翌日は寝坊することなく、ちゃんと起きた。
なんの変哲もない朝の日常を経て、悠、奈々と一緒に学園へ向かう。
今日はいつもどおりの時間に家を出たから、バス停で惺と遭遇しなかった。そのせいか、奈々がちょっとだけ残念そうな顔をしていた。悠は特に変わりない。まあ、昨日がイレギュラーなだけの話だ。
バスに揺られること20分。バスを降り、正門へ。
正門から校舎まで、直線距離600メートルの長大な通りがある。ふたつのグラウンドに挟まれたこの通りは、「創樹院通り」と呼ばれているメインストリートだ。登校の際はこの通りを抜ける時間をあらかじめ考慮しておかないと、遅刻してしまうから要注意だ。
道端には等間隔に桜が植えられていて、満開になる春は、息をのむほど美しい風景になる。さすがにもう桜は散ってしまっているけど、代わりにみずみずしい緑の葉が生い茂っていた。
グラウンドでは、サッカー部や野球部などが朝練を行っている。学園の敷地の縁に沿って走っているのは陸上部だろう。
まだ比較的早い時間帯とはいえ登校してくる生徒も多く、それなりに賑わっていた。あと15分か20分くらいしたら、登校してくる生徒がピークになって、創樹院通りがまるで大規模な縁日かお祭りのような状況になる。
一歩先を歩く悠は、運動部が活動しているグラウンドをなんとなく見つめながら、どこか幸せそうに、ほのかに微笑んでいる。さらに時折、知り合いの生徒から挨拶されて、極上の笑みを添えて返事をしている。昨日のような「らしくない」姿は微塵もない。これがいつもの真城悠だ。
対照的に、隣を歩いている奈々は、表情に陰りが見える。
「奈々、今日の部活は?」
「今日は自主練かな。遠坂さん……あ、ドラムの子が家の用事で出られないみたいだから」
軽音部のバンドは、全員そろわないと昨日のような全体練習はやらない。誰か欠けるときは、空き教室を借りて集まれるメンバーだけで練習するそうだ。
「お兄ちゃん、なんか心配してる?」
「それは……まあ」
昨日、あんな光景を目の当たりにしたら、さすがに心配になってしまう。奈々はどちらかというと悩み事をひとりで抱え込むタイプだから、なおさら放っておけない。
……俺も人のこと言えないけど。
「奈々は綾瀬さんと仲いいんだよね?」
「うん」
「こう言っちゃあれだけど、奈々とは合わないタイプのような気がするんだけど」
なんでも明け透けに言ってしまう綾瀬さんと、気を遣いすぎて思ったことがなかなか言えない奈々。正反対に思えるのは俺だけではないはず。
「そうかな? 愛衣ちゃんとは別のクラスになっちゃったし、この学園に入って、たぶんクラスメイトの中ではいちばんしゃべってるよ」
「へえ。意外だな」
「美緒ちゃん、怒ると手がつけられなくなるけど、基本的には面倒見がいいんだよ。楽器はなんでも弾けるから、みんな教えてもらってるし。わたしにベースの基礎教えてくれたの、美緒ちゃんだもん。曲もね、ベースの部分をわたしの実力に合わせて編曲してくれてるし」
「そうなのか?」
「うん。美緒ちゃん器用なの……えっと、音楽に関してはね」
苦笑いしながら奈々が言う。
「なるほど。その代わりに人付き合いとか協調性がないタイプなのね」
「はは……そうだね」
天才肌に多いタイプか。
「凜くん。奈々ちゃんと綾瀬さんは、話を聞いている限り相性がすごくいいと思うの」
「え?」
「綾瀬さんの性格の強さを、奈々ちゃんの気配り上手がうまく調和しているっていうのかな」
悠には、昨日の学園散策のことは話してある。
「悠って綾瀬さんに会ったことあるの?」
「ううん。写真は見せてもらったけど、直接会ったことないよ」
「じゃあ、話を聞いただけか」
「うん。何度か相談されてね……奈々ちゃんのバンドは、奈々ちゃん抜きだと成立しないはずだよ。奈々ちゃんが潤滑油みたいな存在だと思うから」
「愛衣ちゃんにも似たようなこと言われたよ。奈々がいないと綾瀬が手に負えない! って」
奈々がいても手に負えない場面はあるんじゃないかと、昨日の様子を見る限り邪推してしまう。
「でもね奈々ちゃん。綾瀬さんに言いたいことがあるなら、きちんと言わないとだめだよ?ほかのみんなに対してもそう」
「うん……わかってるんだけど」
「昨日見た感じだと、ほかのメンバーはだいぶ綾瀬さんに不満がたまっているような気がしたね」
「うぅ。やっぱりそうなのかな。最近、みんな美緒ちゃんに対して怒りっぽくなってきたような気がするし」
「それはちょっとまずいかもね。わたしたちでよければいつでも相談に乗るから」
「ありがと、悠ちゃん。わたし……がんばるっ!」
会話しているうちに、エントランスホールに着いた。1年生の奈々はA校舎へ。俺と悠は、B校舎へ向かった。
「そういえば、奈々ちゃんの演奏はどうだった?」
「よかったよ。思ってたよりもうまかった。ほかのみんなもね」
俺が感じた違和感、そして惺が言っていたバンドの弱点は黙っておいた。惺に関わることは言わないほうがいい。
「そうなんだ。わたしもそのうち見学しに行こうかな」
「はは。生徒会副会長が来たら、さすがにみんな萎縮するんじゃないか?」
「えー、そうかな?」
階段に差しかかったところで、さらさらと舞う銀髪が視界に入った。
「……セイラ?」
「凜か。おはよう」
振り返るときになびく銀の長髪は、はっとするほど美しかった。セイラは俺と悠を交互に見てから、
「惺はいないのか?」
と、いまもっとも言ってほしくない人物の名を口にした。
「えーと、惺とはいつも別々に登校してるんだよ」
「そうなのか? 星峰と真城の家は、ご近所だと聞いたが。てっきり一緒に登校していると思っていた」
「い、いろいろあるんだよ」
黙ったまま隣にいる悠が怖い。セイラを見据える視線が、どんどん冷たくなっていく。
「そうか。ところで、真城悠」
「……なに」
その声の冷たさに、背筋が凍えるような錯覚を覚える。
「昨日、きみとちゃんと話してなかったと思ってな。あらためてよろしく」
「わたしは……わたしはあなたとなれ合うつもりはありません」
「ふむ。わたしはきみに嫌われるようなことしたか? もしそうだとしたら謝罪するが、あいにく心当たりはないんだが」
「…………」
無言で、突き刺さるような眼差しをセイラに向けている。
「もしかして、惺にキスしたことを怒っているのか?」
「――――っ!? ち、違いますっ」
「そうなるとますます理由が思い当たらなくなるな」
「……凜くん」
「は、はい?」
「わたし、先に行くね」
「わっ――ちょ、ちょっと待ってっ!」
「……凜くん?」
まずい。呼び止めたはいいものの、なにを言うか考えてなかった。
「…………えっと……」
考えろ……考えろ……!
