目が覚めて最初に見えた映像。
心配そうな眼差しで俺を見下ろす、ひとりの少女。
桃子ではなかった。
「あ……綾瀬……由衣……?」
「うん、そうだよ!」
「ここは……?」
俺の台詞に、綾瀬さんはいまにも泣き出しそうな表情になった。
「月城くん……」
俺は上体を起こした。背中についた砂が気持ち悪い。
周囲を見わたすと、すぐ背後に大きな流木があった。ということはこの場所はこの前、俺が哲郎に殴られたところとちょうど一致する。
おぼつかない足取りで立ち上がり、流木の上に座った。
綾瀬さんもやや戸惑いつつ俺に続き、隣に座った。彼女がいま、なにを考えているのか、その表情からうかがい知ることはできない。
会話がない。気まずい沈黙が落ちていた。波音だけが、虚しくふたりのあいだに漂っている。
「月城くん」
沈黙を最初に破ったのは、綾瀬さんだった。彼女のほうに顔を向けた。
「背中向けて」
「え?」
「いいから」
俺は戸惑いつつ、背中を向ける。
綾瀬さんは、俺の背についた砂を手で払ってくれた。やさしい手のぬくもりに、いままで忘れていた、どこか懐かしい感覚を思い出す。
「……手が汚れるぞ」
「気にしないよ」
それから会話が続かない。再び沈黙が落ちた。
「……クラウザー先生が言ってたことがあるの」
「え……?」
予想していなかった名前が唐突に出てきて、少し面食らった。綾瀬さんのほうへ振り向こうとしたけど、「そのまま聞いて」と止められた。
「クラウザー先生が、一度だけわたしに質問してきたことがあるの。月城くんのことで」
「俺?」
「うん。『シュウイチ・ツキシロのピアノがどうしてあそこまで人の心を打つことができるのか、ユイにはわかるか』って」
「……なんて答えた?」
「わからない……って答えた」
「わからない?」
「うん。あのときは本当にわからなかった。でね、逆に尋ねてみたの。その理由はなんですか、クラウザー先生は知ってるんですかって。……クラウザー先生は少し考えて、こう言ったの。『ツキシロ・シュウイチは世界中の誰よりも純粋だった――そういうことだ』って」
「……は?」
あの人が……俺を純粋だって?
「純粋」という言葉と「桃子」という名前はほとんど同義だと、俺の中の辞書には書いてある。
そんな言葉を、俺に?
「なあ、彼が本当にそう言ったのか?」
「うん」
「どういうことだ?」
「わたしもいままでわからなかった……でも、たったいま、その答えがわかった気がする。月城くんがみんなから天才って称されるその理由も一緒に」
読み切れなかった綾瀬さんの表情に、ある種の自信がみなぎった――彼女の顔は見えないけど、なぜかそんな気がした。
「答え……聞かせてもらってもいいか?」
「それはね――」
綾瀬さんの瞳が、俺を見つめているのがわかる。
「桃子というひとりの女の子だけを想って、月城くんはピアノを弾いていた。あなたはその純粋な想いを完全に、まったく余すところなくピアノの旋律に乗せることができた……だから月城くんのピアノは、人を例外なく感動させることができたんだよ。旋律に乗って届いてくる想いが、本物だったから」
綾瀬さんは語り続ける。
「本当に純粋な想いを乗せた旋律を紡ぎ出せるのは、その人が純粋以外のなにものでもないから――クラウザー先生が言いたかったことって、そういうことじゃないかな」
「…………」
「ふつうの人は、そんな演奏できないよ。自分の想いを乗せる演奏がどれだけ難しいのか、わたしの言葉じゃ表せないし……たぶん、ほとんどの音楽家がそんな至高の音楽を奏でられるように、日々努力してるんだと思う……そもそも、たったひとりのことだけを想い続けるって、実は並大抵のことじゃないよ? 家族とか友達とか仲間とか恋人とか、ふつうの人はある意味、人間社会の中で余計なしがらみにとらわれているから……そのしがらみにとらわれない月城くんは、誰も触れられない高みにいるあなたは……やっぱり天才なんだよ」
