第七章 01

 夕暮れの光が部屋に差し込み、室内は鮮やかな朱色に染まっていた。
 そんな中、目の前に置かれたものからわたしは目が離せなくなっていた。
 黒塗りのヴァイオリンケース。今日、調整に出していたイタリアの工房から無事に戻ってきた。まさかこの天野宮市に、ずっと懇意にしていたイタリアの工房との提携先があるとは思わなかった。もしかしたら、わたしにこの地を紹介してくれたあの人は、このことも知っていたのかもしれない。
 ケースを開けると、淡い光沢を放つヴァイオリンが納められている。名工ニコロ・アマティ製作の一品で、あの人がわたしにプレゼントしてくれたものだった。こんな希少価値の高いものを、あの人はどこで手に入れたんだろう。
 ヴァイオリンを手に取ってみる。久しぶりの感触が手に広がった。この手触りもこのにおいも、いままで全部、わたしとともにあった。どんなときでも、このヴァイオリンはわたしを支えてくれた。
 静かなボウイングで、部屋の空気が小刻みに震え出す。
 響きわたるヴァイオリンの旋律。
 ……ああ。
 わたしはこれに魅せられたんだ。もう、どうしようもないほどの虜になってしまった。
 忘れていた感覚を取り戻すように、旋律を紡ぐ。楽譜を見なくても、旋律の流れは体に染み込んでいた。
 時にはビブラートを利かせ、時にはピッチカートで表現の幅を広げてみる。
 これが求める音なのか、常に自分と向き合うことも忘れない。
 あの人から言われたことだ。それを忘れてしまったら、練習している、という自己満足だけで終わってしまう。楽譜を追うだけなら誰でもできる――あの人はいつも言っていた。
 長いようで、短い時間。
 やがて、哀しげな余韻を残して曲は終わった。
 しばらく目をつむり、わたしはわたしの内面に沈む。
 鋭い緊張と沈黙の中、あの旋律がよみがえる。
 イタリアへと渡ってからしばらくした頃、わたしははじめての逆境に立たされることになる。ヴァイオリンを弾いても、楽しいと感じなくなってしまった。漠然とした不安がわたしを徐々に蝕んでいくような、不愉快な感覚。
 これから先、ヴァイオリンを弾き続けてなんになるのだろう。そんなことも考え始めてしまった。そういえば、連日の厳しい稽古にも嫌気が差していた気がする。
 そんなわたしの精神状態を気遣ってか、あの人がとあるリサイタルに連れて行ってくれた。
 
『なにも考えなくていい。難しいだろうが、ただ心を無にして彼の演奏を聴いていればいい。そうすれば世界が変わる』
 
 あの人はこんなことを言っていた。世界が変わる? いったいどういうこと? ――そんな疑問を抱きながら、わたしはとあるコンサートホールの、歴史を感じさせる雅やかな門をくぐった記憶がある。
 そして、あの――月城くんのリサイタルで救われた。そのとき、運命という言葉の意味をはじめて感じた。あの衝撃はいまでも忘れられない。
 実際、月城くんの演奏を聴いた以降のわたしは驚くほどの集中力を発揮していたと、あの人は言う。ヴァイオリンの演奏も劇的に変わったらしい。憑き物が取れたように清々しい音色になり、旋律に表情が見えるようになったと、厳格なあの人がはじめて褒めてくれたときは、それこそ涙が出るくらい嬉しかった。
 でも――
 テーブルの上にヴァイオリンを置く。テラスに出て深呼吸。外は寒くも熱くもなく、快適な気温だった。
 わたしの部屋は、天野宮学園からやや離れたところにあるマンションの最上階にある。いつでもヴァイオリンが弾けるよう、室内の防音設備は完璧だ。
 遠くの高台の上には、天野宮学園の校舎を望めた。
 
「……ふふ」
 
 つい、自嘲的に笑ってしまった。わたしがひとりのときにヴァイオリンを弾いているのは、それこそただの自己満足にすぎない。
 月城くんが紡ぎ出したピアノの旋律。聴く人すべてを例外なく感動させることができた、月城くんの「神の旋律」にたどり着くのは、いまのわたしでは到底不可能だと悟ってる。
 もう、彼との関係はこれ以上なにも変わらないかもしれない。浅はかなわたしのせいで、始まる前に終わってしまった。
 それでも、せめて。
 明日の放課後、謝ろう。





光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~

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