詩桜里の愛車、エルディアス・ヴェルサスのスポーツクーペSC1000は、車体のカラーよりも鮮やかな炎に包まれていた。持ち主本人が見たら、気を失うを通り越して心臓が止まるだろう。
真城邸が存在する島と、星蹟島本島を結ぶ石橋の上。ところどころ崩れているがまだ橋としての役目を担っているその場所に、車は止めてあった。
車の傍らに立つのは海堂霞。おびただしい量の返り血が、全身をまるで炎のように染め上げている。
石橋に食い込むように乗りつけられている黒い物体がある。潜水艦の艦橋だ。黒塗りですべての光を吸収し、月のわずかな光すら反射せず飲み込んでいた。
邸宅から出てきた惺とセイラに、霞が気づく。
「――炎は美しい。思えば煌武の家が焼けたときの炎は、ひときわきれいだったな」
燃えさかる炎を横目に見ながら、霞が言った。
「レイジはどうした?」
セイラの表情は峻厳だった。
「さあ。死んだんじゃないか」
「貴様――」
「そもそもあの男は味方でもなんでもない。気にする道理などない。セイラ・ファム・アルテイシア。おまえたちも含めてな」
「なぜこの場所が?」
セイラたちがここに避難してきたことを知る者は、誰もいないはずだった。
霞は答える代わりに、懐から取り出したスマートフォンのような精密機械をセイラの足もとに投げて寄こした。そのディスプレイに表示されていたのは、真城邸周辺の精密な地図と、目標の居場所を示す赤い光点。真城邸の一角に点滅が重なっている。
凜を着替えさせたときには気づかなかった。その事実に、セイラは舌を噛んだ。
「……っ。発信器か」
「凜を返してもらう」
「おまえは凜をどうするつもりだ?」
「そんなことを話す道理はない」
「だとしたら、わたしたちも凜を引き渡す道理もないな」
「そうか? 凜はおまえたちを騙していた。いや、現在進行中で騙していると言っても過言ではない。おまえたちなら気づいているんじゃないか? そんな人間をかばう理由がどこにある」
「凜は親友だ」
「親友。反吐が出る言葉だな」
霞は急に東雲友梨子の雰囲気を作り、その声音で続けた。
「真城惺くん。あなたも同じことを思っているのかしら?」
惺は小さくうなずいた。
「そう。あなたの優しさにも反吐が出るわね。詭弁でも偽善でもなく、本気なのが余計にたちが悪いわ。これは教育的指導が必要ね」
「……そのしゃべり方、やめてくれませんか」
「あら、やめたら凜を返してくれるの?」
「凜はあなたの所有物じゃない!」
東雲友梨子の存在が消える。
霞は嗤った。
「凜はわたしのものだよ。――なあ、凜?」
惺とセイラの後ろに、凜が背後霊のように立っていた。
凜はふらふらといまにも倒れそうな足取りで歩き、惺とセイラの横を通り抜ける。
「凜!」
セイラが手を伸ばすが、凜はそれを振り払った。
やがて、霞の目の前で立ち止まる。
「これはおまえのものだ」
霞は鞘に収まった短剣を凜の手に握らせる。かつて、実兄の頸動脈を斬り裂いた白銀の短剣。
そして霞は凜の耳もとに口を寄せ、なにかをつぶやいた。
凜はびくんと痙攣し、やがて振り返る。
その凄惨な表情に、セイラと惺の息が詰まった。
「り、凜……?」
「ごめんね、惺――」
凜が動く。先ほどまでの様子とは比較にならないほどの俊敏性で短剣を振りかぶり、惺に肉薄した。
「凜!」
叫びながら惺は、凜の攻撃をかわした。
しなやかな体のバネを駆使した、波状攻撃をしかける凜。素人の動きではない。短剣のリーチの短さを、身体能力で補っている。徹底された武術の理が根底にあった。
対する惺は防戦一辺倒で、反撃に出る様子は見られない。唇の端を噛みしめている。
「海堂霞! 貴様、凜になにを――!」
星装銃を構えたセイラが、弾丸よりも鋭い言葉を撃つ。
対する霞も、抜刀術の構えをとる。
「そういえば、おまえと直接遊ぶのははじめてだな」
すぅ――と、大きく息を吸い、
「――楽しませてくれよ」
霞が強烈な踏み込みを決めた。
その刹那、鋭い日本刀の斬撃がセイラを襲う。
「――っ」
後ろに飛び退きつつ、セイラは星装銃でそれを防いだ。
霞の刀は恐るべきスピードで軌道を変え、再びセイラに肉薄した。それを先読みしていたセイラが、再び星装銃で受ける。
怜悧な斬撃を受けても、星装銃は傷ひとつつかない。
「おもしろい銃だな。わたしの斬撃でも斬れないとは」