「俺は……そんな立派な人間じゃない」
たったひとりのために音楽をやっていた――聞こえはいいが、要するに利己心の塊だ。
「月城くん……」
綾瀬さんは、俺の背に体を寄せてきた。そして彼女の細い腕が、俺の体を包み込む。彼女のぬくもりが問答無用で伝わってきた。
「俺に……」
「……うん?」
「俺に……触れるな……っ」
つい、強い口調で出た拒絶の言葉。でも、俺は本当に拒絶しているんだろうか。それなら、頬を伝って流れ落ちる涙には、どんな意味があるんだろう。
そんな疑問をよそに、涙は止めどなく溢れ続ける。
「月城くん」
綾瀬さんは、俺を包む力を強めた。背中に接するやわらかいふたつの感触に、不覚にも心臓の鼓動が高鳴る。
「どうしてわざわざ、自分から冷たい場所に行こうとするの? あなたは、こんなにも温かいのに……似合わないよ」
綾瀬さんの声色は、いまだかつて俺が聞いたことのないほど、深く、慈愛に満ちていた。
「ち――違う……俺は」
「まだ、あなたは死にたいの?」
「――――っ――そ……れは」
俺は本当に死にたかったのか?
死は、最悪の逃げじゃないのか。
ひとりで未知の世界へ旅立とうとする桃子はどんな気持ちで、俺のしあわせを願ったのだろう。人生の最後に他人のしあわせを願うことがどれだけ勇気のいることか、俺は考えたことがあったか? それが桃子ならなおさら、想像を絶する決意があったはずだ。
そんな桃子の意思を、俺は。
踏みにじろうとした?
「月城くんは、もう……ううん、最初からひとりじゃなかったんだよ。天宮くんだっていたし、ほかにも見守ってくれてた人はいたんじゃないのかな」
哲郎。そういえばいままで忘れていたけど、あいつの姿が見えない。海の中で気を失う前、たしかにあいつの声を聞いたのに。
「あいつは……どこだ?」
「天宮くんは、タオルと着替えを用意しにどこかへ行ったよ。『目が覚めたら覚悟しておけ』って、去り際に苦笑しながら言ってた」
あいつらしい。
「あ……あとね月城くん」
少しだけ言いにくそうな綾瀬さん。俺の体を包んでいた彼女の腕が、さりげなく外された。
「これから先は……わ、わたしが、あなたのそばにいるのはだめ……かな?」
俺は振り向き、綾瀬さんと向かい合った。
涙を拭くのを忘れたが、もう遅い。
涙目になった情けない男の姿が、綾瀬さんの澄んだ瞳に映り込んでいる。
「わ、わたしは、あなたのことが……月城秀一くんのことが、ずっと好きでした。はじめて見たときからずっと」
「ど……どうして……俺なんか」
俺の声が震えているのは、心が震えているからだろうか。
「理由なんてないよ。ただ大好きなの。……月城くんも、桃子ちゃんのこと、そうだったんでしょ? わたしはよく事情を知らないけど、そんな気がする」
俺を見据える綾瀬さんの瞳は、哀しくなるほどまぶしくて、心が震えるほど美しかった。
そんな瞳で、見られたくない。
不意に――綾瀬さんの腕が、俺の頭を抱き寄せた。母親に抱きしめられたような、そんな幼い頃の懐かしい感覚が蘇った。
「一緒にいるから……わたしが」
そのひとことがきっかけだった。心のどこかに大きな亀裂が生じたような、鈍い音がした気がした。
それから感情の堤防――心を覆い尽くしていた強固な殻が決壊するまで、それほど時間はかからなかった。
いままで我慢していたぬくもりに触れ、奔流となる感情のうねり。
俺を包み込む綾瀬由衣。
恥も外聞もすべてを捨て、彼女の胸で慟哭した。