第十章 01

 潮騒が近い。
 砂浜に打ち上げられた流木の上に座っている。目の前には、夜空をそのまま映したような漆黒の海が広がっていた。
 ほどよい温度の夜風にさらされながら、綾瀬由衣のことを考える。昨日の彼女の様子からして、俺が提示した「解」はそう間違っていなかったはずだ。
 おそらく綾瀬由衣という人間は、この上なく純粋で、想像以上に不器用だったんだ。
 だからひとつのことに、ヴァイオリンだけに依存した。現実から目を背けて、逃げるために。
 しかし不思議だ。なぜ彼女がそうなるまで、あの人は放っておいたんだろう。
 ベルナルド・フォン・クラウザー。あれほどまでの人物が、綾瀬由衣の危うさに気づかないはずがない。それでも放っておいたのは、なにか深い理由があるからか?
 
「……わからん」
 
 クラウザー氏本人に確かめてみないとわからない。
 ただ俺にはもう、その資格はない。
 不意に、背後から砂を踏む音が聞こえてくる。同時に、背後に近づいてくる人の気配を察した。振り向かなくてもわかる。それが誰なのか。
 
「彼女は立ち直れると思うか?」
 
 俺は振り返ることなく、背後の人物へ向かって言った。
 返事はなかった。でも、憤然とした気配が伝わってくる。そいつはいままで見たこともないくらいの怒りを秘めているらしい。
 俺は立ち上がり、そいつ――天宮哲郎と向かい合った。
 二メートルも離れていない距離だ。怒気と一抹の憐憫が宿った瞳で、静かに俺を見据えている。
 
「秀一」
 
 左の頬にかつてない衝撃が襲った。耐え切れず、砂浜の上へ転がった。
 昨日は左利きの綾瀬由衣に右の頬を手のひらでひっぱたかれた。右利きの天宮哲郎はいま、逆の頬を殴ってきた。しかも握り拳で。
 俺は砂を払いながら立ち上がる。
 
「どいつもこいつも……痛いじゃないか」
「いまのは、きみのクラスの市川さんのぶんだ」
「…………は?」
 
 なぜここで俺のクラスの委員長の名前が出てくる。たしかに市川さんと哲郎は同じ生徒会の役員。しかも、ふたりは生徒会きっての「名コンビ」としてそれなりに有名だ。
 
「今日おまえ、無断欠席しただろう。委員長の市川さんに無用な心配をさせた罰だ」
 
 あの市川さんが、俺の心配だって? いつも仏頂面で、小姑のような小言を言ってくるだけなのに。第一、あの子の前でさぼるのも今回がはじめてではない。
 
「……彼女がきみに気があることくらい、とっくに気づいているだろ」
「初耳だ」
 
 しらばっくれることにした。
 
「……そうか」
 
 次の瞬間、哲郎の長い右足が高く舞い上がった。胸への衝撃の次に、体が吹っ飛ぶ感覚に見舞われる――ていうか文字どおり吹っ飛んだ。
 長い足での一蹴。避けようと思えば避けれたかもしれない。でも俺は、なぜかそうしなかった。
 俺の体は、再び無様な様子で砂浜に転がる。さっき以上に砂まみれになった。本当に涙が出るくらい無様だ。
 
「……いまのが、綾瀬由衣のぶんか?」
 
 上体を起こして肘で体を支えながら、そう問うた。
 
「違う。いまのは僕のぶんだ」
 
 なんだ。ということはまだ続くのか。痛いのは勘弁して欲しい。けど、いまの俺には拒否する権利がない。それだけのことをしたから。
 哲郎は俺にまたがり、胸倉をつかむ。
     
「なぜ、綾瀬さんを追い詰めるようなことを言ったっ!」
 
 事情は聞いているらしい。哲郎がここまで怒っている場面を、いままで見たことがあっただろうか。
     
「彼女は俺の闇に触れた。だから俺も彼女の闇に触れた。それだけだ」
「なんでそんなことっ」
「強いていうならそう、仕返しだ」
 
 にやっと笑って答えてやった。
 顔面に衝撃。哲郎はまた、握り拳で俺を殴りつけた。
 
「仕返しなんて、きみがそんな馬鹿みたいに単純な思考回路をしているわけがないだろう!」
「じゃあ、なんだっていうんだ?」
 
 つつ、と鼻から熱いものが流れてきた。鼻血だ。
 
「――秀一……きみは綾瀬さんの中に、自分を見出した」
「それは……」
『――俺がピアノを弾き続け、やがて捨てたのも、きみがヴァイオリンを弾き続けて、やがて逃げ出したのも、根底にある理由はおそらく一緒だ――』
 
 そんなことを、綾瀬由衣に言った気がする。
 
「黙ってるってことは、肯定と受け取るぞ」
「はは。そんなところまでわかるなんてさすがは天宮哲郎。大したものだな」
「笑い話じゃない! 僕が言いたいのは、現実がどうであれ、なぜ綾瀬さんをあそこまで追い詰める必要があったのか、ということだっ!」
 
 また殴られた。
 服の袖で鼻血を拭いた。
 
「彼女の危うさは、もう引き返せない一歩手前のところだった。だからそれに気づいてもらうには、あそこまで言わないといけなかったんだよ」
 
 現実から逃げるためにヴァイオリンを弾き続けた綾瀬由衣。
 それは、桃子に依存してピアノを弾き続け、桃子を失い、やがて捨てることになった自分の姿とよく似ている。
 
「俺はもう引き返せないところまで進んでいた。でも彼女は、綾瀬由衣はまだ救いようがあった」
「っ――きみは、綾瀬さんを救ったと――?」
 
 哲郎の激情が、わずかに揺らいだ。
 救うというのは大げさな気もする。けど、彼女がこれから自分の過ちを認め、立ち直れるようならそういうことになる……かもしれない。
 だがそうでなかったら、俺は綾瀬由衣という人間をただ追い詰めただけになってしまう。 そこには天国と地獄ほどの差がある。
 
「秀一……綾瀬さんは、きみが思うほど強くない」
「それはわかってる。けど、素直で純粋だ。そこは桃子と一緒だな」
 
 綾瀬由衣と桃子、そして俺との共通点。この世でもっとも純粋で穢れのない人間は、おそらく桃子だろう。かたくななまでに俺だけを慕い、病的なまでに俺だけに依存していた。
 そう――俺は桃子に依存し、桃子は俺に依存していた。
 お互いに依存し合うという歪んだ関係。そんないびつな形で結ばれたのが、俺と桃子だった。
 そして俺と桃子、両方の共通点である「依存」というキーワードを持つのが、綾瀬由衣だった。純粋すぎるゆえに彼女は危うい――当然、桃子も同じく危うかった。
 
「秀一……」
 
 哲郎の瞳から、激情が消え去った。
 こいつなら、理解してくれるだろうと信じている。俺がなにを考え、どうしてあのような行動に出たのか。
 
「その前にまず、そろそろ降りてくれないか? この体勢は疲れる」
「あ? ……ああ。ごめん」
 
 哲郎は俺から降り、さっきまで俺が座っていた流木へ腰を下ろした。俺は砂まみれの体を払い、隣に座った。





光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~

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