Brave03-2

 6月は1年でもっとも昼が長い時期。だから午後7時近くになっても、まだ空は明るかった。午前中はどしゃ降りの雨だったが、午後――わたしが例の現場から帰る頃には晴れていた。雨はバイク乗りには厳しい天気だから、正直助かる。
 愛車にまたがり、星蹟市内を東方面へ颯爽と走っている。この時間帯だからか、交通量はそれなりに多かった。
 空腹を覚えていた。朝食を食べたっきり、先ほど詩桜里の根城で紅茶を飲むまで、なにも口にしていない。
 詩桜里はおそらく、今日も帰りは遅くなるだろう。そうなると夕飯はいつもどおり、コンビニかスーパーあたりで出来合いのものを買うことになるが――

「――む」
 
 思いついたことがあって、海岸通りと接続する交差点を右折した。ちなみに自宅マンションへは左折だ。
 幸い今日は水曜日。定休日ではない。まだそこに行ったことはないが、場所は把握している。しばらく道なりに進んだ。
 進行方向の左側に広がるのは太平洋。風に揺れる海面が、陽光を反射させて煌めいている。
 ――きれいだ。
 その光景に、感情の波が心の底から熱を伴ってこみ上げてくる。わたしのような人間がこんな感傷に浸っていられるのも、ほとんど奇跡と言っていい。……つい最近、似たような感情を抱いたことを思い出した。
 15分ほど走ると、目的地が見えてきた。
 トラットリアHOSHIMINE。
 凜の実家が営んでいるイタリア料理店だ。隣接されている駐車場に愛車を停める。駐車場は3分の2以上が埋まっていた。繁盛しているようだ。
 店の自動ドアをくぐった。木製の床に、白を基調とした壁や柱。清々しい内装の店内だった。
 
「いらっしゃいませ――あれ、セイラ?」
 
 真っ先に出迎えてくれたウエイトレス。
 見知った顔で、相手のほうはかなり驚いた様子だ。
 
「悠か。いらっしゃったぞ」
 
 彼女は白のシャツと膝丈の黒いスカート、その上に薄いグリーンの布地に、スカイブルーの布で縁取りされたエプロンを着ている。その爽やかな色合いは、悠の金髪と相性は抜群だった。
 
「ど、どうしたの?」
「以前、凜から誘われてな。予約はしてないが、席は空いてるか?」
「うん。大丈夫だけど……」
 
 期待と不安が混ざったような瞳を向けてきた。
 
「えっと、ひとり……だよね?」
 
 悠の注意は、わたしの後方に向いているようだった。
 
「そうだ。残念ながら、あいつはいないぞ」
「べ、別に惺なんてどうでもいいからっ」
「惺とはひと言も言ってないが」
 
 にやりと笑う。すると悠はおもしろいくらいに慌てた。
 
「と、とっ、とととりあえずっ! こ、こちらへどうぞ!」
「ふふ、いまのは聞かなかったことにするから、安心してくれ」
「ぐ……わたしの馬鹿……っ」
 
 振り返り歩き出す悠。一瞬だけおぼつかない足取りを見せたが、ここが店内で自分が働いていると認したからか、すぐに立ち直る。
 窓際の席へ案内される。ふたり用の席だった。
 そのとき、悠と同じウエイトレス姿の女性がメニューを持って近づいてきた。腰まではある豊かな黒髪をウェーブにして流している。鼻が高く、整った顔立ち。優しげな表情と眼差しには、見つめる相手に安心感を与えている。
 
「智美さん?」
「いらっしゃいませ――悠ちゃんのお知り合い?」
「はい。凜くんのクラスメイトのアルテイシアさん」
「……あら。もしかして転校早々、惺くんにキスしたっていう?」
 
 悠の眉がぴくっと反応する。
 
「そ、そうです……けど」
「やっぱりそうなのね。外国人の美女が来店されたから、少しびっくりしちゃって……あらやだ、自己紹介がまだだったわね。はじめまして。星峰智美といいます。凜の母親やってます」
「ご丁寧にどうも。はじめまして。セイラ・ファム・アルテイシアです……ところで、どうしてお母さまがキスのことをご存じで?」
「凜くんから聞いたの。それに悠ちゃんと奈々も騒いでいたしね」
 
 ウインクをしつつ、うふふ、とからかうように悠を見る。
 
「と、智美さん!」
「悠ちゃん、今日はもう上がっていいわよ」
「え? でも、これからピークの時間じゃ……」
「大丈夫よ。今日は予約も少ないし、たぶん残っている人数でもまわせそうだから、心配しないで。それで、よければアルテイシアさんと夕食ご一緒したら? 帰宅してからずっと働いていたから、おなか空いたでしょ」
「……でも」
「わたしは構わないぞ」
「ほら、アルテイシアさんもこうおっしゃっていることだし。それにしても、日本語お上手ね」
「どうも。それと、わたしのことはセイラと呼んでください」
 