「――昨日、セイラたちと放課後の学園の散策やった話はしたよね? で、それ今日もやる予定なんだけど、悠も付き合わないか?」
「え……わたしが?」
「そ、そう!」
「どうして?」
「や、ほら、今日は生徒会の活動ないって言ってただろ。予定空いてるかなって思ってさ」
「そうじゃなくて、どうしてわたしも?」
「えっと……」
よく考えたら、惺もいるんだから、悠が了承してくれるとは考えにくい。
「ふむ。わたしは構わないぞ。惺も特に問題ないだろう」
「ど、どうしてあなたに惺のことがわかるの?」
「昨日、惺からきみの話は聞いた。だからおおよその事情は知っている。……だがどう見ても、惺をさけているのはきみのほうだろう? 惺はきみをさける理由がない」
「――っ!? あ、あなたにそこまで言われたくない!」
「そうか。ではこれ以上なにも言うまい」
「――――っ」
胃のあたりがキリキリ痛んでくるのを、必死でこらえた。
「あのさ悠、もちろん無理にとは言わないから……ね?」
「……するわ」
「え?」
「わたしもご一緒させてもらうわ!」
「ええっ!?」
「どうしてそんなに驚くの? 誘ったのは凜くんだよ」
「そ、そうだけど、いいの?」
「もう決めたからっ! 生徒会副会長として、学園の風紀を乱さないよう、わたしはあなたを監視する義務があります! そう、あるんです!」
途中からセイラを見ながら言い放った。頭のいい悠にしてはこじつけた感じが拭えないけど、ほかに言い方が思い浮かばなかったんだろう。
「ふふっ……監視、か」
「なにがおかしいの?」
「いや、なんでもない。ちなみに昨日は、風紀を乱す真似はなかったはずだ。そうだろう?」
「ん。まあね」
「だが、凜が帰ってからは惺とふたりっきりだったがな。しばらくしたら教室から誰もいなくなったから……ふふ、濃厚な時間を過ごさせてもらったよ」
妖艶な笑みを浮かべるセイラ。
「~~~~っ!?」
顔を真っ赤にして反応するのは悠。口をパクパクとさせているが、なかなか言葉が出てこない。
……俺が帰ったあと、なにもなかったよな?
「セイラ、頼むからこれ以上話をややこしくしないでくれ」
「そうか。ふむ……自重しよう」
「あなた、わたしをからかっているの!?」
怒気をはらんだ悠の声に、近くを通り過ぎる生徒たちが何事かと振り返る。
「そういうつもりはない」
「でもっ」
「気に障ったのなら謝罪しよう。放課後も別に付き合う必要はないぞ」
「そ、それとこれとは話が別っ……ああもうっ! 凜くん、わたし、先に行くから」
「あ、悠!」
行ってしまった。
「……なあ、セイラ」
「なんだ?」
「胃に穴があいた」
「それは困ったな。保健室に連れて行こうか?」
またからかうような調子で言ってくる。
「とりあえず、俺たちも教室に行こう」
並んで階段をのぼる。
「それで、俺が帰ったあと、なにもなかったんだよな?」
「惺を机の上に押し倒して、わたしが馬乗りになって制服を脱ごうとしたことはあったが、残念ながら逃げられてしまった――っと。凜、顔が怖い」
心の奥底からわき上がる暗闇を、今回はさすがに押し殺すことはできなかった。
「悪い。そういう冗談は本気で好きじゃないんだ」
深呼吸して無理やり落ち着かせる。
「それはすまなかったな……いま言ったことは忘れてくれ」
「……いいよ、別に」
「ところで、冗談ではなく、本当にあった出来事だと補足しておく」
「うぉーいっ!?」
教室でなにやってんだ!
もう惺とセイラをふたりにするのは、断固として阻止しよう。いろいろな意味で危なすぎる。
「あー、そうだ。惺になんて説明しよう」
悠も参加します。ああそうですか――となるわけがない。
「気に病むことではないだろ? ありのままを伝えればいいさ」
「そう簡単にいくかな」
「凜、きみは頭の回転は速いほうだと思うが、余計なことを考えすぎる傾向があるな。それから心配性か?」
「誰のせいだっ」
「まあ、そう気を立てるな。……ふふ、放課後が楽しみだ」
セイラの心情とは対照的に、俺の内面では不安感が覆い始める。
授業に集中できるか心配になってきたところで、G組の教室に着いた。