第四章 02

 水平線の向こう側へ沈もうとする太陽の光が、俺たちの横顔を照らしている。
 周囲には人影がなく、砂浜で遊んでいた兄妹たちも、いつの間にかいなくなっていた。そこには未完成の砂の城が残されていた。
 ざざ――っと。大きな波が、砂の城を跡形もなく消し去る。それを見て、少し寂しくなった。
 
「――と、その前にまず、ひとつだけ教えてくれるかな」
「ん?」
「どうして綾瀬さんのことをそんなに気にかけるんだ?」
「それはメールに書いただろう。すげーかわいかったから、俺の手篭めにしたいって。だから彼女のことが知りたかっただけだ」
 
 信憑性の欠片もないことを、俺はまだ言っている。こんなことで哲郎を誤魔化せるとは最初から思っていない。哲郎に事情を全部話すのは、綾瀬由衣という人物の人なりをある程度聞き出してからでも遅くはないと思う。
 
「……まあ、手篭めがどうとかいうことは置いておくとして、きみが綾瀬さんに興味を持ったことは間違いないと」
「ああ」
「秀一の心の闇に、彼女が触れたからかい?」
「――なっ」
「出会いがしらに、どうしてピアノを捨てたのと、そう問われた。絶対に他人が知るはずもないことだ。でも、それを言ったのは見たこともない女子生徒。だからきみは驚きを通り越して戦慄した。違うかな」
 
 俺はうまく二の句が告げなかった。
 
「……うん、その様子からすると、どうやら図星のようだね」
 
 哲郎は確信を持ってそう言った。瞳に宿る、底なしの自信がそう裏づけている。事件の真相をすべて知った名探偵は、おそらくこんな瞳をするんだろうとなんとなく思った。
 
「おまえ……どうして」
 
 どうしてこんなに早く、核心までたどり着くことができた? 今日はせめて、彼女が何者であるかぐらいがわかれば充分だと考えていた。
 
「いろいろとね。僕が知りたかったことや、あるいはきみが知りたかった以上のことを、彼女は語ってくれたよ」
「いったいどんな手を使ったんだ? おまえだって、彼女と出会ったのは昨日の今日だろう」
 
 展開が速すぎる。昨日転校してきたばかりの生徒が、別のクラスの人間の知るはずもない秘密を知っていた。それだけでもありえないのに、その日の放課後には、俺と綾瀬由衣の現時点で唯一の接点を持つ哲郎が、そのありえない事実をほぼすべて把握していた。
 
「……まさか、おまえが手篭めにしたんじゃないだろうな?」
「はは。まさか」
 
 哲郎は一笑した。
 
「ただ予想外の収穫があったのは間違いないよ。僕がきみについて話そうとする前に、彼女自身から切り出してきた。月城秀一のことをね」
「俺のこと……?」
「彼女はね、きみと僕が幼なじみだったことを偶然知って、放課後に僕のことを探していたらしい。僕もきみのメールが気になって綾瀬さんのことは探していたから、ずいぶんとタイミングがよかったね」
「どういうことだ?」
「確認するけど、秀一のほうは本当に綾瀬さんのことを知らないんだよね?」
「ああ。俺は綾瀬由衣を知らない。今朝はじめて会った人物だ。俺が一度会った人間を忘れたくても忘れられないのは知っているだろ」
「うん……でも、彼女のほうはそうではなかったみたいだね。五年も前からきみのことを知っていたみたいだよ」
 
 五年前。その頃……俺は。
 
「おい、ちょっと待て。まさか」
 
 導き出せる答えはそう多くない。五年前、俺はどこでなにをしていた?
 
「うん、そのまさかだった。彼女は、きみがまだプロのピアニストだったとき、きみの演奏を聴いたみたいだよ。ひとりの観客としてね――で、そこで彼女は救われたんだって。あと、価値観が変わるほどの衝撃を受けたとか」
  
 断片的だった点と点が、これで少しは結ばれた。哲郎のメールには、彼女についてなんて書いてあった?
 
