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 毎日毎日、どこかでたくさんの人が死んでいる。
 昨日は高齢者が運転する車が暴走して、数人の子どもを轢き殺したらしい。今日はどこぞの雑居ビルが火災に見舞われ、何人か焼け死んだとか。よく覚えてないけど、一昨日もなにか事件があった気がする。
 明日もたぶん、どこかで誰かが死ぬのだろう。
 理不尽な理由で。
 現実はいつも理不尽で無慈悲だ。そんな代わり映えのしないニュースを垂れ流すテレビを見つめながら、僕になにかできることはないかとぼんやりと考える。
 すぐに結論が出た。
 僕には関係がない。
 被害者は気の毒だと思うけど、僕が嘆き悲しんだところでどんな意味があるのだろう。そこで考えることをやめて、テレビを消した。途端、リビングが静寂に包まれる。
 いや、違った。隣室から女性の声が聞こえてくる。
 どうやら喘ぎ声のようだ。
 挨拶すらしたことないけど、隣室はたしか僕より年下――二十代前半の男性が住んでいたのは知っている。きっと彼女でも連れ込んでいるのだろう。このアパートの壁は薄いと悪名高い。だからもう何度か同じようなことが起こってる。
 僕は少々うんざりとしながら、リビングとつながった寝室へ足を向けた。ベッドに寝転がり、枕もとに置いてあったライトノベルを手に取った。
 やがて、隣人の喘ぎ声が最高潮に高まったかのように響いてくる。どうやら絶頂を迎えたらしい。よほど気持ちよかったのか、男の喘ぎ声のようなものまで聞こえてきた。ほどなくして静かになる。
 やれやれとため息を吐きながら、僕は続きを読む。小説は好きだけど、この手のものはほとんど読んだことはない。本屋で見かけて、なんとなく気になったから買ってみた。
 結論から言うと、信じられないくらいつまんなかった。冒頭から薄々感じていたけど、3分の1ほど読んだところでギブアップ。その本をゴミ箱に投げ捨てる。まるで僕の人生のようだな、などと益体もないことを考えながら。
 不意に隣人の喘ぎ声が再開した。2回戦目に突入したらしい。
 ため息を吐きながら、僕はベッドから降りた。ベッドの横にはパソコンデスクが置いてある。その上にはモニターがふたつ並んでいて、パソコン本体はデスクの下。安っぽいオフィスチェアに座り、パソコンのスリープ状態を解除し、インターネットブラウザを立ち上げる。
 ブックマークからYouTubeにアクセスして、トップページにリンクされた動画を適当にクリック。
 ベートヴェンの第九が流れてきた。大昔のオーケストラの映像のようだ。演奏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。
 どちらもよく知らなかった。まあ、喘ぎ声をかき消せるのならなんでもいい。
 第九の壮大な音楽を貧相なスピーカーで聴きながら、ポータルサイトの記事をひととおり眺める。その後、お気に入りのまとめサイトに移動。読む意味も価値もほとんどない、情報の海のゴミを惰性のように読み続ける。
 僕はいったいなにをしているんだろう。
 記事は特におもしろくなかった。光速で忘れ去るようなどうでもいい情報のかたまり。
 40分以上もそんなものを揉み続けるとさすがに飽きてきて、いつの間にかエロ漫画を無料で公開しているサイト(違法)に移動していた。
 山奥で遭難した男が、同じように遭難した女性と出会う。どうせ助けなど来ないと嘆く女性を、男性が必死に言葉で慰める。それだけでは足りず、やがて体を使って慰め合うというストーリー。画風に癖があるけど、本番のシーンはそれなりにエロかった。
 だから、いつの間にか手もとにティッシュ箱を引き寄せていた。
 ズボンと下着を半分ほど脱ぐ。モニターの後ろにある窓から茜色の光が差し込んでいて、そそり立つ僕のそれを明るく照らした。
 準備は万端。
 僕の快楽は、誰にも邪魔させない。
 
 やがて、第九の演奏が最高潮に達したのとほぼ同時に。
 僕は射精した。
 
 ふう――と、すぐに賢者タイム突入。 
 三十路が目前に迫っていた二十代最後の冬。しかも平日の夕方に働きもせずなにをしているのかという現実と虚無感が、容赦なく襲いかかってくる。精液をどれだけきれいに拭っても、それらは拭えなかった。
 時間が有限であることを、僕はすでに理解しているはずだった。もう間もなく二十代が終わるんだという現実が、一種の焦燥感を生み出している。
 なのに行動ができない。
 無駄ばっかり。
 今日はたまたま休みなだけで、いちおう職はある。友人もちょっとはいる。でもお金はあまりない。彼女もいない。けど、隣人が羨ましいとは思えなかった。
 もういろいろとどうでもよかった。
 結局、僕は「なに」も持ってないんだと最近思っている。今後、人生に劇的な変化はないだろう。
 たぶんきっと、僕は「何者」にもなれない。
 
 そんな僕に生きている意味はあるのだろうか。
 
 そんなふうに、以前からぼんやりと浮かんでは消えてきた疑問がいまこの瞬間、唐突に――明確な答えとなって僕の中で結ばれた。
 
「ないね。うん――ない」
  
 デスクの上に置いてあったデジタル時計が目に入った。時刻だけでなく、日付も表示されるやつ。
 2月12日。
 今日は兄貴の命日だった。そういえば母親から、命日くらいは帰ってきなさいとか、何日か前に連絡があった気がする。
 まあ、いいか。
 実の兄の命日すらどうでもよくなっている僕に、生きている価値などあるのだろうか。

 
 ――僕が自殺を決意したのは、その瞬間だった。


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