Interlude02-3

 生肉を咀嚼する音だけが、不気味に響いていた。時折、骨をかみ砕く鈍い音も混ざる。
 空は狭く、遠い。雑居ビルに囲まれたその場所は、夜空の星々も、都会の煌々とした光もほとんど届かない。
 暗闇の中、その「様子」を眺める一対の瞳があった。
 六十代前後の男性。頭髪は薄く、肌はお世辞にもきれいとは言えない状態。彼は表情に、どんな感情も浮かべていなかった。瞳には光がまったくなく、虚空が満ちている。
 それもそのはず――
 彼の首は体から数メートル離れた地面に、無造作に転がっているからだ。
 男性はこの路地裏に住むホームレスだった。彼が「それ」の存在に気づく頃にはもう、首は胴体から離れて宙を舞っていた。おそらく、自分が事切れたということを認識することなく逝ったのだろう。
 ――不意に。
 咀嚼音が止まった。男性の体を食べていた「それ」の動きが止まる。
 次の瞬間、昼間のような明るさが照らした。
「それ」が、どの生物にも似つかない悲鳴のような金切り声をあげる。頭を抱え、もだえ苦しんだ。
 近づいてくる足音。ひとりやふたりではない。
 
「やっと見つけたよ」
 
 若い男性の声。この戦慄すべき状況下で、どこか楽しそうな響きが声に含まれていた。 彼は長身を白衣で包んでいる。下はブルーのワイシャツにページュのスラックス。医者というよりは、爽やかな理科教師のような雰囲気。
 
「光に弱いのは本当らしいな」
 
 今度は女性の声。腰に日本刀を携えている。前を見据える眼光は、抜き身の刀身のように鋭い。すみれ色の長髪をひもを用いて後頭部でまとめ、現代の意匠が施された独特の和装束を身につけていた。
ふたりは「それ」から10メートル以上離れたところで歩みを止めた。彼らの後ろには、十数人ほどの戦闘集団が控えている。集団は一様に紫色のパワードスーツで身を固め、顔はフルフェイスの戦闘用ヘルメットを装着していた。肌の露出はまるでなく、体のおうとつも限りなく隠されている。少なくとも、上から見ただけでは性別はわからない。
 熱量をともなった無数の光が、「それ」を照らした。雑居ビルの屋上にいつの間にか設置され、お辞儀するように下に向けられたサーチライトの光だ。
 
「思ったより不細工だねぇ」
 
 若い男性――田中剛が残念そうにつぶやく。
 
「それ」が、田中を威嚇するように構えた。
 全長2メートル強。手が異様に長く、足は短い。体はずんぐりとしていて、限りなく黒に近い紫色の体毛に覆われている。長く伸びた両手の爪は、真っ赤な鮮血がこびりついていた。
 ぎょろっとした眼は濁ったワインの色だ。奇妙なことに、左右で大きさと位置が違った。というより、そもそも頭の形がおかしい。頭の右半分が腫れたように膨れている。口も不自然に肥大化し、オニキンメのような巨大な牙が並んでいる。血と肉片がこびりつき、凶悪な様相に拍車をかけていた。
 
「受精卵に用いた精子はおまえのものだろう。父親としてどんな気分だ?」
 
 にやりとしながら女性が言う。
 
「そう言われると、立つ瀬がないんだけどねえ」
 
 さらにがっくりとうなだれる田中。
 
「こいつはなんて呼称すればいい?」
「んー……とりあえず、『異種生命体』かな」
「おもしろみのない名前だな。息子だろ。……いや、娘?」
 
 彼女は異種生命体の股間を見つめるが、体毛が濃く性別を判断する「もの」を見極めることができなかった。
 
「もう勘弁してくださいよ。とりあえずお仕事頼むよ、海堂の姐さん」
「ふん――」
 
 女性――海堂霞が、日本刀を抜く。
 それとほぼ同時だった。
 異種生命体とたったいま命名された「それ」が、足を強く踏み出す。その巨体に似合わない速度で、間合いを詰めてくる。
 狙いは田中だった。彼の胸もとめがけて、血塗られた爪を繰り出す。
 しかし、接触まで1秒を切ったとき――
 
「短い足で頑張るね」
 
 田中の声が、異種生命体のすぐ背後から聞こえた。異種生命体は反射的に、振り返りざまに声のしたほうへ腕を振るが、空振りに終わる。ここでもすでに田中の姿は消失していた。
 一瞬だけ逡巡するような様子を見せる、左右非対称の眼。
 ――突然、異種生命体の背が蹴られ、大きく体勢を崩す。
 いつの間にか死角に立っていた田中が、無防備だった異種生命体の隙を突いたのだった。
 体勢を立て直す前に、風切り音が奔る。
 非の打ちどころのない完全な動作で振り下ろされた霞の日本刀が、異種生命体の左腕を肩から斬り落とした。暗黒を溶かしたような血液が噴き出す。
 耳をつんざくような悲鳴をあげ、異種生命体はふたりから素速く距離をとった。
 
