目を開けたら悪夢から醒めていますように――そう強く願いながら、少女はまぶたを上げた。
薄暗い室内。天井から垂れ下がった古い電球が弱々しく光っている。見慣れた自室の天井ではない。つまり、悪夢は醒めていなかった。
室内には饐えた臭いが漂っている。いつも母が梳かしてくれていた自慢の金髪も、すでに汗でベトベトだ。着ている服――白いブラウスと青いスカートも薄汚れていた。
少女は寝起きの頭で必死に考える。糖分の足りない頭脳を全力で回転させる。少しでも頭を働かせないと、自分自信を見失ってしまいそうだった。
――わたしの名前はクリスティーナ・レオンハルト。ここに連れてこられてから、たぶん……3日目くらい。
少女――クリスはなんとなくの体感でそう判断していた。室内に時計など気の利いたものはなく、窓もないから日中なのか夜中なのかもわからない。
クリスはゆっくりと上体を起こし、周囲を見まわした。室内はそれなりに広い倉庫のような場所で、至るところに木箱やら古い書籍の束などが、雑然と積み重なって置かれている。
なにも置かれてない一角に、十数人の子どもたちが身を寄せ合って眠っていた。男女の比率はほぼ半々で、年齢が4歳から8歳までなのはすでに聞いて知っていた。その中で、11歳の自分が最年長だ。
そのとき、不意に。クリスの右腕を、誰かがぎゅっとつかんだ。見ると、すぐ隣で5歳くらいの幼い女の子が怯えた眼差しを向けてきている。名前はレベッカ。クリスにすぐ懐いた子のひとりだ。
「クリス……おなかすいた」
クリスはレベッカを抱き寄せた。
「もうすぐごはんだと思うから……我慢して」
とは言ったものの、本当にそのとおりになるのか自信はなかった。食事は1日2回、貧相なものが運ばれてくる。食べ盛りの子どもたちには少なすぎる量で、味も非常に粗末。しかも決まった時間に運ばれてくるわけではないようで、子どもたちの腹が空腹の大合唱を始める頃、やっと運ばれてくる。
クリスは再び体を横たえた。もうずっと起き上がっている体力も気力もない。最初は泣き叫んで助けを求めていた子どもたちも、すでに疲れ果て眠っている。あるいは、眠る体力すら失っていて、無気力な眼差しで天井や壁を見つめていた。
しばらくすると、レベッカは眠っていた。
クリスも眠ることにする。
ほかにすることがなかった。
◇ ◇ ◇
無情かつ無作為に、時間は流れた。
何度か食事が運ばれてきたのは覚えているが、もはや正確な回数をクリスも覚えていない。しかし時間が経過するたびに、食事を運んでくる連中の苛立ち具合が増していったのは気づいた。「移送ルートの確保が」「この人数じゃ一度に運べない」「じゃあどうすんだ!」「うるせえ黙れ!」「ええい、ガキども喚くな鬱陶しい!」――そんな感じで、子どもたちに当たり散らすようになったのも覚えている。
連中の会話の意味をクリスは知るよしもない。ろくでもない誘拐犯である彼らがどこの誰なのか知らないし、そもそもどうして自分たちを誘拐したのか、訊いても無駄だろう。
眠ろうとまぶたを伏せる。まぶたの裏に何度も浮かんできた両親の面影も、いまはぼんやりしている。
気力はすでに涸れていた。
「…………?」
――そのとき、唐突に。
誰かがにわかに泣き出した。それが水の波紋のように広がり、子どもたちの大半が涙と鼻水を流しながら号泣し出す。クリスの隣にいたレベッカも例外ではなかった。
ただひたすら涙を流しながら嗚咽する子。
父や母に助けを求めながら泣き叫ぶ子。
意味のわからない言葉を紡ぎながら、泣きじゃくる子。
最初にこの部屋に放り込まれたとき以来の、大きな感情の発露。子どもたちの精神は、すでに限界を突破していた。
このまま騒いでいたら、あの連中がやってきてなにをされるのか、想像するのは難しくない。
「み、みんな……聞いて!」
一度の呼びかけではひとりふたりしか泣き止まず、何度か呼びかける。それでやっと、子どもたちは泣き止みクリスを注視する。
「みんな、『シディアスの騎士』って知ってる?」
子どもたちの反応は薄い。そんな中、泣き止んでいたレベッカが、なにか言いたそうにしてクリスを見つめていた。
「レベッカは聞いたことある?」
「……うん。おとうさんがいってたの。せいぎのみかただって」
「そう! この世界を守る正義の味方。それがシディアスの騎士よ」
