3

「たぶん、こっち」
 
 そう言いながら、彼女が道なき道を率先して歩いている。戻ろうとした頃には、すでに大陽はだいぶ傾いていた。木々の枝が夕暮れの光をさえぎって余計に暗く感じる。陽が完全に沈むまでに戻らないと危険だ。
 ここまで考えたところで、一度は死のうとしてた人間にいまさら及ぶ危険ってなんだろうとぼんやり思う。つい笑ってしまった。
 
「なにがおかしいの?」
 
 先を歩いていた彼女が、振り返って言った。
 
「なんでもないよ。それより、道覚えてるの?」
「道なんかないでしょ。こっちだったかなーって、なんとなくの方向に進んでいるだけ。あなたはどう歩いてきたのか覚えてないの?」
「全然」
 
 もともと戻るつもりなどなかったから、進んできた方向なんか覚えてるわけがない。
 
「あなた、あたしがいなかったら死んでたね」
「まったくだよ。恐ろしい話だね」
 
 再び歩き出す。
 歩きながら、僕たちははじめて名乗り合った。僕の名前を聞いた彼女は僕を「たーくん」と呼び、僕も彼女のことを「さっちゃん」と呼んだ。
 
「ねえ、さっちゃん」
「なーに?」
「どうしてオムツはいてたの?」
 
 さっちゃんがいきなり立ち止まり、ぷるぷると震えながら僕を向く。頬がほんのり染まっていた。
 
「なにも言わなかったから、スルーしてくれたと思ってたのに!」
 
 情事のとき、当然ながらさっちゃんの服を脱がせないといけない。上から順々に脱がしていき、ズボンを下ろした段階で現れたのが、下着ではなくてオムツだった。おそらく介護用。それを見たとき、僕は数秒ほど硬直してしまった。
 たぶんさっちゃんは、自分がオムツをはいていることを失念していたんだろう。死のうとしている事実に比べたら、実に小さいことだから。そしてズボンを脱がされた段階でそれを思い出しのか、彼女は羞恥の海に沈む。
 僕は気にせず事を進めた。ちなみに後にも先にも、さっちゃんがあそこまで恥ずかしがっているさまを見たことはない。
 さっちゃんが、すべてをあきらめたような顔をしながら言った。
  
「首吊ったら失禁するって聞いたことない? さすがのあたしもさ、排泄物まみれで死ぬのは嫌だったの」 
「でもこんなところで死のうとしたってことは、発見されるのも嫌だったんでしょ? 死んで腐敗が進んだら、排泄物がどうとかの問題じゃない気がするけど」
「そうだけど……気分の問題なの」
「……まあ、女性だからね」
「うん」
「僕はね、初体験の相手がオムツはいてた女の子だったとしても気にしないから。安心してね」
 
 返事はなく、僕の下手くそなウインクは黙殺される。
 再び歩みを進めた。


 夜は若く、闇は深い。
 1時間は歩いた。いや、2時間だったかもしれない。道路に出た頃には、すでに陽は完全に落ちていた。
 代わりに月がのぼっている。今宵はきれいな三日月だ。
 いちおう舗装されているとはいえ、こんな人里離れた山道に街灯なんて気の利いたものはない。月明かりが少しはあるとはいえ、さっちゃんが持っていたペンライトがなかったら、完全に闇に呑まれていたと思う。
 
「たーくん、スマホとか持ってないの?」
「あの世にスマホは持っていけないからね。解約したからないよ。さっちゃんは?」
「あたしね、生まれてこのかた、スマホとか携帯電話って持ったことないの」
 
 世の中いろんな人がいるんだな、としみじみ思いながら、周囲をなんとなく見渡す。
 
「あ、ペンライト貸して」
 
 ペンライトを受け取ってから、場所を確認。
 坂道になっている道路をのぼっていく。
 
「下りたほうがいいんじゃない?」
「この場所、見覚えがあってね。ついてきて」
 
 10分ほど坂道をのぼると、鬱蒼とした木々のあいだに側道が伸びていた。そこを数メートルほど進んでいくと、1台のビッグスクーターが止めてある。ホンダの白いフォルツァ。
 
「これ、たーくんの?」
「うん。もう二度と見ることはないと思ってたけど」
 
 僕が死んだあと、これを見つける人がいたなら遠慮なくもらってくださいという意味を込めて、鍵は差しっぱなしにしていた。まあ、こんなところに人が来るとは思ってなかったけど。
 
「そういえば、さっちゃんはどうやってここまで来たの?」
「歩きだよ」
 
 この山の最寄り駅までは電車で来て、そこから歩いてここまで来たらしい。
 
「最寄り駅って、かなり離れたところじゃなかった?」
「うん。半日くらいかかった。けどね、人生最後の散歩だと思ったら楽しかったよ」
 
 たしかに僕も、これが人生最後の景色なんだなあ、と思って樹海の中を歩いていたら、感慨深いものがあった気がする。
 特にきれいでもなく、決して汚いこともない樹海の中。緑と土の匂いに満たされて、空気は清浄で静謐だった。人工物はいっさい見当たらなくて、その中を歩く僕のほうが異物だっただろう。
 後ろ向きのまま、フォルツァを舗装された道路まで押していく。側道は狭い上に舗装もされてないからでこぼこして、しかも暗くて、意外に苦労した。
 道路に出てから、メットインの中からヘルメットを取り出す。ひとつをさっちゃんに渡した。
 
