Brave04-6

 まもなく6月も終わりだが、涼しい夜だった。半袖では寒く、上着を着て出たのは正解だ。
 星蹟島の南西には小高い丘陵が広がっていて、そこの一部が公園として整備されている。路肩に愛車を止め、高台をのぼった。
 開けた場所で、惺が踊っていた。街灯の淡い光が、スポットライトのように彼の体を照らしている。
 人間が肉体で表現できる最高レベルの芸術がそこで繰り広げられていた。以前、凜が同じ状況に遭遇し、つい見とれてしまったという話を聞いた。
 納得だ。アマチュアのレベルははるか眼下にあり、世界トップレベルでも比肩できるバレエダンサーはそうそういないだろう。一瞬一瞬の表現力は、もはや言語で表しきれない。わたしとはじめて会った頃、惺はバレエを始めて間もなかったと思う。その頃とは雲泥の差だ。
 わたしが歩み寄ると、惺は静かに踊りを終える。
 惺は長袖長ズボンのスポーツウェアで身を包んでいた。夜でもいつもの眼鏡をかけている。ただ立っているだけなのに、まばたきした瞬間に消えてしまうのではと思わせる儚げさと、圧倒的な存在感を併せ持っている。ここまで表現力に愛された男もめずらしい。
 惺がゆっくりとわたしを見る。

「ぽかんとしてどうした?」 
「……見とれていた。試しに学園の女子の前で踊ってみたらどうだ。全員がもれなく股を開くぞ」
「下品な表現するなっ」
「バレエ、うまくなったな――いや、そんなレベルはもう超越しているか」
「……セイラと出会ってから、もう何年も経つからな」

 うまい返事が浮かばなくて、沈黙が降りた。
 長いようで短い時間が流れる。

「そういえば、ヴァイオリンはもうやめたのか?」
「続けてるよ。どうして?」
「再会してから、おまえの口からヴァイオリンの話が出てきてなかったからな。少し気になっただけだ」
「機会がなかっただけだよ。それより、いったいどう――」
 
 言い終わる前に、彼の胸に飛び込んだ。
 わたしの心情を読んだのだろう。なにも言わずに抱きしめてくれる。
 しばらく、顔を埋めた。
 
「……なにかあったか?」
 
 このひと言に、なんの変哲もないこの台詞に、どれだけの優しさと思いやりが含まれているのだろう。
 どうしようもないほど胸が熱くなる。
 
「今日の惺は優しいな。いつもなら、なんだかんだ理由をつけて接触を拒むのに。ツンデレか」
「どこでそんな言葉覚えた? ……いつもと違うのはセイラのほうだ。心配になるような様子で電話してきて」
「心配してくれるのか?」
「当たり前だ」
 
 唇を奪った。
 が、今度は2秒ほどで離されてしまい、舌を入れる暇はなかった。
 
「こら! どうしてセイラは、いつも前触れなしにキスしてくるんだ!」
「前触れがあればいいのか?」
「そういう問題じゃない。……なにかあったのか話してくれ」
 
 近くにあったベンチに座る。すると惺が離れたところの自販機で飲み物を買ってきてくれた。微糖の缶コーヒーだった。
 ひと口飲んでから、なにがあったのか語る。今日――正確には昨日の昼間、真奈海の家で勉強会を開いたこと。それがきっかけで記憶の靄が晴れたこと。記憶の靄については、惺に詳しく語る必要はなかった。彼は、わたしの過去を詳しく知る数少ない人物のひとりだから。
 わたしが何気ない日常生活を送る幸せを感じるたびに、過去の大罪が、荒れ狂う罪悪感となってよみがえり問答無用で押し寄せてくるジレンマ。幸福と罪悪感の葛藤が、こうも苦しいものだとは知らなかった。
 
「――そうか」
 
 話が終わると、惺は短くそう言っただけだった。
 
「慰めてくれないのか?」
「慰めてほしいならそうする。けど、セイラがそれを望んでいるとは思えないな。かといって、昔の罪を責めてほしいわけでもない。……そんなことしたって、どうにもならない」
 
 最後の言葉は、自身に言い聞かせているように重く、鋭利な響きがあった。
 
「けど、腑に落ちないな」
「なにが?」
「ICIS捜査官っていう肩書きを与えるだけじゃなく、ひとりの学生として日常を謳歌させる」
「――――」
「これじゃあまるで、セイラに罪悪感を抱かせるために、ここに寄越したみたいじゃないか。上はなにを考えているんだ?」
 