この状況下で「正義の味方」という言葉が、子どもたちの中でわずかな光明となったのだろう。その証拠に、子どもたちの瞳に少しだけ輝きが戻る。
「ぼく知ってる! 白い服着てて、光る剣で悪いやつらをやっつけるんだ」
「あたし、光の弓矢がびゅんびゅん飛んでる動画、見たことある!」
「あと、不思議な魔法? みたいな……えっと、なんて言うんだっけ……せー……なんとか。えっと……」
クリスが助け船を出した。
「『星術』ね。――ねえみんな、わたしの父さん、シディアスの騎士なの」
子どもたちが驚いた。シディアスの騎士は子どもたちにとって、物語に登場するヒーローとそう変わらず、めったにお目にかかることができない雲の上の存在に等しかった。
「父さん、シディアスの中でも最強って言われている騎士なんだよ」
たとえそれがその場をなだめるための誇張や作り話だったとしても、子どもたちには確かめるすべがなかったし、そもそも事実かどうかは関係がなかった。最強の騎士というキーワードに、主に男の子たちが興奮する。
「だからみんな、心配しないで。きっと父さんやその仲間たちが、わたしたちを助けに来てくれるから。もちろん、あの誘拐犯たちもやっつけてくれる!」
クリスは子どもたち全員に言い聞かせるように言う。しかし本当に言い聞かせたいのは、そうであろうと信じたい自分自身だったのかもしれない。
どちらにしてもクリスが撒いた希望の種は無事に発芽し、実を結んだ。子どもたちの瞳に光がわずかに戻ったのを見て、彼女は安堵する。
――奇妙な現象が起こったのは、そんな矢先だった。
この部屋唯一の出入り口である木製のドア。誘拐犯たちが出入りするとき以外は施錠され、重厚でびくともしない代物。
そのドアに奇妙な影が作り出されている。クリスは最初、室内の誰かの影が映し出されているのかと思った。
だがおかしい。
この薄暗い室内に、あそこまで黒く深い、地獄の闇を煮詰めたような影を作り出す強い光源などない。そして影はまるで生き物のように怪しく蠢き、自然のものであることを否定している。
影を見つけた子どもたちが、にわかに騒ぎ出した。光の宿っていた瞳も、すぐ不安と恐怖で支配される。
その影は床に移動してさらに激しく蠢き、やがてなにかを形作っていく。
《こんばんはぁ、無垢な天使ちゃんたち》
唐突に「響いて」きたのは不気味な声だった。
耳を通して聞えてきたのではない。老若男女のどれにも聞こえる、あるいはそのどれも当てはまらない、不気味な声。変声機を当てたようなその不可解な声が、この場にいる全員の脳内に直接響く。
子どもたちは状況がまるで理解できなかった。のどが凍りつき、呼吸がうまくできない。クリスも例外ではなかった。
やがて影が激しくうねった次の瞬間、人のシルエットをした黒いかたまりが出現した。
顕現するは死神。
ヒトのシルエットをした、ヒトではないなにか――
比喩ではなく、実際にそうとしか見えない非現実感。
全身をほぼ覆い尽くすのは、暗黒を煮詰めて作ったような漆黒の外套。その隙間からわずかに見える手足も黒ずくめの衣裳をまとって、素肌の部分はまったく見られない。身長は2メートル近くあり、破壊的な威圧感を備えている。
クリスの心臓は最大限に脈打っている。恐怖心が心臓を引き裂きそうになる感覚を、彼女は生まれてはじめて知った。
死神の顔があるべき場所には、不気味な表情が張りついていた。
笑っているようでありながら怒っているように見える。泣いているようでありながら喜んでいるようにも見える――そんな複雑怪奇な感情が描かれた、白い仮面が貼りつけられていた。漆黒の体と純白の仮面のコントラストが、不気味さを極限まで演出している。
仮面が子どもたちを睥睨した。
《あらら、思ったよりも大人数ねぇ。欲張るからにっちもさっちも行かなくなるのよ、あの馬鹿どもは。どうしたものかしら…………あら?》
仮面の不気味な眼が、不意にクリスを見据える。
クリスが無意識にまばたきした瞬間――その死神は、クリスの目の前に移動していた。
「――っ!?」
音も気配もなく、ほんの一瞬の出来事。長い足を折り、しゃがみ込んでいだクリスと視線の高さを合わせている。
クリスの空色の瞳に、その死神が映り込んだ。