『――イタリアからの帰国子女だってさ――』
 
 五年前、俺はまだプロとしてピアノを弾いていた。活動の場は主にヨーロッパ周辺。たしかに、イタリアにある数多くのコンサートホールや歌劇場でも、何度かリサイタルを開いたことがある。
 そこに観客として彼女がいたなら、俺のことを知っていてもおかしくはない。
 ただしそれだけでは、俺の秘密を知っていることの説明がつかない。
 五年前なら、俺がピアニストを引退するだいぶ前だ。あのときはまだ、ピアノを弾き続ける理由があった。
 
「……問題はなんで彼女が、俺がピアノを捨てたことを知ってるかってことだ」
 
 俺はいまから二年前にピアノ界を引退した。それを発表した当初はかなりの注目を集めたが、俺はそのときにピアノを「捨てた」なんて言葉は一度だって使っていない。
 公には。
 俺が綾瀬由衣に警戒しつつも興味を抱いた理由はそこにある。俺がかつてピアニストだったことを知った人は、俺に対してまずこのように問う。
 
『どうしてピアノをやめたんですか』
 
 やめると捨てるという言葉は、根本的に意味が違う。そして、俺にふさわしいのは「捨てる」という言葉のほうだ。
 俺はピアノを捨てた。二年前のある日、俺の中のピアノを弾く理由が完全に消失した。
 ――月城桃子。
 なによりも大切だった少女の名。その儚い姿が、鮮やかによみがえる。
 でも、その真実を知っている人は、この世界にふたりしかいない。ひとりは隣でミルクティーを飲んでいる天宮哲郎。しかし、綾瀬由衣はもうひとりの人物じゃない。
 それなら、綾瀬由衣はいったいなぜ――?
 
「――秀一」
「……あ?」
「あのさ、ひとつ気になることがあるんだけど。きみの真実を知っているのは、僕だけなのかい?」
 
 もうひとりの人物の存在については、哲郎にも詳しく教えてない。こいつは意味もなく訊いてくることはないし、その必要性もないからいままで黙っていた。まあ、もう話してもいいかもしれない。
 
「実はもうひとりいる」
 
 さすがの哲郎も驚いた様子だ。
 
「そうか……で、そのもうひとりの人物って?」
 
 驚いたのは一瞬で、すぐ冷静になって尋ねてきた。
 
「たぶん、クラシックが好きなおまえなら知ってるよ」
「え……誰だい?」
「そうだな……『ゲンテイ』と言えばわかるかな。弦楽器の弦に帝王の帝で『弦帝』だ」
 
 彼の異名だ。
 
「――え」
 
 そのときの哲郎の顔は、おそらく今後も忘れられないだろう。こいつがこんな、馬鹿みたいに大きく口を開けて驚くことなんてまずありえないから。
 
「知っているみたいだな」
「し、知ってるもなにも、世界でも屈指のヴィルトゥオーソじゃないかっ!」
 
 ヴィルトゥオーソなんて専門用語がさらっと出てくるあたり、哲郎のクラシック好きも大したものだ。
 ヴィルトゥオーソとは、超一流の演奏家を表すイタリア語だ。完璧なまでの演奏技術と、卓越した表現力を併せ持つ者を称賛する言葉。世界広しとはいえ、ヴィルトゥオーソと呼ばれる演奏家はそう多くない。
 哲郎が興奮するのも無理はないだろう。俺が口にした彼の異名は、最高峰のヴィルトゥオーソとして、その名を世界中に轟かしている高名な演奏家なのだから。
 クラシック音楽が三度の飯よりも好きな哲郎なら、彼を知っていても不思議ではない。また、彼は親日家で、日本でも何度かリサイタルを行ったことがあるから、知名度もそれなりにある。
 
「で、でも秀一。たしかに、きみならかの弦帝と交流があっても不思議ではないけど、なぜ彼がそれを?」
 
 哲郎の言う「それ」とは、俺の「他人に触れられたくない真実」を指しているんだろう。
 
「ああ……それは順番に説明する必要があるな」
 
 そういう前置きで、俺は過去の出来事を話し始めた。
 彼とは七年前ほど前に、とある演奏会を通じて知り合った。そして、しばらく交流を続けるうちに彼のほうが、俺がピアノを弾く本当の理由を見抜いてきた。
 最初に重要なのは、俺がピアノを捨てるよりも前に、「なぜプロとしてピアノを弾いていたか」ということだ。
 俺がピアノの演奏会に行くときには、傍らには必ず桃子がいた。彼女はどんなときでも、舞台袖で静かに俺を待っていた。そこに例外はなく、彼女は俺だけを儚げな瞳で見つめていた。
 当然、弦帝も桃子の存在には気づいていたはずだ。そして、桃子の持つ尋常じゃない特異性を察したとき、彼にはすべてがわかったんだと思う。
 
「――弦帝は最初に、きみがピアノを弾き続ける理由を察したと?」
「ああ。卓越した慧眼を持っていたからな、あの人は。でも、彼は真実に気がついても、俺に対する態度はなにも変わらなかった」
 