 笑顔でうなずく智美さん。
 
「……セイラ、いいの?」
「せっかくの機会だ。落ち着いて話をしようじゃないか。もちろん、無理にとは言わないが」
「わかった。……じゃあ智美さん、お先に上がらせてもらいます」
「お疲れさま。悠ちゃんはなに食べたい? 先に注文聞いておくね」
 
 数秒ほど考える悠。
 
「えっと……リングィーネのペスカトーレと9品目のミネストローネで」
 
 さすが店員。メニューを見なくても、だいたいは把握しているらしい。
 
「それじゃあセイラ、着替えてくるから、ちょっと待ってて」
 
 悠はバックヤードへ消えた。
 
「こちらがメニューです」
 
 智美さんから渡されたメニューを見る。彩り豊かなパスタやピザをはじめ、魚料理や野菜料理などが、すべて写真付きで紹介されていた。パスタは麺から、ピザは生地からほとんどを店で手作りしていると記載されている。どれも美味しそうだ。
 
「では、クアットロ・スタジョーニとアクアパッツアを」
「かしこまりました――そうだ」
 
 智美さんが顔を近づけて、小声でささやいた。
 
「せっかく来てくれたから、ドリンクはサービスしちゃわ。好きなのどうぞ」
「ありがとうございます」
「あ、でもお酒はだめよ」
 
 今度はわたしにウインクを送ってきた。凜には歳の離れた姉がいると以前聞いたから、それを踏まえて計算すると、智美さんは四十代のはず。しかし、そのたたずまいと雰囲気は、まるで少女のように爛漫だった。
 
「ではキノットジュースを」
「はい……あ、悠ちゃんに飲み物聞くの忘れちゃった。あの子もキノットジュースでいいかしら。――ピザは焼きあがるまで少々お時間をいただいております。それでは、いましばらくお待ちください」
 
 洗練されたお辞儀をして、智美さんが去っていった。
 それから10分ほどして、私服に着替えた悠が戻ってくる。清楚なホワイトのブラウスに可愛らしいピンクのキュロットスカート。
 
「悠の私服姿は、はじめて見るな」
「……それもそうね」
「よく似合っている」
「あ、ありがとう」
 
 悠が席に着くのを見計らったかのように、智美さんが飲み物を持ってきた。
 
「キノットジュースになります。悠ちゃんも同じのにしちゃったけど、よかったかしら?」
「はい。ありがとうございます」
「料理のほうはもう少し待っててね」
 
 智美さんが去っていく後ろ姿を眺めて、思い当たったことがあった。
 
「なるほど。智美さんは誰かと似ていると思ったが、奈々と似ているんだな」
「どのあたりが?」
 
 微笑みながらわたしの話に耳を傾ける悠。
 
「やわらかい雰囲気がそっくりだ。顔だって、目もとが特に似ているな」
「ふふ。よく気づいたね」
「そうだ、凜も奈々も家にいるんだろう? 特に問題なければ、ここに呼んだらどうだ」
 
 悠が申しわけなさそうな顔をした。
 
「ごめん。ふたりはちょっと……無理かも」
「む?」
「凜くん、今朝から具合悪かったみたいで、帰ってきたとたん、熱出して寝込んじゃったの。今日、本当は凜くんが店の手伝いする予定だったんだけど――」
「それは災難だったな」
「……あれ? セイラは今日風邪を引いて休んだって、凜くんが言ってたけど」
 
 目を細めてわたしを見てきた。
 
「見てのとおり、わたしは元気だぞ?」
「…………ずる休み?」
「いや、ちょっと事情があってな」
「事情……ねえ」
 
 学園を休むまでの事態が腑に落ちないのか、悠は首をかしげている。やや思わしくない状況なので、話題を変えることにした。
 
「ふむ。となると、わたしの代わりに凜が本当に風邪を引いたようだ。なにやら悪いことをしたな」
「あはは。そうだね」
 
 悠はちゃんとわきまえているようで、それ以上は聞いてこなかった。
 
「凜のほうはわかった。快復を祈ろう。で、奈々のほうはどういった事情だ? 宿題がたくさん出たとか?」
「そうだったら、どれだけよかったかな……」
 
 やわらかに微笑んでいた表情が、一転して思い詰めたような切なさに塗られる。
 
「なにかあったな?」
 
 重々しくうなずいたあと、悠は言葉を続けた。
  
「セイラになら話してもいいかな。凜くんもそうするつもりだったみたいだし。奈々ちゃん、バンドでまたもめ事があって……いまふさぎ込んでいるの」
「詳しく聞かせてもらえるか」
 
