第十一章 07

 穏やかな波が、すぐ目の前にある砂浜に打ち寄せている。
 感慨深げにそれを眺めたあと、歩みを進めた。
 周囲に人影がないのは幸いだった。この浜は遠浅で岩礁も多いから、もともと海水浴には向いてない。しかも、いまはまだ泳げるような季節じゃないから、普段から人が少ない。
 だから俺と桃子は、ひまを見つけてよくここに来たんだ。
 誰もいない砂浜に座って、お互い肩を寄せ合っていた。ほかにはなにもしない。無言で押し寄せてくる波を眺めていた。
 思えば、あのときが俺と桃子にとって、いちばんしあわせだったのかもしれない。
 足に波が届く。冷たい海水が靴の中に浸入してきても、歩みを止めなかった。
 この冷たさを越えれば、俺は桃子に会える。またあのぬくもりに触れることができる。
 さすがは遠浅の海。しばらく進んでも、膝より上が海水で濡れることはなかった。
 しばらく進むと、がくん、と足場が急になくなる。よろけるように前のめりになり、俺は頭まで沈んだ。
 体勢を立て直しても、胸までが海面の下へ沈んでいた。急に水深が深くなっていたようだ。
 再び歩みを進める。さっきまでとは違って、急に勾配がきつくなっていく。
 それでも臆することなく俺は歩んでいく。
 ――不意に、俺の名を呼ぶ声がした。
 一瞬、桃子の声かと錯覚したけど、どうやら違うらしい。声は背後の砂浜から。しかも男の声だった気がする。さらに加えてかなり悲痛な響き。
 それならひとりしかいない。
 ……哲郎。
 相変わらず目聡いやつだ。
 でも、哲郎に助けられるわけにはいかない。
 ついに、頭まで完全に沈んだ。呼吸を整えていなかったから、すぐに息が苦しくなっていった。
 けれど怖くはない。死の先に桃子がいるのなら、死は恐れるに値しない。
 涙が溢れているのが、海水の中でもわかった。熱い涙が、冷たい海水と混じっていくのをおもむろに想像した。
 ごほっ、と大きな息の塊を吐いた。口の中に海水が流れ込んでくる。
 ……しょっぱい。  
 ああ、これはたったいま流した涙のしょっぱさかもしれないな――そんな詩的なこと考えられる余裕も、もうわずかだろう。
 意識が遠のいていく。 
 ――だが。
 
「――っ!?」
  
 急になにかに腕をつかまれ、俺の意識は現実へ戻された。力強い腕が、俺の体を海上へと引き上げようとしている。
 俺の最後の願いは、どうやら届かなかったらしい。
 残りわずかな力を振り絞り、その腕を引きはがそうとした。いいから離してくれ。俺はもう死にたいんだ――そんな想いを力に込めた。
 でも、俺をつかむ腕はいっそう力を強くし、意地でも離そうとしてくれなかった。
 意識は体とともに、再び深い海の底へ沈み始めた。
 ――だが、再び。
 
「――ぁ?」
  
 朦朧とした意識の中で俺は、なにかに包まれた気がした。冷たい海の中でもなぜかそれは温かいような、不思議な温度を感じた。
 
「――んっ!?」
 
 急に唇が塞がれ、大量の空気が肺へと流れ込んでくる。
 そこではじめて見えた。俺をつかんでいたのは、天宮哲郎ではなかった。
 長い黒髪が海の中をたゆたっている。
 綾瀬由衣の必死な顔が、すぐそこにあった。




光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~

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