景色が横に流れている。俺が乗ったタクシーは、海岸沿いの道路を走っていた。
右の窓からは堤防と、さらに奥にはテトラポットがある。この海岸は、俺がよくいるあの砂浜に続いているはずだった。
――桃子。
彼女は最後に、俺のしあわせを願った。それなら、俺のしあわせってなんだ?
俺は桃子のためにピアノを弾いていた。それを生きがいにしていた。桃子のためにピアノを弾くことは、俺にとって幸福なことだった。
けど、彼女はもういない。桃子のいない世界でピアノを弾くことに、どんな意味があるんだ?
そもそも、桃子のいない世界で、俺はどうしていつまでも生き続けているのだろう。
人のぬくもりがないと人は生きていけない――綾瀬さんのヴァイオリンは、人間の真理を俺に訴えてきた。
あのまま無言で彼女の唇でも奪っていれば、この物語はハッピーエンドで終わっていたんだろう。
でも、俺はそんなに素直じゃない。俺がずっと触れていたかったぬくもりは、もうこの世にいない。
最初から死ぬ以外の選択肢はなかったじゃないか。なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
窓の外に目を向けた。住み慣れた天野宮の景色も、これで見納めだ。
この街は俺の故郷だ。この街で俺は生まれ、桃子と出会った。
嗚咽をこらえる。けど涙はこらえきれなかった。
俺は桃子がいないと、どうしようもないほど弱いらしい。普段の俺は、ただ強がっているだけだ。
けれど、もうすぐ俺は彼女のところに行ける。
「――っ!?」
ふと、窓の外を歩いていた人物と目が合った。
その人物の進行方向はこのタクシーとは逆。つまり、すれ違いざまに一瞬だけ視線が交わった。
その人物は片手で携帯電話を耳に当てて、誰かと通話しているようだった。もう片方の手には花束が握られている。
品種はおそらく……桜草の花。桃子が好きだった花。
そして、俺と視線が交わるなり、怪訝そうな表情をしたその人物は――
「哲郎……?」
天宮哲郎に間違いなかった。進行方向と花束から察するに、桃子の墓参りに行く途中なのだろう。
タクシーのサイドミラーには、呆然と立ちつくす哲郎の姿が映っていた。それも徐々に小さくなり、カーブに差しかかったところで見えなくなる。
奇妙な心のざわめきを抱きながらも、俺は振り向くことをやめた。心配や予感といったものを一緒に乗せて、タクシーは邁進していく。