孤児院の中から、ピアノの音色が聴こえてきた。築数十年という木造建築の壁には、防音効果はほとんどない。だから明瞭に流れてくる。
透き通るようなピアノの音。
普段はそんなもの気に留めない。しかし桃子は、この旋律にいままでにない不思議なものを感じた。
「…………?」
そういえば、孤児院の先生が言っていた気がする。
今日は午後からピアノの演奏会があるから、遊びに出かけてもお昼までには戻ってくるように――そんなこと自分には関係ないから、すっかり忘れていた。
だからいままで自分は、施設の裏側でいつものようになにもすることなく、ぼーっとしていたのだ。
話しかけてもあまり反応を示さないから、最近では先生たちにも放っておかれることが多い。
桃子は、無意識のうちに旋律が流れてくる方向へ足を向けた。なにがそうさせたのかはわからない。ただ体が勝手に動いた。
庭に面した広い室内に、大勢の人々の気配があった。
桃子はそっと物陰から中の様子をうかがった。孤児院の子どもたちや職員などが集まり、部屋の奥のほうへ視線を向けている。
子どもたちは膝を抱えて座り、大人たちは子どもたちを囲むようにして傍らに立っていた。
そこは、わくわく広場と名づけられた、この孤児院の中心的な場所だった。時には食事をするための食堂となり、時には勉強するための教室となる。また、雨の日にはみんなでここに集まり、お絵かきや折り紙などで遊んだりもする。
みんなでわくわくしながら遊ぼう。だからわくわく広場――しかし、桃子にはなにが「わくわく」なのか、まるでわからなかった。
古いグランドピアノは部屋の奥に置かれている。集まったみんなが視線を向けているのは、そのピアノで間違いなかった。
桃子はつい、そのピアノから流れてくる音色に聴き入ってしまった。
どこかで聴いたことのある曲だった。ゆっくりと心地よく響いてくる調べは『パッヘルベルのカノン』という題名であまりにも有名な曲だったが、桃子が知るよしもない。
それから、何度か曲が変わった。
あらゆる雑念を忘れて、桃子は旋律が紡ぎ出す世界観へ没頭する。
はじめて聴く曲がほとんどだった。
時間が経つのを忘れていた。
はじめての感覚に戸惑っていることすら、やがて忘れていった。
空気を震わせて響くその旋律に、桃子は言葉に表せない未知の感覚を抱いていた。
空間に響きわたるピアノの旋律。それは地球の裏側にいても聴こえてきそうなほど、神聖で澄みきった調べだった。
その旋律が、少女の中に眠る未知の感情を呼び起こす。
楽しいこと。
嬉しいこと。
悲しみや切なさも。
そして、しあわせ――幸福ということ。
いままで感じたことのなかったありとあらゆる感情が、ピアノの旋律に喚起されて産声をあげた。
少女の内面で感情の波がうねり、激しい奔流となっていく。
旋律が転調するのに合わせて、その波も次から次へと形を変えた。
桃子にとって、それは本当の意味で未知なる感覚だった。感情を抱くという気持ちを、心が動くという情感を、桃子はこの瞬間まで知らなかった。そして、ピアノがここまで神秘的な音を奏でるということも知らなかった。
音を鳴らす楽器のひとつ――そのような認識しか持ち合わせていなかった。
でも、この音は違う。なにかが決定的に違う。
そう――これは。
ただの音ではない。
光だ。
音は光に変換されて、桃子の全身をやさしく包み込む。温かい光。希望に満ちた光。
それは桃子がいままでずっと触れたくて、それでも触れることができなかったものだった。
「――――ぁ」
桃子の頬を、熱いものが流れる。
ひとすじの涙。止めどなく溢れてくる想い。
自分がどうして涙を流しているのか、理解できなかった。
たしかなのは、喜怒哀楽を超越したなにかが、ピアノが紡ぎ出す旋律を通じて、心を揺さぶっていることだけ。
やがて――
最後の一音が響いた。その音は空気に霧散していく。ゆっくりと歩くような速さで、静かに消えていった。
まもなく訪れたのは静寂。空間を支配したのは、狂おしいほどに切ない静謐だった。
時間が止まった――少なくとも桃子にはそう感じられた。
ピアノの演奏を聴いていたのは一秒だったのか、それとも数時間だったのか。まったく判断できないほどの奇妙な感覚。
「――っ」
ああ……やだよ……
もう終わりなの?
――もっと聴いていたい。
――ずっと聴いていたい。
――わたしのためだけに弾いてほしい。
――わたしのことだけ見ていてほしい。
桃子の心の深層に、淡い願望が生まれた。
桃子が呆然としてるうちにピアノの弾き手が椅子から立ち上がり、観客と向かい合う。
桃子は驚きを隠せなかった。
ひとりの少年。幼い顔立ち――この少年が、いまままでピアノを弾いていた。どういうわけか、いまこの瞬間までまったく気づかなかった。
少年は優雅に一礼。
そのとき、頭を上げた少年と、桃子の視線が交わる。
少年の瞳は、桃子がいまだかつて見たこともないほど澄んでいた。純粋で屈託のない表情も、いままで想像すらしたことがない。
少年は桃子を見て、不思議そうな表情を作る。
桃子は少年の瞳に、自分のすべてを見透かされるような感覚を抱いた。
「――っ!?」
やがてなにかが「怖く」なり、桃子はその場から立ち去った。
なにが怖いのかわからない。そもそも「怖い」という表現も的確かどうかわからない。
少年と目を合わせていたのはほんの一瞬だ。しかし桃子には、それが永遠とも感じられるほどの奇妙な感覚だった。
このとき、少年――月城秀一と、のちに月城桃子という名になる少女が、運命の邂逅を果たした。