《ちょっと「年増」過ぎやしないかしら、この子。ねえあなた、年はいくつ?》
「――っ――――!?」
《それくらい答えられるでしょう。さっさと答えないと、あなたの隣でいろんな液体を垂れ流している女の子の頭、シュークリームみたいに潰すわよ?》
レベッカのことだった。クリスのすぐ隣で、涙と鼻水とよだれで顔をくしゃくしゃにしている。さらに彼女の股間と接する床は生温かい液体で染まり、湯気が立っていた。
「――っ――じゅ、11歳――っ」
《ふーん。やっぱりちょっと年齢が行き過ぎているわね。……あら? よく見たらその緑がかった金髪、どこかで見たことあるような……まあいいか》
突然漆黒の手のひらが差し出され、クリスの頭に置かれる。なんの温度も感じない。恐怖で凍りついたクリスは震えることすらできない。
《……へえ、あなた相当「魔力」が高いわね。なるほど、そういうことか。最初は目標じゃなかったけど、たまたま見つけたから拉致したと。で、そんなことを続けているうちに、こんな人数に膨れあがってしまった……くくっ、ここまで計画性がないと、いっそ清々しいわね!》
死神はクリスの頭から手を離し、その手で仮面を覆うようにしてせせら笑う。その大仰な仕草ひとつひとつがあまりにも現実離れしていて、クリスは悪夢の続きを見ているのではないかと錯覚した。
「……あ、あの……!」
かすれた声でなんとか叫ぶ。思わずつばを飲み込もうとするが、口の中はすでに乾いていた。
《あら、なぁに?》
「あ――あなたは?」
《アタシ? そうねえ……あなたたちをここから連れ出そうと思ってわざわざやって来た、正義の味方よ。うふふ》
「――っ」
《とてもそうは見えないって顔しないでよ。まあ実際、さすがのアタシでもこの人数を一度に運ぶのは骨が折れるわね……》
やがてその死神は立ち上がり、なにか思いついたように手を打った。
《決めた! 半分くらい殺しましょう!》
「――っ!?」
《首を引きちぎったり、手足をもいだり、おなかに手を入れて臓物を引っ張り出すのも楽しそうねぇ。子どもとそんな「遊び」をするのは久しぶりだから、考えるだけでゾクゾクしちゃう! ねえ、あなたもそう思わない?》
それはまるで、母親が夕食の献立を思いつき、それを娘に尋ねているかのような軽快さだった。
「ま、待ってください!」
《なぁに?》
「ど、どうしてそんなことするんですかっ――!?」
《どうしてって、いまさっき説明してあげなかった? アタシ、二度も同じ説明するの嫌いなの》
「だ、だってっ――どうしてそんな!?」
《ああでも、あなたは心配しなくていいのよ。あなたはおそらくこの中でいちばん魔力が高い。だから、もったいないから殺さずに連れて行ってあげる》
「……ど……どこに?」
《それは行ってからのお楽しみ。うふふ》
クリスの心が絶望で満たされていく。この死神から感情を読みとるすべは存在しない。しかし言っていることは本気だと、クリスの本能と直感が即座に判断した。
誰も悪いことなどしていない。
ただ、家に帰りたいだけ。
それなのに、どうしてこんな筆舌に尽くしがたい理不尽が、次々と降り注いでくるのか。
「待ってください……!」
震える膝に活を入れて、クリスは立ち上がった。
「わ、わたしのことは好きにしていいです……で、でも、ほかの子どもたちにはなにもしないで! お願いしますっ!」
死神は無言でクリスを睥睨している。対するクリスは、強い意志の宿った眼差しで、死神を真正面に見上げていた。
やがて死神が、仮面の下で嗤ったのような気配を見せる。
《……本気みたいね。いいでしょう。その心意気は買うわ》
死神はクリスに顔を近づけ無慈悲に言い放つ。
《あなたは死になさい》
「――ぇ」
《好きにしていいんでしょう。だから、あなたは死になさい。そうしたら、ほかの子たちには手出ししない。約束するわ……ま、ちょっともったいないけどね!》
「――っっ!?」
《3分あげる。そのあいだに子どもたちと別れでも済ませなさい。うふふ、アタシって優しいでしょ》
そう言いながら、死神はクリスの両肩をつかんで強引に振り返らせる。
クリスは呆然としながら子どもたちを見まわした。子どもたちは恐怖に一抹の哀しみを混ぜたような眼差しで、クリスを見つめ返している。その眼差しに深い意味はないだろう。しかしクリスは、子どもたちが自分にすがっているように感じた。彼らとの交流はまだ浅い。誘拐犯がいないあいだにいろいろ話をして、全員の名前を最近やっと覚えた程度。
