穏やかな波が、すぐ目の前にある砂浜に打ち寄せている。
感慨深げにそれを眺めたあと、歩みを進めた。
周囲に人影がないのは幸いだった。この浜は遠浅で岩礁も多いから、もともと海水浴には向いてない。しかも、いまはまだ泳げるような季節じゃないから、普段から人が少ない。
だから俺と桃子は、ひまを見つけてよくここに来たんだ。
誰もいない砂浜に座って、お互い肩を寄せ合っていた。ほかにはなにもしない。無言で押し寄せてくる波を眺めていた。
思えば、あのときが俺と桃子にとって、いちばんしあわせだったのかもしれない。
足に波が届く。冷たい海水が靴の中に浸入してきても、歩みを止めなかった。
この冷たさを越えれば、俺は桃子に会える。またあのぬくもりに触れることができる。
さすがは遠浅の海。しばらく進んでも、膝より上が海水で濡れることはなかった。
しばらく進むと、がくん、と足場が急になくなる。よろけるように前のめりになり、俺は頭まで沈んだ。
体勢を立て直しても、胸までが海面の下へ沈んでいた。急に水深が深くなっていたようだ。
再び歩みを進める。さっきまでとは違って、急に勾配がきつくなっていく。
それでも臆することなく俺は歩んでいく。
――不意に、俺の名を呼ぶ声がした。
一瞬、桃子の声かと錯覚したけど、どうやら違うらしい。声は背後の砂浜から。しかも男の声だった気がする。さらに加えてかなり悲痛な響き。
それならひとりしかいない。
……哲郎。
相変わらず目聡いやつだ。
でも、哲郎に助けられるわけにはいかない。
ついに、頭まで完全に沈んだ。呼吸を整えていなかったから、すぐに息が苦しくなっていった。
けれど怖くはない。死の先に桃子がいるのなら、死は恐れるに値しない。
涙が溢れているのが、海水の中でもわかった。熱い涙が、冷たい海水と混じっていくのをおもむろに想像した。
ごほっ、と大きな息の塊を吐いた。口の中に海水が流れ込んでくる。
……しょっぱい。
ああ、これはたったいま流した涙のしょっぱさかもしれないな――そんな詩的なこと考えられる余裕も、もうわずかだろう。
意識が遠のいていく。
――だが。
「――っ!?」
急になにかに腕をつかまれ、俺の意識は現実へ戻された。力強い腕が、俺の体を海上へと引き上げようとしている。
俺の最後の願いは、どうやら届かなかったらしい。
残りわずかな力を振り絞り、その腕を引きはがそうとした。いいから離してくれ。俺はもう死にたいんだ――そんな想いを力に込めた。
でも、俺をつかむ腕はいっそう力を強くし、意地でも離そうとしてくれなかった。
意識は体とともに、再び深い海の底へ沈み始めた。
――だが、再び。
「――ぁ?」
朦朧とした意識の中で俺は、なにかに包まれた気がした。冷たい海の中でもなぜかそれは温かいような、不思議な温度を感じた。
「――んっ!?」
急に唇が塞がれ、大量の空気が肺へと流れ込んでくる。
そこではじめて見えた。俺をつかんでいたのは、天宮哲郎ではなかった。
長い黒髪が海の中をたゆたっている。
綾瀬由衣の必死な顔が、すぐそこにあった。