 惺には、わたしがICIS捜査官であると話した記憶はない。
 
「なんだ、まさか気づいてないとでも?」
「いや……しかし、ここまでピンポイントで当ててくるとは、さすがに思ってなかった。いつから気づいていた?」
「薄々気づいてはいたけど、明確に知ったのはつい最近だよ。柊詩桜里さんと同じマンションの同じ部屋に住んでいれば、おおよそ察しがつく」
「そんなことまで知ってるのか?」
「あのマンション、土地はうちの所有だ」
「なるほど。それはうかつだった」
 
 実は真城家は、日本でも有数の資産家であり、星蹟島最大の地主でもある。惺の立場なら、わたしの居住地であるマンションが詩桜里名義である事実を知るのに苦労はいらないだろう。惺と詩桜里は面識があり、かつ、詩桜里がICIS捜査官であることも把握していれば、おのずとわたしの正確な立場を推察することができる。
 惺に約1年半前からICISに身を置いていることを伝えた。そのときから詩桜里と行動をともにしていることも。
 
「危険な仕事、やってきたのか?」
「危険がないことはないが、こうして元気にやってこられたのは僥倖だったかもな」
「無茶はするなよ。なにか手助けできそうなことがあったら言ってくれ。力になる」
「惺が手助けしてくれるのなら、なんだってできそうだが」
「買いかぶるなよ」
 
 惺の肩に頭を乗せた。
 この温もりは間違いなく、わたしの近くにある。これが幸せ以外のなんだというのだろう。涼しい夜風が肌をなでていても、体の芯が熱を帯び始める。
 
「幸せだ……わたしは、ここまで幸せを感じていいのか……?」
「俺が許す」
 
 我慢できず、惺をベンチの上に押し倒した。空になっていた缶が、弾みで地面に転がる。
 
「こら、セイラ!」
「抱いてくれ」
「な、なにを言って――!」
「日本には青姦という素晴らしい言葉があるじゃないか」
「だからどこでそんな言葉覚えるんだっ!?」
「刑法第174条? そんなものは忘れてしまえ」
「こんな色気のない誘惑があってたまるか!」
「生でいいぞ。はじめてだからな」
「人の話を聞――」
 
 惺は急に黙り、なにか別のもの気を取られたかのように遠くを見た。
 
「どうした?」
 
 話を無理やり逸らす気かと思ったが、そうではないことは、惺の態度を見れば一目瞭然だ。鋭い視線が、海のほうへ向いている。
 
「なんだ、この気配……セイラ、降りて」
 
 しぶしぶ降りると惺は即座に立ち上がり、早足で離れていく。わたしもあとを追い、高台の縁まで来て、眼下を見下ろした。
 ここまで来ると、わたしも異変を察した。
 倉庫街が見える。背の高い倉庫が建ち並び、周囲の至るところにコンテナが雑多に積まれている。この時間だと人気はなく、ふつうならしんと静まりかえっているはずだが、そうではなかった。
 遠くでぱんっ、という乾いた音が響いてきた。
 
「銃声……?」
 
 耳を澄ましながら、惺が言った。
 
「人の悲鳴も混じっているようだが。ヤクザの抗争?」
「この島にヤクザはいないよ。だいたい、それだとこの異様な気配は説明つかない」
「どんな気配だ?」
「人に似てるけど人じゃない気配がひとつ。そのまわりに、人の気配が無数」
 
 レーダーのような正確さ。
 人じゃない気配……?
 
「どちらにしても尋常じゃないな。初体験はおあずけだ」
 
 こういうときでも対応できるよう、仕事道具は常備している。ポケットからインカムセットを取り出し装着。スマートフォンと連動させる。胸もとのマイクに備えつけられたカメラがオンになった。ジャケットは防弾仕様の特注品だ。 
 惺が倉庫街に降りようとしていた。
 
「おまえは避難しろ」
「戦力は欲しくないか?」
「…………」
「その沈黙は肯定だな。行くぞ」
「……どうなっても知らないからな」
 
 惺が本当にただの一般人だったら、気絶させてでも阻止しただろう。そうじゃないことは、かつて一緒に旅をして、いくつもの死線をくぐり抜けてきたわたしがいちばんよく知っている。
 倉庫街へ続く階段を、惺と一緒に駆け降りる。ところどころに街灯があるが、かなり薄暗い。
 倉庫街へ降り立った頃、煙が漂ってきた。火がついたらいけない物に引火でもしたのか、ひどく体に悪そうなにおいを伴っている。
 進もうとすると、惺に止められた。
 