しかしクリスにとって、そんな事実は些末なことだった。
自分がどうなってもいい。でも、この子たちだけは――
クリスは目をつむった。数秒にも数時間にも感じられる奇妙な時間が流れるあいだに、彼女の脳裏に様々な顔が思い浮かぶ。
朴訥ながら実は優しい父。温かく慈愛に満ちた母。姉のように慕っている親友や、父と比肩するくらい尊敬している男性。その彼の娘で、ピアノが大好きな可愛らしい女の子。ほかにもお世話になった人々の顔が浮かんでは消える。
クリスは目を開け、振り返った。
死神が目の前にいる。
やはり悪夢は醒めていなかった。
《大丈夫よ。痛くはしないから。約束も守る。アタシ、こう見えて世界一誠実なのよ。うふふ……あははははっっ――!》
死神の高笑いが、クリスの脳内にこびりつくように響きわたる。これが人生最後の瞬間に聞く声だと思ったとき、クリスの心は完全に絶望に満たされた。
死神が左手を大仰に振り上げる。次の瞬間、その漆黒の手のひらの周囲に、無数の闇の粒子が発生。闇の粒子は光をすべて呑み込んでしまうのではと思えるほど黒く、絶望的な暗さを内包していた。
やがて、闇の粒子が一カ所に集束していき、巨大な棒状の物質に変化する。
巨大な刃が鋭い曲線を描く、漆黒の大鎌――ウォーサイス。
《さようなら。優しく気高い少女――!》
そう言い放って、クリスの脳天めがけてウォーサイスを振り下ろした。
――死にたくない!
心の最奥に存在していた欲求が、クリスを無意識に動かした。
クリスは身を守るように両手を頭上に突き出していた。その手のひらの先から、彼女の空色の瞳を彷彿とさせる淡い光の膜が広がっている。
その膜がウォーサイスの侵入を防いでいた。クリスの頭上数センチのところで、漆黒の刃が完全に静止している。
《んんっ!? ――まさか〈マテリア・シールド〉!?》
死神の驚愕の声が響いてきたと同時に、光の膜はどこかに霧散した。クリスはわけがわからず、その場にぺたりと座り込む。
《ちょっとあなた! なんでそんな高度な星術使えるの!?》
クリスは答えない。ただ呆然として虚空を見つめている。
《まさか無意識に発動させたの? ……へえ、これは面白い》
不気味な仮面に見下ろされているのに気づき、クリスはやっと我に返った。
《ヴィクター博士にいろいろ調べてもらいましょ! こんな逸材、めったに会えないんだから……あら、そんな絶望的な顔しないで。殺すのはやめたから。あなたはやっぱり連れて行く――》
死神の片手がクリスに伸びていく。
クリスは思わずぎゅっと目をつむった。
《――まあ、あそこでは、たぶん殺されていたほうがマシ、なんて状況になるでしょうけどね! あは、あははははははははは――》
「父さん――っ!」
《――ははははははぎゃああぁぁぁぁぁあああっ!?》
全力の嘲笑が突然、断末魔のような絶叫に入れ替わる。
その出来事はなんの前触れなく起こっていた。実際、その数瞬前に勢いよくドアが開けられた音がしていたが、クリスは気づかなかった。
「――っ!?」
死神が両腕を左右に突き出して全身を震わせていた。かの存在の胸の位置から、鋭い一本の光の矢のようなものが飛び出している。漆黒の死神から飛び出すそれは神々しいオレンジ色の輝きを放ち、明瞭なコントラストを描く。
さらに次の瞬間、クリスの瞳に蒼い光の奔流が映る。それは死神をかすめるように奔っていた。
死神は光の矢が刺さったまま、舌打ちのような「声」を漏らしながら、即座に右に飛び退いてそれをかわす。
「――父さんじゃなくて悪かったな、クリス」
凜とした男性の声が、たしかにクリスの耳に届く。
目の前に、誰かの高い背があった。
長身の男性。淡い亜麻色の髪。蒼のベルトがアクセントとなっている、光沢を放つ白いオーバーコートに身を包んでいる。袖口や襟などには意匠の凝った蒼や金色の縁取りがなされ、シンプルさと高級感を両立させていた。
彼の右手に握られているのはひと振りの日本刀で、それはこの薄暗い室内でもはっきりとした光の輪郭を帯びている。
「ぁ……あぁっ!?」