嵐のような斬撃を繰り出す霞が、口もとをにやけさせながら言った。獲物を見つけた肉食獣を思わせる眼光を宿しながら。
延々と続く応酬が、嵐を引き起こす。
銃と刀という、相剋する武器を中心とした暴風。
――同時刻、惺と凜のあいだにも、渦巻く感情の嵐が巻き起こっていた。
「凜! しっかりするんだ!」
凜は答えない。光をほぼ失った瞳に、絶望と殺意を宿しながら迫ってくる。
凜の体が柔軟性に富んでいることを惺は知っていた。演劇祭でのミュージカル。ダンスのレッスンにおいて、柔軟性だけは最初から惺の上を行っていた。みんなが感心すると、「生まれつきなんだ」と、少し困ったような顔をしていた。
その延長線上にあるのが、剛と柔を巧みに組み合わせた凜の体術だ。技術は極限の段階まで昇華され、無駄な動きというものがほとんど存在してない。
惺はそれに手も足も出せないわけではなかった。たしかに凜の戦闘技術は、一朝一夕で身につけられるようなものではない。しかし惺の戦闘能力なら、武器や星術などなくても、凜を制圧するのにそれほど時間はかからないだろう。
だが、ここで凜を無力化できても、それがどんな意味を持つだろう。たとえ気を失わせたとしても、目覚めた凜が「正常」に戻る可能性は、状況を読む限りかなり低いと言わざるを得ない。
思えば演劇祭が終わった直後から、凜はおかしかった。いまの状態は、その延長線上にあるように思えてならない。
凜の心を覆う絶望。
無力感。
――闇。
もともと凜の心にあったそれらの負の感情が、行方不明になってから徐々に蓄えられていき、いまこの瞬間になって一気に爆発したような印象を惺は抱いた。
「凜! 黒月夜のアジトでなにがあった!」
凜は答えない。脳裏をよぎる情景を払拭するように、凜は必死に体術を繰り出している。
「なあ凜、そろそろ説明したらどうだ」
一度セイラから距離をとった霞が、いたずら心の宿る眼差しで凜を見た。
「真城悠に、おまえが言った言葉を」
「――――っ」
凜の動きが止まる。
「しかし不思議な話だな。凜、おまえはそもそもどうして『世界のために』なんて言葉を使ったんだ? この世でもっとも世界を憎んでいるような人間が!」
「う――あぁ――っ」
凜の手から短剣が転がり落ちる。
「世界のために犠牲になってくれ。そして死んでくれ。――おまえは真城悠に、一緒に暮らしている家族同然の人間に、そう言った!」
「や――やめ――やめて――っ!?」
凜の膝が折れた。
「うあぁ……殺して……もう殺して……っ」
「凜っ!」
惺が叫び、足を踏み出そうとする。
「うわあああああぁぁぁぁぁぁっ!?」
しかし凜の絶叫がそれを拒んだ。
霞がおもしろそうに言葉を紡ぐ。
「絶望したか。世界や人間に対してじゃない。自分自身に!」
「もうやめろ!」
セイラが叫ぶ。
「悠……悠っ……ごめ……うわあああぁっ!?」
「なぜおまえが泣くんだ? 真城悠に情け容赦なく死ねと命じたのはおまえだろう。泣きたいのは彼女のほうじゃないか」
霞の言葉は持っている日本刀よりもはるかに鋭く、凜の心をえぐる。
「もうやだ――こんな世界――やだ――やだやだやだやだっ! もう嫌ぁっ!?」
「わかったよ」
静かにそう言ったのは惺だった。彼は地面に落ちていた短剣を拾い、凜に近づく。
「俺が終わりにしてやる」
惺は凜の腕をつかんで無理やり立たせ、首に短剣を突きつけた。
「あ……あき……ら?」
「いますぐ楽にしてやる。でも、その前に――」
短剣の切っ先が、凜のシャツに触れる。セイラが着替えさせた惺のシャツだ。
「他人を欺いているのは、この際目をつむろう。けど、最後くらい、自分を偽るのはやめよう」
「あ――あ――っ」
惺は笑った。
「いまここで、『善良な表情が描かれた仮面』をはがして、呪いを解いてやる」
言った直後、短剣の刃を凜に走らせた――
無防備になった凜の上半身を、上から縦断する刃。
しかしそれは、凜の肉体を傷つけることはなかった。
シャツと一緒に、その下に着込んでいた「もの」が、ばっさりと斬り裂かれる。
上半身をきつく締めあげる、特殊なコルセット。
「俺もセイラも……もちろん悠も、どんな凜でも好きだよ。そのことは忘れないでくれ」
膨らんだ胸と、男性ではありえない腰のラインが月明かりの下にさらされる。
「――星峰凜。きみは女だ」