かい合って話していることもなかった。今日一日で、自分を取り巻く環境がめまぐるしく変化した、そのきっかけ。
「どうして……ピアノを捨てたの?」
月城くんに発したときとまったく同じ言葉を、同じ音、同じ間、同じ余韻で天宮くんに言った。
天宮くんが驚きのあまり後ずさったのは、わたしの気のせいではないみたいだった。今朝の月城くんの姿と、いまの天宮くんの姿が奇妙に重なった。
「あ、綾瀬さん、きみはっ――」
天宮くんは、いままでないくらいに声を荒げた。
「わ、わたし、なんか変なこと言った?」
「――いや、ごめん。少し落ち着こう……えっと」
「あ、天宮くんまでそんなに驚くなんて……」
「驚くなんてもんじゃないよ。おかしすぎる。だって、きみがその事実を知っていること自体が、すでにありえないことなんだから」
「あ……ありえない?」
「そう。ありえない。驚いたな……話は思ったより深刻だった。……やっぱり聞いてないよ、秀一」
目の前が真っ暗な闇に包まれたみたいになる。または蟻地獄に飲み込まれて、もがき苦しむ底なしの恐怖――自分の居場所を見失ったような、そんな恐怖感が生まれた。
「ねえ天宮くん、わたし、どうしてあんなこと言っちゃったのか自分でもわからないの……謝ったら、月城くんは許してくれるかな?」
「それは――」
「やっぱり無理? わたし、そんなに深くまで踏み込んじゃった?」
「……ああ。きみが言ったことは、秀一が抱えるいちばんの秘密……いわば心の闇の核心に触れている」
「――っ!?」
絶句。言葉が続かなかった。もっとも驚いたのは、天宮くんが月城くんのいちばんの秘密のことを「心の闇」と表現したことだった。
他人に知られたくない深刻な事情や秘密を、わたしはいつからかそう呼んでいる。
天宮くんはそれと同じ表現をしてきた。語彙が豊富そうな天宮くんがわざわざそう表現するくらいだから、月城くんにもわたしと同じくらい深い事情があるということになる。
「――綾瀬さん」
天宮くんはさっきよりも深く長く考えて、やがて言葉を紡いだ。その時間はわたしにとって異様に長く感じた。
「しばらく僕に任せてくれないかな。あいつと……秀一とも話してみるよ。だからしかるべき時が来るまで待っていてほしい」
「で、でも」
わたしの逡巡を察したのか、天宮くんは先まわりする。
「不用意なひとことで秀一を怒らせて、このままではどうしようもできないから、秀一と幼なじみである僕を頼って探していた。そういうことだよね?」
天宮くんの鋭さに呆気にとられたわたしは、曖昧にうなずくことしかできなかった。
「図星みたいだね。でも、残念ながらいまのままでは、秀一がきみに心を開くことはないと思う。下手なことをしたら、いま以上に警戒されるだけだ」
警戒――月城くんに……わたしが?
胸に鋭い棘が刺さったような感覚に見舞われた。
「だから、ひとまずは僕に任せてくれないかな」
天宮くんの眼差しは、いつの間にか普段のやさしいものに戻っていた。声色もやわらかく、怖いと感じてしまった天宮くんは、もうどこにもいない。
「うん……わかった」
いまは、天宮くんを信じるしかない――そう思うしかなかった。考えてみたら、自分ではどうしようもないから天宮くんを頼ったんだった。
「それじゃあ僕は行くよ……あいつがたぶん待ってるだろうから……じゃ、また明日ね」
天宮くんが歩き出し、頼りがいのある背中とすれ違う。
わたしはその姿を見送った。
「あ、そうだ」
天宮くんが足を止め振り返る。
「天宮くんがわたしのことを探していた理由は? 話があるんじゃ?」
「ああ……いや、それはもう大丈夫。用事は済んだよ。思った以上にね」
天宮くんは不思議な種類の微笑みを残し、再び歩き出した。
……どういうこと?
と、考えているうちに天宮くんは階段室の扉から校舎の中に入り、視界から消えた。がしゃん、と扉が大きな音を立てて閉まる。
天宮くんが去ったあと、わたしは空を見上げた。西の地平線へ沈もうとしている太陽に照らされ、空は鮮やかな朱色に染まっていた。
そして、いままででいちばん冷たい、凍えるような風が不意にわたしを包んだ。
今夜は冷えるのかな――なんとなくそう感じた。