間奏曲 ― Interlude ― 02

 孤児院の中から、ピアノの音色が聴こえてきた。築数十年という木造建築の壁には、防音効果はほとんどない。だから明瞭に流れてくる。
 透き通るようなピアノの音。
 普段はそんなもの気に留めない。しかし桃子は、この旋律にいままでにない不思議なものを感じた。
 
「…………?」
 
 そういえば、孤児院の先生が言っていた気がする。
 今日は午後からピアノの演奏会があるから、遊びに出かけてもお昼までには戻ってくるように――そんなこと自分には関係ないから、すっかり忘れていた。
 だからいままで自分は、施設の裏側でいつものようになにもすることなく、ぼーっとしていたのだ。
 話しかけてもあまり反応を示さないから、最近では先生たちにも放っておかれることが多い。
 桃子は、無意識のうちに旋律が流れてくる方向へ足を向けた。なにがそうさせたのかはわからない。ただ体が勝手に動いた。
 庭に面した広い室内に、大勢の人々の気配があった。
 桃子はそっと物陰から中の様子をうかがった。孤児院の子どもたちや職員などが集まり、部屋の奥のほうへ視線を向けている。
 子どもたちは膝を抱えて座り、大人たちは子どもたちを囲むようにして傍らに立っていた。
 そこは、わくわく広場と名づけられた、この孤児院の中心的な場所だった。時には食事をするための食堂となり、時には勉強するための教室となる。また、雨の日にはみんなでここに集まり、お絵かきや折り紙などで遊んだりもする。
 みんなでわくわくしながら遊ぼう。だからわくわく広場――しかし、桃子にはなにが「わくわく」なのか、まるでわからなかった。
 古いグランドピアノは部屋の奥に置かれている。集まったみんなが視線を向けているのは、そのピアノで間違いなかった。
 桃子はつい、そのピアノから流れてくる音色に聴き入ってしまった。
 どこかで聴いたことのある曲だった。ゆっくりと心地よく響いてくる調べは『パッヘルベルのカノン』という題名であまりにも有名な曲だったが、桃子が知るよしもない。
 それから、何度か曲が変わった。
 あらゆる雑念を忘れて、桃子は旋律が紡ぎ出す世界観へ没頭する。
 はじめて聴く曲がほとんどだった。
 時間が経つのを忘れていた。
 はじめての感覚に戸惑っていることすら、やがて忘れていった。
 空気を震わせて響くその旋律に、桃子は言葉に表せない未知の感覚を抱いていた。
 空間に響きわたるピアノの旋律。それは地球の裏側にいても聴こえてきそうなほど、神聖で澄みきった調べだった。
 その旋律が、少女の中に眠る未知の感情を呼び起こす。
 楽しいこと。
 嬉しいこと。
 悲しみや切なさも。
 そして、しあわせ――幸福ということ。
 いままで感じたことのなかったありとあらゆる感情が、ピアノの旋律に喚起されて産声をあげた。
 少女の内面で感情の波がうねり、激しい奔流となっていく。
 旋律が転調するのに合わせて、その波も次から次へと形を変えた。
 桃子にとって、それは本当の意味で未知なる感覚だった。感情を抱くという気持ちを、心が動くという情感を、桃子はこの瞬間まで知らなかった。そして、ピアノがここまで神秘的な音を奏でるということも知らなかった。
 音を鳴らす楽器のひとつ――そのような認識しか持ち合わせていなかった。
 でも、この音は違う。なにかが決定的に違う。
 そう――これは。
 ただの音ではない。
 光だ。
 音は光に変換されて、桃子の全身をやさしく包み込む。温かい光。希望に満ちた光。
 それは桃子がいままでずっと触れたくて、それでも触れることができなかったものだった。
 
「――――ぁ」
 
 桃子の頬を、熱いものが流れる。
 ひとすじの涙。止めどなく溢れてくる想い。
 自分がどうして涙を流しているのか、理解できなかった。
 たしかなのは、喜怒哀楽を超越したなにかが、ピアノが紡ぎ出す旋律を通じて、心を揺さぶっていることだけ。
 やがて――
 最後の一音が響いた。その音は空気に霧散していく。ゆっくりと歩くような速さで、静かに消えていった。
 まもなく訪れたのは静寂。空間を支配したのは、狂おしいほどに切ない静謐だった。
 時間が止まった――少なくとも桃子にはそう感じられた。
 ピアノの演奏を聴いていたのは一秒だったのか、それとも数時間だったのか。まったく判断できないほどの奇妙な感覚。
 
「――っ」
 
 ああ……やだよ……
 もう終わりなの?
 ――もっと聴いていたい。
 ――ずっと聴いていたい。
 ――わたしのためだけに弾いてほしい。
 ――わたしのことだけ見ていてほしい。
 桃子の心の深層に、淡い願望が生まれた。
 桃子が呆然としてるうちにピアノの弾き手が椅子から立ち上がり、観客と向かい合う。
 桃子は驚きを隠せなかった。
 ひとりの少年。幼い顔立ち――この少年が、いまままでピアノを弾いていた。どういうわけか、いまこの瞬間までまったく気づかなかった。
 少年は優雅に一礼。
 そのとき、頭を上げた少年と、桃子の視線が交わる。
 少年の瞳は、桃子がいまだかつて見たこともないほど澄んでいた。純粋で屈託のない表情も、いままで想像すらしたことがない。
 少年は桃子を見て、不思議そうな表情を作る。
 桃子は少年の瞳に、自分のすべてを見透かされるような感覚を抱いた。
 
「――っ!?」
 
 やがてなにかが「怖く」なり、桃子はその場から立ち去った。
 なにが怖いのかわからない。そもそも「怖い」という表現も的確かどうかわからない。
 少年と目を合わせていたのはほんの一瞬だ。しかし桃子には、それが永遠とも感じられるほどの奇妙な感覚だった。
 このとき、少年――月城秀一と、のちに月城桃子という名になる少女が、運命の邂逅を果たした。





光紡ぐ神の旋律 ~ Melodies of Memories ~

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