第九章 02

 天宮くんに電話すると、すぐに出てくれた。
 
『綾瀬さん……もう大丈夫?』
 
 天宮くんの声は控えめだけど、やさしかった。
 
「うん……いろいろ心配かけてごめんね」
  
 放課後の屋上。月城くんが去ったあと、入れ違いに天宮くんがやってこなかったら、いまのわたしはなかった。
 
『よかった。少しは落ち着いたみたいだね』
  
 それにしても、あんなに泣いたのは久しぶりだった。天宮くんの胸を濡らしてしまったことが、いまになって恥ずかしく感じる。
 
「あのときは取り乱しちゃってごめんなさい。制服の胸、濡らしちゃって」
『はは。いや、それはいいんだけど』
 
 笑い飛ばしてくれた。本当に気にしてないみたい。
 
「あのね、天宮くんに聞いてほしいことがあるんだけど、時間大丈夫かな」
『うん。問題ないよ』
 
 わたしが月城くんになにを言われたのか、天宮くんはまだ知らない。あのときのわたしは、ちゃんと説明できる状態じゃなかった。
 天宮くんに事情を全部話した。
 わたしがプロのヴァイオリニストであること――お父さんとお母さんのこと――例の写真の真実――壊れた腕時計。半年前にお母さんが亡くなり、それがきっかけで人前でヴァイオリンが弾けなくなったこと。それから逃げるように日本へ帰国したこと。
 そして、月城くんにそれらを含めた真実を完全に見抜かれたこと。
 
「あの、いままで黙っていてごめんなさい」
『……いや……誰だって秘密のひとつやふたつはあるさ。しかも綾瀬さんが転校してきてから、まだ一週間も経ってないんだよ? だから気にしないで』
「……ありがとう」
『それにしても、僕が気になったのは、そんな少ない情報だけで、あいつはそこまで見抜いたのかってことだよ。だって、要するに秀一のやつ、壊れた腕時計と写真だけを頼りに、そこまで見抜いてきたんでしょ? 僕からの情報も少しはあったとはいえ』
「う、うん……たしかにすごいよね、月城くんって」
 
 でも結局そのおかげで、わたしは現実と向き合うことができたから、結果オーライだ。
 
「そういえば、天宮くんはどうして屋上に?」
 
 たしかあのとき、天宮くんは生徒会の集まりがあったはず。なにか理由がなければ、わざわざ屋上なんかには来ないと思う。月城くんと入れ違いになった、というのも偶然にしては出来過ぎている気がする。
 
『今日一日、綾瀬さんの様子が妙におかしかったからね。ずっと気になってたんだ。生徒会の集会を早めに切り上げて、とりあえずなにか事情を知ってそうだった木崎さんを捕まえて訊いてみたら、手紙のことを話してくれた』
 
 下駄箱に入っていた手紙。あれは月城くんがわたしを呼ぶために用意したものだった。木崎さんも手紙を読んだから、わたしが放課後どこにいるのかは知っていたはずだ。
 
「ああ……言っちゃったんだね、彼女」
 
 嘘をつけなさそうなタイプだもの、木崎さんは。
 
『木崎さんのことは怒っちゃだめだよ。無理に聞いた僕がいけないんだから』
「うん。それは大丈夫」
 
 木崎さんはわたしのことを心配してくれたんだと思う。わたしに余裕がなかったのは木崎さんでも気づいただろうから、信頼している天宮くんに事情を伝えたんだ。
 彼ならどんな状況でもうまく立ちまわってくれるだろうと安心して。そんな木崎さんを責めることはできない。
 
『話を聞く限りではラブレターのようだったから、まさに告白の現場になりそうなところの様子なんて見に行かないほうがいいと思ったんだけど、どうも気になってね。嫌な予感ていうか』
「嫌な予感?」
『木崎さんが言ってたんだけど、その手紙の文字、恐ろしく綺麗な字だったんでしょ? 秀一は昔から大人が舌を巻くほどの達筆だったから』
 
 もし月城くんだったら、わたしに告白なんてするはずがない。だから気になった、と。
 ……まあ、ある意味では「告白」だったんだけど。
 
『で、扉越しにちょっと様子をうかがおうと思ったら、綾瀬さんの悲鳴が聞こえてきた』
 
 かあっ、と顔が熱くなる。
 
「そ、そんな大声で叫んでいたのかな、わたし」
『うん。あれは分厚い扉越しからでも聞こえたよ』
 
 そうだとしたら、校庭で部活をしていた人たちにも聞こえたんじゃないの?
 ……うう。恥ずかしい。
 
『僕が扉を開けたら、まさに向こう側から扉を開けようとしていた秀一がいた。そのままあいつは僕に一瞥もくれることなく、扉を抜けて階段を下りていったんだ。僕がいたことを驚く様子も見せずにね』
「ねえ、月城くんって……いったい?」
 
 月城秀一という人間はまるで底が見えない。出会ってからたったの数日で、わたしの心の闇を暴き出した。わたし自身ですら気づかなかったこと、目を背けていたことを見抜き、絶対的な自信を持ってわたしにそれを突きつけてきた。
 あの洞察力と行動力。ピアノの腕だけじゃない超人じみたなにかが、月城くんにはある。
 
『あいつは……月城秀一という人間は、本当の意味での天才だよ』
「天才……」
『そう。ピアノだけじゃない。あいつはなにをやらせても、誰も手の届かない高みに触れることができるんだ。勉強でも運動でも例外はなくて、この世で月城秀一にできないことなんて、たぶんないと思う。ありとあらゆる才能に恵まれたやつさ……』
「天宮くんは月城くんのこと、なんでも知ってるんだね」
 
 少し羨ましい。よく考えたら、わたしは月城くんのことをなにも知らない。
 
『まあ、腐れ縁だからね。あいつとは』
 
 聞くところによると、ふたりは小学校入学当初からの付き合いらしい。
 最初に出会ったときにはすでに、月城くんのピアノの腕はもうプロのレベルに到達していたと、天宮くんは語った。
 
「それなら――」
 
 月城くんがわたしに告白したことは、本当のことなのかな。
 お金儲けのためにプロのピアニストになったこと。二年前にその理由が消失し、ピアノを捨てたこと。わたしは天宮くんに尋ねた。
 
『ああ。本当だよ。でも……』
 
 わたしは言葉を失った。天宮くんまで認めるなら、それは絶対に本当のことだ。
 
『でもね綾瀬さん、誤解しないでほしいんだ。それはたしかに正解でもあるけど、別の視点から見たら不正解でもある』
「……え?」
『モモコって女の子の名前、聞いたことある?』
 
 果物の「桃」に子どもの「子」で桃子と言うらしい。
 
「……ううん……はじめて聞いたよ」
『そうか。やっぱりあいつもそこまでは語ってないのか……彼女のこと』
「誰なの? ……その子が月城くんと関係あるの?」
『僕からは……詳しくは話せない。これは部外者の僕から簡単に話していいものじゃない。ひとつだけ言えることがあるとしたら――』
 
 天宮くんは言葉を区切った。
 
『――秀一は彼女のことを、月城桃子という少女をただ守りたかっただけなんだ』
 
 ざわっ、と。
 心が落ち着かない。胸になにかがつっかえたような違和感が生まれた。
 ……知りたい。
 月城くんのことを、もっと。けどわたしはまた、彼の心の闇に触れようとしているのかもしれない。
 
「天宮くん。あのね――」





光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~

この記事が気に入ったら
フォローしてね!