「肉弾戦は苦手なんだ。僕を狙うのは勘弁してよね」
 
 ふざけるな、とでも言うように霞は田中を睨みつけた。異種生命体の攻撃を軽やかにかわし、簡単に背後に立つことができる男のどこが「肉弾戦は苦手」なのか。しかし、この緊張感に欠ける男に、そんな愚痴を言っても意味がないのは霞も知っていた。
 
「おや……?」
 
 田中の眼光に、ここにきてはじめて真剣さが宿った。彼の視線は、異種生命体の肩口に吸い寄せられている。霞に斬り落とされた部分だ。
 血は止まり、傷口はすでにふさがっている。さらに傷口の細胞が沸騰したように脈打つ。
 田中は地面に転がっている男性の首に一瞥をくれた。
 
「食事後間もないから、再生に必要なエネルギーは充分か。姐さん、早く無力化してくれ。僕も手伝うから」
 
 田中が白衣のポケットから取り出したのはスマートフォン。
 
「そんなものでどうするつもりだ?」
「肉弾戦は苦手だけどね、ここを使うのは得意なんだ」
 
 田中は自分の頭を指さした。そして、その指でスマートフォンの画面をタップ。すると、すぐに異種生命体に変化が訪れた。
 巨体が痙攣し、口から泡が吹き出す。しばらくすると地面に倒れ、そのまま苦しみもがいている。
 よく見ると、異種生命体の背中に小型の機械が取りつけられていた。
  
「……先ほど接触したときか?」
 
 霞は目を細めた。
 
「そう。小型の電気発生装置を、蹴り飛ばしたときにね」
 
 ちゃんと効果があってよかった、と田中は付け加えた。
 ゆらり、と霞が異種生命体に近づいていく。当然、刀身に宿らせた殺意と戦意は失わせないままだ。
 間合い内で立ち止まると、異種生命体が威嚇の声をあげる。が、電気はずっと体中を蹂躙しており、満足に動くことができない。
 無防備なまな板の上の魚を切るのに、なんのおもしろみも感じないが――霞は内心、そんなことを考えていた。しかしこれも仕事の一環だと我慢する。
 
「――はっ」
 
 なんの躊躇もなく、刀を振り下ろした。
 一合――異種生命体の右腕を斬り落とす。
 二合、三合――目にもとまらぬ速さで刀を振るい、両足を切断した。
 異種生命体がこの世の終わりを告げるような断末魔をあげる。その迫力に、田中の背後に控えていた戦闘集団がややひるんだ。
 やがて、布きれで刀身を拭いながら、心底つまらなそうにして戻ってくる霞。
 
「姐さん、ご苦労さま。――そいじゃあ、例のあれを頼むよ。ごらんのとおり、やつはもう無効化されているから、近づいても大丈夫。ああでも、牙には注意ね」
 
 田中は後ろの連中に言った。
 戦闘集団は、統率された動きで異種生命体に近づいていく。先頭を歩く数人には、それぞれ機械が持たされていた。
 まずは大きな注射器で筋弛緩剤を注入し、動きを完全に止める。薬が効いたのを確認すると、その巨躯を数人がかりで起こし、口を完全にふさぐマスクを装着させる。生まれてからもっとも無防備になったであろう姿は、どこか痛々しい。
 やがて、ひとりが慎重に金属製の首輪を取りつけた。首の後ろ側には髪の毛ほどの太さの針が存在し、自動的に伸びて脊髄に至る。
 神経に異物が侵入してきた異種生命体の体がこわばるが、電気が走っている上に筋肉が弛緩しており、悲鳴をあげることすら叶わない。代わりにマスクの隙間からとてつもない異臭を放つよだれが延々と流れ出し、近くで作業している連中は吐きそうになった。
 
「……ふむ。やはり視神経に異常があるみたいだね」
 
 スマートフォンを眺めながら、田中が言った。画面には記号や英数字の羅列が次々を表示されている。異種生命体の脊髄からリアルタイムで流れてくる遺伝子情報だ。
 
「おそらくは胎児のときに突然変異が生じて、強い光、特に紫外線を含む太陽光が苦手になったらしい。こいつが昼間に動いた形跡がないのと、自販機とか街灯を壊したのもそのためだろうね。要するに夜行性」
「得意げに言っているが、そんな使い物にならない状態のまま『納品』してみろ。叩き斬るからな」
「わかってるって。ちゃんと調整するから――」
 