 嘲りも侮蔑も軽蔑もなく、ただその理由が当然であるかのように認めてくれた。あの人は、俺が想像する以上に高潔で孤高だった。
 
「それで俺ははじめて、親以外の大人を――心の底からあの人を尊敬したんだ」
「……尊敬」
 
 俺の口から「尊敬」という言葉が出たのがめずらしいのか、哲郎は眉をひそめ、難しい顔をした。
 
「彼との交流は、その演奏会が最初で最後だった。でも、二年前……あの出来事のあとすぐ、俺は彼に電話したんだよ」
「きみのほうから、弦帝に連絡したのかい?」
 
 哲郎は、さっきとは別の意味で眉をひそめた。たぶん、俺のほうから誰かにアプローチをかけたことが信じられないんだろう。
 
「ああ。俺のほうからだ」
 
 ピアニストを引退し、日本へ帰国する――その旨を、俺は彼に伝えた。別にそこまで親しくなったわけじゃない。でも俺は、なぜか彼だけには知ってほしかった。
 
「そのとき伝えたんだよ。俺がピアノを『捨てた』ということを」
 
 あのとき、「やめた」とは言わなかった。もっとも大切なものを失い、ピアノを弾き続ける理由がなくなった。だから「捨てた」という事実だけを彼に伝えた。
  
「自分から話したのか……で、弦帝はなんて?」
「ただひとこと、『そうか』とだけ」
「……それだけ?」
「ああ」
 
 ここでもあの人はなにも言わずに認めてくれた。でもそれでよかったんだ。俺はなにより、たったひとりでもいいから認めてほしかったんだ。そして彼ならそうしてくれるだろうと俺は確信していた。
 
「きみがそこまで心酔するほどの人か……すごい人なんだね。やはり弦帝の異名は伊達じゃないんだ」
「ああ。俺が掛け値なしに尊敬した唯一無二の大人だ。あんな人、ほかにはいなかった」
 
 これから先、彼のような人間と出会うことがあるだろうか。
 
「話を戻すぞ――だからな、彼の口から真実が暴露されたなんていうのはありえないからな。あの人はそんな平凡な人じゃない。第一、綾瀬由衣との接点はなんだ」
「でもさ、ほかになにが考えられる? 断言するけど、僕がきみの秘密を吹聴するなんてこともありえない」
 
 あの人が掛け値なしに尊敬できる人なら、哲郎は掛け値なしに信頼できるやつだ。
 
「そんなことはわかってる。そもそも、おまえだってあの人が犯人なんて最初から疑ってないだろ」
「当たり前だよ。僕が最高に聞き惚れた演奏家のひとりだぞ。ただ言ってみただけだ」
 
 ……もし、もしも彼が俺の真実を暴露した犯人だとして、それが綾瀬由衣に伝わる接点と要因はなんだろう。そして、あれほどまでに素晴らしい人が、他人の知られたくない秘密を吹聴する理由はどこにあるんだろう。
 まったくわからなかった。この推測は、やっぱり間違ってるんじゃないか?
 ……いや。ちょっと待て。
 
「そもそも、綾瀬由衣はイタリアでなにをしていたんだ?」
「ああ、それね。お父さんの仕事の都合上、って彼女は言ってたよ」
「へえ。――で?」
「アヤセタカアキって名前に聞き覚えある?」
 
 記憶の引き出しを探る。ひとりだけ心当たりがあった。頭の中ですぐに綾瀬孝明という漢字に変換される。
 
「三年前にピューリッツァー賞を受賞した、日本人ジャーナリストの名前だったよな……って、まさかその人が?」
「うん。その人が綾瀬さんのお父さんだよ。さすがは秀一。よく知ってたね」
「まあな……ていうより、その人となら会ったことがあるな」
「えっ? 会ったって、綾瀬孝明氏と?」
 
 哲郎はまた驚いたようだ。それにしても、今日は自分が驚いたり、他人を驚かせたり、いろいろと忙しい日だ。
 
「一度だけな」
「い、いつの話?」
「三年前。綾瀬孝明氏がピューリッツァー賞を受賞した直後だな」
「なんでまた」
「アメリカの高級ホテルで、ピューリッツァー賞を受賞した人たちを祝福するパーティーがあったんだよ。そのとき俺は、特別ゲストのピアニストとして招かれた」
 
 ヨーロッパ以外でピアノを弾くのはめずらしかったから、そのときのことはよく覚えている。
 
「ま、またすごい偶然だね……」
 
 運命の神様というのは、本当にいるのかもしれない。
 
「ああ。世界は広い。でも、世間はおまえが思っているよりもずっと狭いぞ」
「きみが言うと説得力があるね……それで、そのとき孝明氏とは話したのかい?」
 
 俺はうなずいた。
 
「そのときあの子――桃子ちゃんは近くにいた?」
 
 桃子という名を口にするとき、哲郎の声はいつも必ず悲痛な響きをはらむ。
 
「ああ。いつもどおり俺の服の袖口をつかみながらついてきてたよ。……でも孝明氏と話したと言っても、挨拶の範疇を超えない程度の、簡単な会話を交わしただけだ」
 
 桃子は人が大勢いる環境がとにかく苦手だ。だから俺はマナーとして必要最低限の挨拶を済ませただけで、演奏終了後すぐにパーティー会場をあとにした。「早くふたりきりになりたい」と、桃子の瞳が、そんな切ない光を放って訴えていたから。
 