 明瞭かつ的確な言葉で、悠が事情を説明してくれた。いちおう中立的な観点で、要点だけをうまくまとめて伝えてくれる。彼女の頭のよさをあらためて実感した。
 大げんかを経て決定的となった、美緒とバンドメンバーたちの軋轢。美緒の家庭の事情。そして、それらのあいだで板挟みになり、葛藤する奈々。
 話が終わりかかった頃、アンティーク調の瀟洒なサービスワゴンに乗せられて、料理が運ばれてきた。漂ってくる香りに、空腹を思い出す。
 
「ねえ、いまちょっと聞こえてきちゃったんだけど、奈々の話してた?」
 
 智美さんが神妙な表情で話しかけてきた。同時に、色彩豊かな料理たちをテーブルに移す。
 
「はい。セイラと奈々ちゃん、もう顔見知りで。バンドのこともセイラは知っています」
「あら、そうだったの」
「悠、ひとつ訂正させてくれ。奈々とはもう顔見知りを通り越して、大切な友人だ」
 
 わたしの言葉に、智美さんが頬をほころばせる。
 
「悠ちゃん、それとセイラさん。奈々のことよろしくお願いします。本当は母親として、わたしもなんとかしてあげたいのだけど……仕事が忙しくて」
 
 再びきれいなお辞儀をする智美さんは、店員がお客に対してというより、母親が娘の友達に対してお願いをするように見えた。
 
「奈々のまわりには、悠や凜、それに惺……頼りになる人間がいます。もちろん、わたしもできる限り手助けするつもりです。だからお母さん……智美さんは心配しないで」
「ありがとう……それでは、ごゆっくり」
 
 最後に深々と頭を下げ、智美さんは去っていった。振り返り際、希望の光が彼女の瞳に宿っているように見えた。
 
「さて、冷めないうちに食べようか。……悠? どうした、わたしの顔になにかついてるか?」
「……セイラってさ……ちゃんと敬語使えるんだね」
「なんだと?」
「だって、いつもそういう言葉遣いだから。びっくりしちゃった」
「目上の人に対しては、さすがに敬語だぞ」
 
 たとえば担任の織田先生と話す場合。ほかにも教職員の方々に対しては基本的に敬語だ。たまに素が出るが。もっとも、クラスが違う悠は、わたしが敬語を使うさまをはじめて見たのかもしれない。
 いちおう目上の人に当たる緋色の髪と瞳の上司が脳裏に浮かんできたが、片隅に追いやった。
 出来たての料理を口に運ぶ。ちなみにクアットロ・スタジョーニは全体を4区画に分けて、それぞれ違った種類の具材が味わえるピザ。アクアパッツアは魚介類を中心にした煮込み料理だ。
 ――その味に、言葉を失った。
 
「……どうしたの、急に黙り込んで? 口に合わなかった?」
「いや、その逆だ……まさかとは思うが、ここは三つ星レストランか?」
「え? 違うけど」
「わたしはイタリアにも滞在したことがある。本場のどの店よりも美味しいイタリア料理を出す料理店が、なぜ日本にある?」
 
 味の深み、バランス、素材の吟味に生かし方、それらを最大限に引き出す調理方法――すべてが最高レベルでまとめ上げられている。
 
「要するに、美味しいってこと?」
「むろんだ。食事をしてここまで感動したのは、はじめてかもしれない」
「なんだ、よかった。この店のオーナーシェフ、奈々ちゃんのお父さんが務めているんだけど、若い頃イタリアで本格的に修行したんだって」
 
 父親の名前は星峰遼太郎というらしい。この店でシェフとして働いている人たちはすべて、彼から料理の技術を徹底的に仕込まれているそうだ。そして、ホールスタッフのリーダーが智美さんで、彼女も若い頃イタリアに留学して、著名なホテルなどで接客業の専門的な勉強をしたとのこと。ふたりが出会ったのもイタリアだったという話も、このとき聞いた。
 
「異国で同郷の人間と出会い、恋に落ちるか……素敵な話だな」
 
 それからふたり一緒に帰国して結婚し、ほどなくしてこの店を開いたそうだ。
 
「そうだね……あ」
「ん?」
「ごめん、なんでもない。気にしないで」
「その表情は、なにか聞きたくて仕方がないといった感じだな」
「う……でも」
「いまさら気を遣うことがあるか。なんでも聞いてくれ」
「……じゃあ聞くけど……その、惺のこと」
「惺? 驚いたな。まさか悠から惺の話題を振ってくるとは――いや、そういえばさっきもうっかり口にしてたか」
「だから聞きにくかったのっ。にやにやしないで!」
「悪かった。で、なにを聞きたいんだ? ちなみに惺とはまだ性交渉はしてない。だからやつの性的なテクニックについては知らないぞ――しかしまあ、これは予想だが、あいつは澄ました顔で、簡単に女性を絶頂に導くことができるだろうな」
「セイラぁっ!?」
「な、なんだ急に大声をあげて」
 
