ありとあらゆる感情や記憶が、鮮烈によみがえってくる。
桃子――最後の瞬間、俺のしあわせを願った彼女。最後の最後で彼女は悟ったんだ。自分たちが異常な関係であることを。お互いに依存し合う、歪んだ関係であることを。
――きみのいない世界で俺は、しあわせになっていいのか――?
ヴァイオリンの旋律を聴いていると、ついそんなことを思ってしまう。
「はぁっ――はぁ――」
やがて展望台に到着。そこには、唖然とするほど多くの人々が集っていた。人々が観客となって視線を向ける先は、ただ一点。
眼下に広がる天野宮の街並みを背景にして、ひとりの少女がヴァイオリンを弾いている。
楽しそうに。
嬉しそうに。
しあわせそうに。
彼女を見る人々も、もれなくその感情をプレゼントされている。綾瀬由衣の奏でる音楽がいま、たくさんの人々の心をひとつにしていた。
空間を圧倒的に支配する至高の旋律。それは、人が抱くありとあらゆる感情が、その音色を通じて完全に表現されているようだった。
時には力強く。
時には儚く。
時には陽気に。
そして、もはや言語で表すことのできない感情の流れ。それはもう、「歌」と表現しても過言ではない。
ヴァイオリンが歌っている。言葉よりも鮮明に、人の声よりも鮮烈に心に響いてきた。
心が洗われて不安が一気に払拭されるような、心地よい爽快感を覚える。これを聴いて感動しない人間など、存在しない――根拠もないのに、そう確信した。
ふと思う。
「綾瀬由衣」という音楽がいま、この空間を完全に支配している。
俺が一度は破壊した足場から、彼女は這い上がってきた。それどころか、さらなる進化を遂げて戻ってきた。
……これが、音楽。
感情の交差――人のぬくもり――触れ合い――これらを共有するということが、どれだけ大事なことなのか、俺は知っていた。
人のぬくもりやつながりからしか、音楽の感動は生まれない。俺はそれらの事実から目を背けていただけだ。
目を背けていたのは綾瀬由衣だけじゃなかった。
俺自身も、か。
「……はは」
文句を言うどころか、俺は彼女に感謝しないといけないじゃないか。
……わかった……やっとわかったよ桃子。
これが答えなんだ。
やがて――ゆっくりと歩むような速度で、ヴァイオリンの旋律が終わった。
役目を終えた音たちが、静かにその場から退散していく。俺は名残惜しさを、いつまでも感じていた。
そして、観客の中からまるで大爆発するような拍手が巻き起こった。それぞれ思い思いのやり方で、綾瀬由衣の演奏を絶賛した。
拍手や賞賛の怒号が響く中、俺はヴァイオリンを弾き終えた綾瀬由衣に近づいていく。
「立ち直った……みたいだな」
「うん。おかげさまでね」
綾瀬由衣――いや、綾瀬さんが答えた。
俺がここにいることを驚いてないってことは、俺がここにいてもおかしくないことを知っていることになる。
……哲郎め。絶対にあいつの差し金だ。覚えていろよ。
「ちゃんと来てくれてよかった。月城くんが聴いてなかったらどうしようかと思ってたんだ」
彼女の笑顔は、俺の邪心を振り払うほど美しかった。背景にある景色ですら、彼女の前では霞んでしまう。
「あんなに追い込んだのに、どうしてそんなにしあわせそうな表情で演奏できるんだ?」
「できるよ。だってわたし、ヴァイオリンが好きなんだもん」
「……好きって、そんなひとことだけで?」
「うん。それに気づけたのは、月城くんのおかげだよ」
俺は知らなかった。絶望の淵から立ち上がった人間が、ここまで素晴らしい表情をすることを。
「月城くん、このあいだ、ひっぱたいちゃってごめんなさい」
綾瀬さんは頭を下げた。
「それはもういいよ。俺が悪かったんだし」
もう済んだ話だ。俺は気にしない――そんな俺の雰囲気に気づいたのか、綾瀬さんはほっとしたような仕草を見せる。
「うん……あの、もうひとつだけ聞きたいことがあるんだけど……月城くんは、いまでもピアノ好き?」
もう、目を背けない。
「ああ。大好きだ」
本音だった。たぶん桃子は、俺のこの気持ちに気づいてしまったから、最後にあんなことを言ったんだろう。
……いままで気づかなくてごめんな、桃子。あの子のほうが、俺のことをわかっていたみたいだ。
「よかった」
嬉しそうな綾瀬さん。
「綾瀬さん」
「えっ――?」
俺は彼女を抱き寄せた。華奢な体が俺の腕の中に収まる。お互いの吐息を感じられるほどの距離。
彼女の体温が一気に沸騰したのがわかる。
周囲から黄色い歓声があがるのは気にしない。
「つ、月城くんっ!?」
「綾瀬さん、きみのおかげで、俺も気づいたことがある」
耳元で囁く。
戸惑いつつも、彼女は耳を澄ましてくれた。
「人のぬくもり……こんなに温かいものを、俺は桃子以外に知らなかった……いや、正確には知ろうとしなかった。世界は広いのに、狭い殻の中に閉じこもっていたんだ。その事実に気づくことができた。きみのヴァイオリンのおかげだ」
綾瀬さんはただ黙って、俺の言葉に耳を傾けている。
「でも、桃子――それが俺の『世界』のすべてだ。いまでも、桃子より大切なものは存在しない。これから先も、それは永久に変わらない」
覚悟を決めた。
たとえ次の言葉が、綾瀬さんの時間を止めることになっても。