「人がいる」
 
 倉庫と倉庫のあいだの路地から、作業着を着た五十代くらいの男性が現れる。右足の脛から血が出ていた。
 
「だ、誰かぁっ!」
 
 その場に倒れ込んだ。
 惺と一緒に駆け寄った。惺は傷の具合を見る。
 
「大丈夫か?」
 
 わたしが訊くと、震えながら首を横に振った。
 
「う、うみ――か、かいぶつがぁっ――」
「怪物?」
「あ、ああああんなの、見たことねえっ――ひ、人が喰われてっ!?」
 
 かなり動揺しているのか、視点が定まっていない。
 
「傷はたいしたことないけど、恐怖で動けないみたいだ」
 
 と、惺。どこからか取り出したハンカチを、彼の傷に当てている。
 
「惺はこの人を安全なところへ。ほかにも人がいるようなら、誘導してやってくれ」
「セイラは?」
「決まってるだろ。怪物とやらに会いにいく」
「……無茶はするなよ」
「いちおう、わかったと言っておこう」
 
 惺は作業員を脇から支え、ゆっくりと歩いて行った。
 ふたりの姿が見えなくなった頃、〈マテリアライズ〉で星装銃を具現化した。 
 そのとき、ちょうど詩桜里から着信があった。
 
『セイラ、緊急事態よ』
 
 車のエンジン音がかすかに聞こえてくる。走行中の車内にいるようだ。
 
『南裾浦港の倉庫街周辺で、尋常じゃない事件が発生したらしいけど……なんか、未知の生物が現れたとか』
 
 自信がなさそうな言いまわし。気持ちはわかると思いつつ、わたしも走り出した。
 
「わたしの居場所は把握してるな?」
『ええ。なんでもう現場にいるのよ?』
「たまたまだ。わたしが先行する」
『了解。気をつけなさい』
「詩桜里。救急車だけでなく、霊柩車も呼んでおいたほうがいいかもな」
  
 通話を強引に終了し、スピードアップ。
 路地を抜け、すぐに埠頭に出た。強風が暗い海をせわしなく揺らしている。街灯以外にもいくつか照明がついていて、比較的明るい。倉庫の大きな扉が開いていて、その下でフォークリフトがエンジンのかかったまま捨て置かれている。
 倉庫の前、コンクリートの地面に人が無造作に転がっていた。ここまで近づくと、潮風に混ざった濃厚な血のにおいをはっきりと感じ取れる。
 数人の遺体。腕や足、首などが付近に散乱している。上半身と下半身が千切れた遺体もあった。ここ最近、同じような光景を何度も見ることに、少しばかり辟易した。
 深夜の作業に従事していた連中だろう。先ほど見た作業員と同じような格好。すべて男性の遺体だが、年齢はまばらだった。
 
『ちょっ……なによこれ!?』
 
 詩桜里の声。彼女はわたしのカメラを通じて、リアルタイムの映像をチェックしているはずだ。ICISに出動要請が出るような事件が発生したという情報は得ていたが、さすがに犠牲者についてはまだ把握してなかったようだ。
 詩桜里に、惺が避難させた作業員の話を伝えた。
 
『か、怪物? そいつがこれを?』
「そうとしか考えられないな」
 
 この場所に生存者はいなかった。散らかった遺体はひとまず放っておき、倉庫街へ駆け戻る。
 倉庫と倉庫の隙間を走り抜けていたとき、消防車や救急車のサイレンが聞こえてきた。
 
「詩桜里、これ以上葬儀屋を儲けさせたくなかったら、警察官や消防隊員でも付近に立ち入らせるな」
 
 走りながら伝える。人間の体をあそこまで容赦なく損壊できる怪物だ。警察官が多少の訓練はしてるとはいっても、怪物と対峙して無事でいられるとは思えない。
 
『そっちはもうリスティが手を打ってるはずよ。機動隊にも出動要請出したわ。……ほんとにもう、怪物ってなによ?』
「堀江美代子の変死事件」
『え?』
「彼女の日記をおまえも読んだだろ? 〈神の遺伝子〉を組み込んで作られた受精卵。堀江美代子の遺体の質量が足りなかったのは、その怪物が誕生直後に母の体を喰らったからだろう。彼女の死後、至るところで発生した惨殺事件も、もはや誰が犯人か言うまでもないだろうな」

 詩桜里がのどを鳴らすのが聞こえてきた。 
 いくつか倉庫の横を通り過ぎ、開けた場所に出る。


 ――そして、目の前に怪物が現れた。


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