 周囲の客やホールスタッフたちが、何事かとこちらを見つめてきた。居心地が悪くなったらしい悠はしゅんと縮こまり、わたしを睨みつけてきた。
 
「に、日本ではそういうこと、少なくとも夕食のときには絶対に言わない!」
「そういうこと、とは?」
「だ、だからその……せ、せ、性交渉……とか……ぜ、絶頂とか……ぁう」
「それにしても日本語は語彙が豊かだな。ほかにも抱くとか抱かれるとか、肌を重ね合わせるとか、いろいろと表現できる。英語ではほぼセックスのひと言だ。ああ、ちょっと汚い言葉だとファッ――」
「だ、だからぁっ!?」
「悪かった。謝るから落ち着いてくれ。……ところで、なんの話だったか?」
「惺の話! なんでこういう話になっちゃったの!?」
「わたしのウィットに富んだ冗談からだ」
「ウィットの意味わかって使ってる!?」
「重ね重ね悪かった。本題に戻ろう……惺についてなんの話だ?」
 
 しばらくわたしを睨んでいた悠は、深呼吸をして気を落ち着かせたあと、キノットジュースを一気に飲み干した。
 
「セイラと惺の関係――あ、肉体関係がどうとかの話じゃないからね!?」
「もう話を逸らすつもりはないさ。それで?」
「ふたりは海外で出会ったんだよね。フォンエルディアで」
「凜から聞いたのか?」
「うん。柊紗夜華さんとのお茶会のこと」
「なるほどな。しかし、凜からそのときの話を聞いているなら、わたしと惺の関係はわかっただろう?」
「表面上の事実は知った。けど、深層にある真実を、わたしはまだ知らない」
 
 悠の声に、どんどん真剣さが増していく。
 
「真実……か」
「惺とセイラ、父さん……それからクリスのことも……いったい、過去になにがあったの?」
 
 悠の瞳が潤んできた。わたしはそれから、目を逸らすことができない。
 
「それは……簡単に説明できることではないな」
「さっき、なんでも聞いてくれって言ったよね」
「すまない。まさかここまで踏み込んだ話とは思わなかったから。わたしの浅慮だった。謝罪する」
「話す気はないってこと?」
「そうじゃない……そうじゃないが」
「惺もそうだった。お父さんが死んだって教えてくれたのは、惺。でも、なにも説明してくれなかった。どんな状況で、なにがあったのか、なにも話してくれなかった……クリスもどうなったのか教えてくれない――ねえ、本当にお父さんは死んじゃったの? クリスはいま、どうしてるの!?」
 
 悠の叫びは、わたしの心を鋭く、容赦なく引っかいてきた。もちろん、彼女に悪気があるわけではない。
 切迫した眼差しと悲痛な表情。ふだんの悠が絶対に見せないであろう、心の深層からの叫び声。ふと、それらを向けられる惺の心情を想像した。
 ――めげそうになった。
 
「……悠」
「セイラは知ってるんでしょ――っ!」
 
 やはり、彼女から目を逸らすことはできない。
 悠の瞳を見つめながら、わたしは言った。
 
「わたしはすべてをこの目で見てきた。蒼一がこの世から消えていくさまも、クリスの消息も――全部……そう、すべて知っている」
「――っ!?」
「だが悠。きみに真実を語るのは、わたしの役目ではない。惺の役目だ。血のつながった兄妹として。ただ、惺が語ろうとしないのも、それなりの理由があるんだ。こういう言い方はあまり好きではないが、察してやってくれ」
 
 もしもわたしが悠の立場で、真実を聞かされたら。ありのままをすべて受け入れて、信じることができるだろうか――?
 悠は聡明で、思考に柔軟性もある。それでも、あの「真実」を簡単に信じることができるとは思えない。
 あれは、それほどまでに常軌を逸した出来事だった。常識なんてものは通用せず、非常識という範疇からも逸脱している。
  
「……わかった。もうこの話題はおしまい……取り乱してごめんね?」
 
 大嵐で荒くれていた海洋が、急激におとなしくなったかのような。凪の海を連想させるほど、悠は落ち着きを取り戻していた。
  
「ねえ、これだけは教えて。わたしは、いつか真実を知る日がくると思う?」
「そうだな……ある。もちろん。けど、いまはまだその時じゃないってことだけ、胸の奥にしまっておいてくれ」
「……うん」


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