驚きと歓喜が入り交じって、クリスはうまく言葉を紡げなかった。しかし、「父と比肩するくらい尊敬している男性」が突如現れて、自分の前に立っていることは純然たる現実だった。
ドアのほうを見ると、別の誰かが立っている。濃紺のオーバーコートに身を包んだ十代後半とおぼしき女性。夕焼けを彷彿とする茜色の豊かな髪を、肩のあたりで切りそろえたボブヘアー。きれいで整った顔立ちの中に、わずかなあどけなさを有していた。
「姉のように慕っている親友」である彼女は、まばゆい輝きを放つ光の弓弦が張られた弓を構えている。彼女はクリスの視線に気づくと、静かに微笑みながら言った。
「はぁい、クリス。待たせてごめんね」
「レイリア!」
「もう大丈夫だから安心して。――それより、あたしの大事な妹分を怖がらせた責任をとってもらうから!」
レイリアと呼ばれた女性はどこからか発生した光の矢を弓につがえ、鋭い視線を伴って死神に向ける。
男性も日本刀を構え直し、死神と対峙した。
《真城蒼一ぃぃっ!? あんたよくもやってくれたわねぇ!?》
などと叫びながら、まるで子どものように地団駄を踏む漆黒の存在は、もはや悪夢以外の何物でもない。つい先ほどまで胸から飛び出していた光の矢も、いつの間にか消えている。
あらゆる常識を失った存在はまだ近くにいる。だが、いまのクリスに恐怖は皆無だった。すでに悪夢から覚めていると確信している。
「……アヌビス。おまえは会うたびにクレイジーになっていくな。――レイリア、ここはわたしに任せろ」
レイリアは短くうなずいた。
男性は微笑みながらクリスを見る。
「さあクリス。レイリアと一緒に逃げるんだ。ほかの子どもたちも一緒にな」
「……蒼一は?」
「わたしはこの死神を懲らしめてやらないといけない……さあ」
「う、うん」
淡い亜麻色の髪の日本人男性――真城蒼一にうながされ、クリスは立ち上がった。もう膝は震えていない。ほかの子どもたちもクリスを真似て、次々と立ち上がる。やがて壁際を恐る恐る移動して、全員が部屋を出た。
《ちょっと待ちなさいよ! その子たちはアタシのおもちゃなのよぉ! 横取りしないで返しなさいよぉっ!》
「却下だ。おまえの存在はすべてが教育に悪すぎる。おとなしく宇宙の果てにでも吹っ飛んでくれ」
《むっきぃっっっ!? もう絶対に殺してやるぅっ――!》
クリスに聞えた会話は、それが最後だった。
レイリアに連れられて石造りの薄暗い廊下を走り、夢中で出口を目指した。自分たちが古い建物の地下室に監禁されていたのだと、そのときはじめて知る。
それから先のことはよく覚えていない。途中、レイリアや蒼一と同じ格好をした人たちが何人かいて、その近くで誘拐犯たちが倒れているのを見たのはかろうじて覚えていた。
やがて外に出た。特殊車両が何台も付近に止まり、白や濃紺のオーバーコート姿の人間も、それ以外の人々も大勢いる。
しかしクリスに、それらの人々はほとんど目に入らなかった。
久々に見る外の風景。赤茶けて乾燥した荒野と、その上に広がる雄大な空が視界に広がっている。ちょうど夜明けの瞬間らしく、大陽と月と星が一堂に集い、空は幻想的な光景を醸している。
ここまできれいな夜明けの瞬間を、クリスは生まれてはじめて見た。空も風の音も乾いた大地でさえも、自分たちを祝福しているかのように思える。
「――っ!」
そんな絶景でさえ霞む衝撃が、クリスの全身を駆けめぐる。
遠くからひとりの人物が、こちらに向かって歩いて来ていた。
緋色の髪を獅子のたてがみのように後ろに流した、精悍な容貌の男性。鍔の中央に真紅の宝玉がはめられた長剣を腰に携えている。長身でがっちりとしており、その身にまとう白のオーバーコートは風に揺れていた。
クリスは全力で駆けた。
「父さんっ!」
その男性の胸にクリスが飛び込むと、懐かしい父のにおいとぬくもりに包まれる。
監禁されてからこの瞬間まで、クリスは涙を流さなかった。最年長であるという自負が、それを許さなかった。
しかしいまは違う。緊張の糸が完全に切れ、あふれ出す感情が涙となり、澎湃として流れ出す。
父はそれを受け止め、ただ愛しそうに娘を抱きしめていた。
もともとクリスには、ぼんやりとした夢があった。
父や蒼一や、レイリアのようになりたい――
そしてこの瞬間、クリスの夢は明確な「目標」となった。
自分も正義の味方になりたい、と。