部屋の中には桃子ひとりしかいなかった。
二段ベッドが三つほど置かれた子ども部屋。それほど広くはないが、寝るだけなら体の小さな子どもたちには充分だ。
時刻は昼過ぎ。
ここを寝床にしている子どもたちはみな昼食を終え、外で遊んでいる。寝るぶんには充分とはいえ、遊び盛りの子どもたちがこの部屋を居城にして遊ぶにはいささか狭すぎるからだ。
それでも桃子は、ひとりでここにいた。部屋のいちばん奥にあるベッドの下段に、首まで布団に覆われた桃子の姿がある。
苦しそうな呼吸。紅潮した頬。焦点のはっきりしない瞳。額に乗せられた濡れタオルは、もうだいぶ温かくなっている。
桃子は体が弱かった。
いつも忘れた頃に熱を出し、こうして寝込んでしまう。この孤児院に来てから何度目だろう。それは桃子本人も、孤児院の職員すら正確には把握していなかった。
付き添いは誰もいない。職員の先生は十数分前に一度だけ様子を見にきて、額の濡れタオルを交換したあと、忙しそうにしながら立ち去っていった。
無言で上段ベッドの裏側を見つめる。
耳を澄ますと、外で遊ぶ子どもたちの声が聞こえてくる。
――もーいいかい――まあだだよ――もーいいかい――もーいいよ――
――うわあ、逃げろ――くそう、逃がさないぞ――へへん、逃げるが勝ちなんだよ――ちくしょう、待てぇっ――
――うわぁん、せんせー――どうしたの? ――くんが、あたしのこといじめるの――もう、だめでしょ――あっかんべぇー、ばいばいきーん――あ、こら、ちょっと待ちなさいっ――
かくれんぼや鬼ごっこ。逃げまわる子に追いかける子。泣き喚く子に、悪戯っ子を叱る先生。
あれは、なに?
どうしてみんな、わらったりないたりおこったりするのかな。
ねえ、だれか。
だれか、おしえて。
わらうって。
なくって。
おこるって。
なに?
わかんないよ。
「ぅ……うぅ」
もしこの場に誰かいたら、それは桃子が熱のためにうなされていると考えただろう。しかし、このうめき声は、もっと深層からの――心からの叫び声だった。
欠落した感情。
桃子は感情を知らない。自分の気持ちがなんのか、言葉で表すことも、表情で伝えることもできない。だからいま、自分がなぜうめいたのかもわからない。
寂しいのか怖いのか、寒いのかつらいのか哀しいのか。
あるいはその全部か。
なにもかもすべて、桃子にはわからなかった。
「うぅ……うあああああぁっ!」
叫んでも、なにを伝えたいのか。
そもそも、「伝える」とはなにか。
空っぽの心。
それでも、意味もわからず涙が溢れてくる。
感情が欠落した桃子が唯一だけ知る表現方法。
涙。
止めようと思っても溢れてくる。気がついたらいつも、自分は涙を流して泣いている。 でも、なぜ?
わからない。
「…………うぅ……」
徐々に落ち着いていく。それと比例するように睡魔が訪れた。まぶたが重くなり、意識がまどろんでいく。
かち、かち、と部屋のどこかにある時計の針だけが、桃子をやさしく包む。ほかの音はいっさい聞こえなくなった。
――だが、そのとき。
がちゃ、というドアを開ける音がした。
部屋に誰かが入ってきた。まどろんでいた意識が、少しだけ現実へ連れ戻される。足音からしてひとりではない。だんだんとこちらへ近づいてくる。やがて、足音が自分のベッドの近くで止まったことに気づいた。
誰かが立っている。
……だぁれ?
桃子は胡乱な瞳をその誰かに向ける。
おぼろげな輪郭は、この孤児院の職員に違いなかった。さっき自分の額に濡れタオルを置いてくれた若い女の人。ほかのみんなは先生と呼んでいるが、桃子はそう呼んだことはない。
先生が自分になにか話しかけているのがわかる。でも、意識が混濁してよく聞き取れなかった。断片的な情報しかわからない。
桃子は、先生が言っていることをわかる限りで反芻した。
――桃子ちゃんにね――お客――わざわざ――ピアノ――覚えてる?
