空気を震わせて響くその旋律に、少女は言葉に表せない未知の感覚を抱いていた。
空間に響きわたるピアノの旋律。それは地球の裏側にいても聴こえてきそうなほど、神聖で澄みきった調べだった。
その旋律が、少女の中に眠る未知の感情を呼び起こす。
いままで感じたことのなかったありとあらゆる感情が、ピアノの旋律に喚起されて産声をあげた。
少女の内面で感情の波がうねり、激しい奔流となっていく。旋律が転調するのに合わせて、その波も次から次へと形を変えた。
少女はピアノがここまで神秘的な音を奏でるということも知らなかった。音を鳴らす楽器のひとつ――そのような認識しか持ち合わせていなかった。
でも、この音は違う。なにかが決定的に違う。
ただの音ではない。
光だ。
音は光に変換されて、少女の全身をやさしく包み込む。
温かい光。希望に満ちた光。それは少女がいままでずっと触れたくて、それでも触れることができなかったものだった。
「――――ぁ」
少女の頬を、熱いものが流れる。
ひとすじの涙と、止めどなく溢れてくる想い。
自分がどうして涙を流しているのか、少女は理解できなかった。たしかなのは、喜怒哀楽を超越したなにかが、ピアノが紡ぎ出す旋律を通じて、少女の心を揺さぶっていることだけ。
やがて――
最後の一音が響いた。その音は空気に霧散していく。ゆっくりと歩くような速さで、静かに消えていった。
まもなく訪れたのは静寂。空間を支配したのは、狂おしいほどに切ない静謐だった。時間が止まった――少なくとも少女にはそう感じられた。
ピアノの演奏を聴いていたのは一秒だったのか、それとも数時間だったのか。まったく判断できないほどの奇妙な感覚。
ピアノの弾き手が椅子から立ち上がり、観客と向かい合った。
ひとりの少年。少女と同じくらいの年齢。あどけない顔立ちに達成感と誇りを浮かべている。ピアノの音色と同じく、果てしなく澄んだ瞳。神々しいまでに晴れやかな表情だった。
少年が、観客に向かって優雅に一礼した。
次の瞬間、大きな拍手が静寂を破った。そのとき少女は、自分以外の人間もここにいたのかと、あらためて思い出した。少年とピアノ以外の存在は、この瞬間まで認識の外にあった。
「――っ」
ああ……やだよ……
もう終わりなの?
――もっと聴いていたい。
――ずっと聴いていたい。
――わたしのためだけに弾いてほしい。
――わたしのことだけ見ていてほしい。
少女に、そんな淡い願望が生まれる。
このとき、少年と少女が運命の邂逅を果たした。