唐突に我に返った。
ここはどこだろう――と察するより前に、目の前にいる人物の姿を確認して、わたしはまた思考が停止しそうになる。
夕陽に照らされた、月城秀一くん。彼はわたしの瞳をのぞき込んでいた。彼の瞳の奥行きの深さに、危うく吸い込まれそうになった。
「……大丈夫か?」
思い出した。たったいま、わたしは月城くんに真実を――心の闇を暴かれたんだった。
「月城……くん……」
「大丈夫そうじゃないな……それなら、話題を変えようか」
自分に向けられている言葉の意味が、よく飲み込めなかった。
「きみがどうして人前でヴァイオリンを弾けなくなったかは、この際、隅に置いておこう」
弾けなくなった。わたしが、ヴァイオリンを?
……そういえばそうだった。
でも、どうして月城くんがそれを知ってるんだろう。
「俺がどうしてプロとしてピアノを弾き続けていたのか、そして、どうしてそれを自分から捨てたのか、その理由を知りたくはないか? きみが救われたとまで言った俺の旋律の、本当の意味を」
「――ぁ――っ」
知りたい。
どうしてあんな旋律を奏でることができたのか。どうしてあそこまで人々を感動させることができるのか。
そして、どうしてそこまでの才能を持ちながら、簡単に捨てることにしたのか。
わたしは、その根底にある理由を知りたい。
――ヴァイオリンから逃げた。
――すべてを投げ出した。
――現実から目を背けた。
――そんなあなたに、知る権利があるの?
意識と無意識の葛藤。支離滅裂な思考が正常な判断を邪魔する。
「――たとえ幻滅することになっても、その理由を知りたいか?」
「神の旋律」にまで至った理由に、なぜ幻滅するんだろう。想像もできなかった。
――幻滅。
――自分に。わたし自身に。
――そしてヴァイオリンに。
――そうでしょ? わたし。
「お、教えてっ」
いままでいちばん知りたかった真実。それが月城秀一本人の口から、いままさに紡がれようとしている。
月城くんの吐息が感じられるほど、その端整な顔が近づいてきた。
ごくり、とわたしは唾を飲み込もうとした――けれど、口の中はもう、からからに渇いていた。唇の潤いもない。溢れてくるのはなぜか涙だけだった。
「俺がピアノを弾き続けた理由はね」
ああ、ついに――!
「金儲けだよ」
「――――――ぇ」
わたしの心の中に、虚空が生まれた。また思考が停止したんじゃないかという錯覚。いまの月城くんの台詞を、頭の中で何度も反芻する。連想される単語がいくつも浮かんできた。金儲け――お金――利益――商売。
「う……そ」
「嘘じゃない。俺はただ金儲けのためだけにピアノを弾いていた。芸術の分野が当たると大きいのは、きみなら知っているだろ?」
「……う、嘘……だよね?」
「だから嘘じゃないって。俺はただ金が欲しかった」
不敵に笑う月城くんの表情は、わたしがいまだかつて見たこともないほどの凶悪な魅力を備えていた。
「ピアニストとして約十年間、俺はヨーロッパ中をめぐって金を荒稼ぎしていた。でも二年前、それを続ける必要がなくなった。だいぶ稼いだからね。だからピアノを捨てたんだよ。これが真実。どうだ、笑っちゃうだろ?」
ふふ、と自分を嘲る月城くん。
月城くんの瞳に濁りは見られない。彼は真実を言っている――わたしの直感が、冷酷に無慈悲にそう判断した。
わたしを救った旋律。誰もが目指して、結局はたどり着けないことを知るはるかなる高み。それまでの音楽の歴史を塗り替えた至高の音。
それが。音楽の到達点に至った理由が。
自分自身の利益のためだった……?
――ヴァイオリンを、
――わたしは、
――誰のために、
――弾いていた?
再び意識と無意識が混濁する。
「ピアノを弾くのに、人を感動させたいとか、そんな崇高で道徳的な理由はいらないんだよ。お金という、この社会においての普遍的な価値があればね。社会人としてふつうに働いても稼げないような金額を、俺は楽に稼いでいた」
ぷつん、と。わたしの中のなにかが、音を立てて切れた。同時に、抗えないほどの激情が臨界点を越える。
そして。
ぱんっ、と景気のよい音が屋上に響いた。それがわたしの手のひらが月城くんの頬を打ったことだと気づくまで、長い時間を要した。
静寂が訪れる。
「商売道具の手を、そんなふうに使うなよ……まあでも、もうプロじゃないからいいのかな」
赤くなった右の頬をさすりながら、月城くんは不気味な輝きを放つ瞳をわたしに向けた。
「あ……あぁ……っ!?」
すっと恋焦がれていた、あの月城くんを、わたしは――!?
「綾瀬さん、俺が言いたいのはね――」
「も、もう嫌ぁっ!」
消えてなくなりたい。いますぐこの屋上から飛び降りて、死にたい。
「いいから最後まで聞いてくれ。俺が言いたいのは、自分を取り巻くあらゆる事象から逃げているうちは、きみはいつまで経っても人前でヴァイオリンを弾くことはできない、ってこと。ヴァイオリンに依存していた理由を自分で見つけないと、前には進めないってことだよ」
「い……意味が」
「俺がピアノを弾き続け、やがて捨てたのも、きみがヴァイオリンを弾き続けて、やがて逃げ出したのも、根底にある理由はおそらく一緒だ。キーワードは『依存』。きみがヴァイオリンを弾けなくなった原因はおそらくそこにある。少し頭を冷やしてから考えてみるといい。――もしも再び、プロとしてヴァイオリンを弾いてみたいという気持ちが、少しでもあるのならね」
月城くんは踵を返し、階段室にある扉へと向かった。一度も振り返ることはなかった。
「あぁ……っ」
せっかく近づけたのに。やっと話すことができたのに。はじめて触れることができたのに。
月城くんとの距離が、完全に離れた。
「いやああああっ!?」
心が折れた。膝の力が抜け、その場にくず折れる。涙で顔がくしゃくしゃになるのがわかった。
扉が閉まる音が、容赦なくわたしに突きつけられる。
「あ、綾瀬さん……?」
投げかけられた声は、月城くんのものではなかった。かなりの労力を使って顔を上げると、爽やかな好青年が、その端整な顔をしかめて立っていた。
「あ……天宮……くん……?」
天宮哲郎くん。彼の姿は、なぜかまぶしく感じられる。
「あ、綾瀬さん……秀一に、あいつにいったいなにを言われたんだっ!?」
天宮くんがここまで取り乱しているのを、わたしははじめて見た。天宮くんはわたしの肩をやさしくつかみ、視線の高さを合わせてくれた。
わたしにはもう、なにも残されていない。……でも、ひとつだけ残っているものがあるとすれば――
そのあと、天宮くんの腕の中でいつまでも慟哭した。