「秀一、そのとき孝明氏に、見抜かれたってことはないかな」
「……俺がピアノを弾いていた本当の理由を?」
「そう。それで、きみが引退発表をしたときに、察することができた」
 
 それが娘である綾瀬由衣に伝わった――こういう筋書きだろうか。たしかにありえない話ではない。先の弦帝が俺の秘密を吹聴したという説より、よほど説得力がある。
 
「たしかに孝明氏はジャーナリストやってるくらいだから洞察力も高いだろうけど、あんな短期間の交流でそこまで見抜く能力があるなら、それはもう超能力と呼んでもいいぞ」
 
 綾瀬孝明氏の姿を思い出す。日本人にしてはめずらしいくらい長身で筋肉質な体格。ジャーナリストというよりは格闘家と言ったほうがしっくりくる。
 ところで、綾瀬由衣と孝明氏は本当に親子なのか? 全然似てないぞ。 
 そういえば、ひとつ気になることを思い出した。パーティー会場の壇上でピューリッツァー賞受賞の喜びを語る孝明氏。俺はその姿を舞台袖から見ていた。
 そのときの彼は、本当に心から喜んでいたんだろうか。哀しそうな雰囲気と、なにかに激しい怒りを覚えているような雰囲気が混じったような……どこか戚然とした、痛々しい雰囲気が伝わってこなかったか……? いまさらだが、その理由が気になってくる。
 
「ねえ秀一……これはあくまで僕の勘、なんだけどさ」
「なんだ?」
 
 哲郎の勘は恐ろしく鋭い。
 
「綾瀬さんてさ、まだなにか隠してるんじゃないかと思うんだ。しかもかなり重要なことを」
「重要なこと?」
「うん。昨日と今日、話してみてそう感じた。彼女、考えてることが顔に出やすいみたいだから」
 
 哲郎の鋭いアンテナがそのようにキャッチしたなら、それは充分、信憑性に足りる。
 
「でも、それはなにか詳しくはわからない、と」
「うん。さすがにまだ壁があるからね。転校してきたのが昨日だからそれは仕方ないと思うけど……あ、そういえば」
「ん?」
「昨日、お父さんの話をするときの綾瀬さんの表情が、どうにもこうにも腑に落ちないっていうか……」
「どんな表情だったんだ?」
「えっとね、顔では笑っているんだけど……その笑顔の奥に、悲哀と憤慨を足して割ったような、そんな不思議な気配が潜んでいたような気がするんだ」
 
 悲哀と憤慨。微妙に難しい言葉を使っているが、要するに哀しみと怒り、ってことだろう。
 それはつまり――
 父親と娘。綾瀬孝明氏と綾瀬由衣。
 ふたつの感情が混じったような表情。
 こんなところに共通点が?
 ……いったいどういうことだ。
 
「その理由を探れるか?」
「まあ、無理じゃないと思うけど……時間はかかるよ? っていうより、それが秀一の秘密を知っていたことと関係あるのかな」
「どちらでも別に構わない。やってくれ」
「まあ、秀一の頼みなら無下にはできないけどさ……それって、きみも綾瀬さんの内面に深く踏み込むことになるんじゃない?」
「それがどうした」
「いや、なんていうか……それは秀一のスタンスではない気がするんだけど」
 
 たしかに哲郎の言うとおりだ。俺は無闇やたらと他人の内面に踏み込む真似はしない。俺自身が踏み込まれることを極端に嫌っているからだ。
 でも、俺の中に問答無用で踏み込んできた綾瀬由衣。彼女は、他のやつらとなにかが違う。なにが違うのかと問われても、その理由を明確に答えられるほどの材料は持ち合わせていない。ただ、彼女がはじめて出会ったタイプだとは断言できる。
 
「……面白いじゃないか」
 
 俺の中の黒い感情が、産声をあげる。綾瀬由衣が内面に秘める、なんらかの秘密。その中身を俺が探っても、ばちは当たらないだろう。
 
「……秀一……?」
 
 俺の黒い感情を敏感に感じ取った哲郎は、心なしか心配そうな眼差しを向けてくる。
 ひゅう――と。
 そのとき、ひときわ強い潮風が、俺と哲郎をなでた。それが妙に冷たく鋭く感じたのは、気のせいだったのだろうか。





光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~

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