わたしは暗闇の中を走っていた。
ここがどこなのか、なんで走っているのか、どこに向かっているのか、すべてがわからなかった。一心不乱に走り続けているわたしの姿が、暗闇の中で唯一の存在だった。
……あれ? 暗闇なのに、光源がまったくないのに、どうして自分の姿が確認できるんだろう――走りながら、ふと思った。
目の前に人影が見えた。暗闇の中なのに、なぜか見えた。わたしは立ち止まり、ゆっくりとその人影に近づいていった。
「月城……くん?」
彼――月城くんが振り返る。
無言。そして無表情。表情から感情を読みとることはできなかった。
そして、
「さようなら」
抑揚のない無感情な言葉を残し、月城くんは消えた。
跡形もなく消えた。
なんで? どうして消えるの?
「月城くんっ!?」
必死に叫んだ。こんなふうに大声で叫んでも、声は反響することなく、周囲の暗闇に吸収されていく。
周囲の暗闇が、自分の心までも覆い隠そうとしていた。
ひとり。わたしはいま……ひとりぼっちなの?
「いやぁ……」
涙が出てきた。どうして行っちゃうの? 謝りたいのに。
『本当にそうなの?』
「……え?」
どこかから聞こえてきた声。振り返っても誰もいない。上下左右、どこを見わたしても誰もいなかった。
『本当は逃げたいんじゃないの』
また、どこかからの声。
突然目の前に人が現れた。
それは、紛れもなくわたし――綾瀬由衣だった。一糸まとわぬ姿で、鏡を見ているような錯覚を覚える。
『あなたはね、逃げたいの。あらゆることから』
と、目の前の「わたし」は言う。
見下すような冷たい視線――睥睨。
『あら、そんな顔しないでよ。本音でしょ?』
「ち……違う」
『違わない。あなたはね、目を背けたのよ。目の前の現実からね』
「ちが――」
『違わないって。そして、これから先も逃げようとしているのよ』
辛辣な言葉が無数の刃物になって、わたしの胸に次々と刺さった。
痛い。
ううん、痛くない。
だってこれは……夢、でしょ。
夢なら痛くない。
『ええ、夢よ』
目の前の「わたし」が、わたしの心を見透かすように言ってきた。にやりと笑みを浮かべながら、目の前のわたしは言葉を続けた。
『だからいま、「わたし」が「わたし」に言うの。いつもはあなた、「わたし」の言うことを聞こえないふりをしてるでしょ』
無意識からの声。内面の奥深くから聞こえてくるような声。わたしが逃げるような状況のときに、どこからともなく響いてくる声。その声はいつも辛辣だった。
その声の主が、目の前にいるわたしなのだとしたら。
……ああ、そうなんだ。わたしは、心の底では気づいているんだ。
『ま、いまのところはこれくらいにしてあげるわ』
「……え?」
『ばいばい。もうひとりのわたし』
そう言って、目の前のわたしは不気味な微笑みを残し、消えた。
「あ……」
消えた。
ということは。
また、ひとり。
泣きながら、その場にくず折れた。
誰でもいいから、そばにいてほしいかった。抱きしめてほしい。ぬくもりがほしい。
「――ゆ――」
つぶやくような声が聞こえた。耳を通じて聞こえてきたんじゃない。頭に直接語りかけてくるような、そんな朦朧とした声。
「由衣――」
声がだんだんとはっきりしてくる。聞いたことのある声。聞いていて、どこか落ち着く声。
「誰……どこ?」
わたしの声は、やはり漆黒の闇に紛れて霧散していった。相変わらずなんの反応もない。返事がないことがこんなにも怖いことだと、はじめて知った。
「ねえ、誰なのっ!?」
叫んだけれど、無情なまでの沈黙が返ってきた。
「誰か、返事……してよ」
ここはどこ?
ひとりは……やだよ。
「由衣……ごめんね……」
「――っ!?」
……ああっ。
わかった。わかってしまった。この声……このやさしい声はっ!
「お母さんっ!?」
「由衣――なたは――ヴァイオリ――」
声が途切れ途切れになっていく。でも、かろうじて聞き取ることができた単語。
……ヴァイオリン?
「お母さん……? お母さんっ!」
やがてなにも聞こえなくなった。
暗闇の中の意識は、ここで途切れた。