 と、田中が言いかけた瞬間、どぼっ、ぐちゃっ、などという鈍い音が周囲に響いた。
 異種生命体にもっとも近づいていた数人の上半身が、そこにはなかった。あるのは、おびただしい量の血液が切断面から吹き出ている下半身のみ。
 異種生命体の両腕が復活していた。ただし完全にもとどおりというわけではない。新しく生えてきた腕は紫色の肌が露出し、元々のものと比べるとか細い。産毛が薄く生えているだけで毛はほとんどない。しかし爪だけはほぼもとどおりで、パワードスーツごと人体をなぎ払った証拠に、新鮮な血のりが滴っていた。
 上体だけが起き上がった状態で、腕を振る反動だけで次々と人体を切り裂いた事実。その膂力は誰も予想していない領域に達していた。
 悲鳴が次々とあがり、混乱状態に陥る。
 
「一気に腕だけ再生……? へえ、これは予想外だ」
 
 冷静に状況を見極める田中とは裏腹に、霞は激しく舌打ちをする。
 
「人手不足なのは知っているだろっ」
 
 叫びつつ、抜刀。
 戦意を失った集団は引き下がる。パワードスーツが意味を成さないのはすでに証明されている。もちろん彼らは戦闘訓練を受け、全員銃器を所持しているが、そんなものを冷静に構えている余裕はなかった。
 胴体よりも長い腕を器用に使い、雑居ビルの壁に向かっていく。非常階段の錆びた柵に手をかけ、懸垂の要領で上にのぼる。
 ここでやっと冷静さを取り戻した戦闘集団が、一斉射撃を加えた。しかし弾が命中しても、動きを止めるまでにはいたらない。
 またたく間にビルの半分ぐらいまで到達。
 霞が動く。
 ほとんど音を立てずに疾走し、非常階段の柵に跳び乗る。その勢いを殺さないうちに、今度は反対側にあるビルの壁に向かって跳躍した。
 三角飛びの要領で、異種生命体に迫る霞。
 抜刀し、跳躍の勢いを乗せた斬撃を繰り出す。狙うは腕。足がまだ再生してない以上、腕さえ再び斬り落とせば動きを封じることができる。
 足場の悪い状況でも、霞の狙いは正確無比だった。
 
「――っ!」
 
 再生した腕に刃が弾かれる。バランスを崩した霞は非常階段の踊り場に転がり込んだ。即座に体勢を立て直したが、異種生命体はもう近くにいない。
 異種生命体は膂力だけで反対側のビルの側面に飛び移り、霞と同じく三角飛びで加速度的に上昇していた。
 霞は非常階段を駆けのぼった。
 ガラスの割れる音が連続で響き、光量が減る。屋上に設置していたサーチライトが破壊される音だ。
 霞が屋上にたどり着いた頃には、異種生命体の姿は、はるか遠くに見えた。やはり腕の力だけで跳躍を繰り返している。サーチライトを設置した役目の面々が、その光景を呆然と眺めていた。
 
「再生した腕、斬り損ねたみたいだね」
 
 いつの間にか背後に立っていた田中。自分がまるで認識することもなくこの場にやってきたことに、霞は本日何度目かの舌打ちを打った。
 
「再生して強度が増したのかな。ということは、下手に攻撃を加えると、やっこさんの防御力はどんどん上がるね。薬も予想よりはるかに効果継続時間が短かった。体内で抗体でも作ったのかな」
「貴様……なにもしなかったな?」
 
 再び電撃を与えるなりすれば、動きを止められたはずだ――霞の視線に殺意が混じる。
 
「いやあ、僕としたことが、突然のことにびびっちゃってね。うっかりしてたよ」
 
 けらけら笑いながらそんなことを抜かす田中に、霞はいますぐその首を刎ねたい気分になる。
 
「わざと逃がしたな?」
「まさか、そんなことは」
 
 大仰な仕草で首を振る田中。彼の表情には相変わらず、どこか楽しげな感情が含まれていた。
 
「ほら、予想どおりになるってつまらないじゃない。自慢じゃないけど、僕の人生って99パーセント予想どおりなんだよ。今回は残りの1パーセントのほう。いまの状況のほうがよっぽどわくわくするよね」
「…………」
「まあ大丈夫だよ。やつの居場所は首輪が発信してくれるし、あれはそう簡単に外せる代物じゃない。これからもいろいろと興味深いデータを送ってくれるでしょう。捕獲して研究するよりよっぽど楽しい……じゃなかった、ためになるデータをね」
 
 くっくっく、とせせら嗤う。
 ろくでもないやつと組んだものだと、霞はあらためて実感した。
 
「死者が出たぶんは、貴様の報酬から差し引いておく」
「え、あ、それはちょっと困る。これから整形するのに、先立つものが」
「知ったことか」


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