ある単語だけがしっかりと桃子の耳に届いた。
ピアノ。
同時に、とある少年の顔を思い出した。ピアノを弾いていた少年。あんなに心に残った人が現れたのは、生まれてはじめてだった。
心が空っぽであるはずの自分が、いつまでも覚えていたいと、なぜか思った。
また、あのピアノを聴きたいなと思った。
ふと、先生の隣にいるのは誰だろうと、視線を向けた。
立った姿は小さくて、背丈は自分と同じくらいだった。黒髪は短く切りそろえられている。
……おとこのこ?
「……あ」
先生の隣にいる子と、あの少年の姿が重なった。
澄んだ眼差し。純粋で屈託のない表情。
間違いなく、あの少年だった。まっすぐかつ純粋な瞳で、桃子を見つめている。
桃子と目が合うと、少年はにっこりと微笑んだ。
「ももこ……ちゃん」
照れくさそうに、名を呼んだ。
そのとき、桃子の熱を帯びた体が一瞬だけ震えた。
なまえ。
ももこ。
わたしの……なまえ。
そのあとすぐ、先生はまた忙しそうに部屋を出ていった。やらないといけない仕事があるらしい。
少年にひとこと、「よろしくね」とだけ言っていた。
部屋には桃子と少年だけが残される。
「ぼくのこと、おぼえてる?」
少年は尋ねてきた。
突然のことに困惑しながらも、桃子は、小さくうなずいた。
「よかった」
少年はまたにっこりと微笑んだ。
それを見て桃子は、体温がぐんと上がったような感覚を抱いた。
ああ、もっと――
「ねえ、かぜひいちゃったの?」
桃子は弱弱しく首を横に振った。
「ちがうの?」
こくり、と桃子はうなずいて答える。
ただの風邪ではない。じゃあなにかと問われても、詳しくはわからない。もし知っていたとしても、桃子には的確な答えを伝える能力はなかった。
少年は、桃子の額に乗せられた濡れタオルをどかし、自分の手のひらを置いた。
「――っ!?」
桃子の体はさっき以上に震える。
その様子を、少年はまったく気にすることがない。ただ、そうすることが当然のような動作だった。
「おねつあるね……つらい?」
桃子の体に電撃が走った。
温かい手のひら。
温かい。
ぬくもり。
人の体温。
やさしい声。
「う……ふわぁ……あぁ……」
また涙が溢れてきた。嗚咽も止まらない。
これにはさすがの少年も驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻った。
「……ねえ、もしかして……さびしかった?」
びくっと、桃子はまた震えた。
どうしてさっきから震えてばかりなのか、やはりわからない。
「でもね、もうだいじょうぶだよ」
少年は桃子の涙をやさしく拭った。
温かい手がなによりも心地いい。
少年のピアノを聴いたときと同じ、未知の感覚が桃子を包む。
ああ、もっと……もっと――っ!
「ぼくね、つきしろしゅういちっていうんだ。よろしくね」
「……しゅう……いち」
「そう。しゅういち」
「しゅう……しゅう……ちゃん」
「しゅうちゃん?」
桃子は秀一を指差した。
「……うん……しゅうちゃん」
「しゅうちゃんか……ま、いいや」
「……ももこ」
「え?」
桃子は自分を指差す。
「ももこ……な……なまえ」
「うん。ももこ。しってるよ。さっきいたせんせいにおしえてもらったから」
名前をまた呼ばれた。名前を呼ばれたのは、いまが決してはじめてではない。でも、目の前の少年にだけは、ほかの人とは違う響きがあった。
桃子は無意識のうちに、秀一に向かって手を伸ばした。
触れたい。
ぬくもり。
そして。
秀一の手が桃子の手をそっと包み込む。
「――あ」
「あれ。おねつあるのに、おててはつめたいね」
秀一の手はなによりも温かく、なによりもやさしく、綺麗で繊細だった。
「ああっ……うああぁあっ……!」
「えっ、ど、どうしたの……?」
いままで抑えていたすべての感情が、心の叫びが自分の外へと向かった。このとき、はじめて桃子の感情が躍動した。
光。
桃子は光に包まれた。
いままでどうしようもないほど強く求め、でも触れることができなかった、人のぬくもりという名の光。
人のぬくもりに触れるしあわせを、桃子は生まれてはじめて知った。
そして、ふたりの運命が完全に交錯した瞬間だった。