「ヘルメットふたつあるんだ」
「このバイク買ったときにね、『彼女ができたら後ろに乗せるでしょう? ふたつ買っておいたほうがいいですよ』って店員さんに勧められてね。それ以来、ずっと中に入れっぱなし。ま、彼女はいつも乗せてたんだけどね。一緒に日本を3周はした」
 
 僕は乾いた嘲笑を飛ばした。
 
「……妄想の彼女?」
「うん」
「寒いね」
「人生なんてそんなものだよ」
 
 エンジンを始動させた。
 ここに来るまでに話し合い、ひとまずさっちゃんの家に向かうことにしていた。僕が住んでいたアパートはすでに引き払っていて、少なくとも僕には帰る場所がない。

「美夜坂ってところだよ」
 
 タンデムシートに座ったさっちゃんが教えてくれる。
 その地名はどこかで聞き覚えがあった。
 
 
 その後、僕の勘とさっちゃんの微妙なナビを頼りに、ひたすらフォルツァを走らせる。そのせいか、目的地の地域にたどり着くまで3時間近くかかってしまった。もちろんすでに日付は変わっている。
 閑静な住宅街を通る道路を走っていた。周囲はほとんど寝静まり、フォルツァのエンジン音だけが響いている。やがて、長い上り坂をのぼりきった高台の上で、さっちゃんが「ここだよ」と教えてくれる。
 フォルツァが止まった先に、見上げるほどに大きな和風の門があった。門の左右は白い壁がどこまでも続いている。街灯の光が届かない先は、闇に呑まれているようにも見えた。
 僕たちはフォルツァを降りる。
 
「ここがさっちゃんち?」
「うん。バイクはとりあえず、そこのスペースに止めておいて大丈夫……なんでそわそわしてるの?」
「あのさ、いま急に思ったんだけど、こんな時間に知らない男と一緒に帰ってくるって、かなり問題じゃない? ここ実家だよね? ご両親になんて説明――」
「うちの両親、もう死んじゃってるから大丈夫だよ」
 
 さりげなく重要なことを言いながら、さっちゃんは門の横の通用口を開け、中に入っていった。僕もあとに続く。
 通用口をくぐり抜けると、古ぼけた石畳がまっすぐ伸びていた。その終着点で、二階建ての大きな邸宅が居を構えている。
 石畳の上で、僕とさっちゃんの足音が静かな二重奏を奏でている。
 が、それが不意に途切れた。
 立ち止まったさっちゃんが正面を見つめていた。僕もその視線を追うと、玄関の前に誰かがいることに気づく。
 その人物は軒先に座り込んでいた。僕たちに気づいたのか、すぐにふらりと立ち上がり、一歩前へ出た。わずかな月明かりが、女性のシルエットを石畳に投げる。
 
「……ナオちゃん?」
 
 さっちゃんが驚いた声をあげる。
 ナオちゃんと呼ばれた女性は、涙の混ざった声でさっちゃんの名を叫んだ。そして一直線に駆けてくる。ヒールで石畳を力強く響かせながら。
 ヒールのせいでもあるだろうけど、ナオちゃんは長身に見えた。白と黒のバイカラーのワンピースに身を包んでおり、肩にはストールが巻かれている。
 ナオちゃんが勢いよく抱きしめ、小柄なさっちゃんをすっぽりと覆う。そのときの衝撃で、ストールが石畳に落ちた。
 
「やっと会えた!」
「ナオちゃん、どうしてここに?」
「だって一週間も連絡つかなかったから! 心配したんだからね」
「……ごめんね」
 
 その謝罪の台詞は、きっと二度と口にするつもりがなかったのだろう。だからさっちゃんの声は重く、哀しみに満ちていた。
 やがて、ナオちゃんの視線が僕に向いた。さっちゃんもナオちゃんから体を離す。
 
「この人は?」
 
 ナオちゃんにそう問われて、僕とさっちゃんは思わず真顔で見つめ合った。
 数秒ほどの沈黙。このあいだ、僕の脳内では「どうやって説明しよう」という思考がめまぐるしく回転する。
 もともと頭の回転が速くない僕の代わりに、さっちゃんが口を開いた。
 
「この人はたーくん。あたしの処女を奪った人」
 
 僕は慌てた。
 
「さっちゃん、あの、説明する順番がっ」
「だって本当のことでしょ?」
「そ、そうだけど――」
 
 ふと見ると、ナオちゃんの様子がおかしかった。まるで恋人が寝取られたのを目の当たりにした彼女のように、驚愕に目を見開いている。同時に僕とさっちゃんを交互に見ながら、金魚のように口をぱくぱくさせた。
 そのままナオちゃんはよろよろと後退。先ほどとは打って変わって、石畳がカツンコツンと心許ない音を立てる。さっちゃんが呼びかけるが、ナオちゃんは止まらない。
 やがて彼女は数メートルほど離れたところで止まる。それと同時に、僕にきつい眼差しを向けた。たぶん、肉食獣が獲物を見つけたときでも、もっと優しい眼差しをするだろう。
 おもむろにナオちゃんが駆け出す。
 夜の闇を駆ける獣のように鋭く速く。そこから先の映像は、僕はなぜかスローモーションのように見えた。
僕に肉薄した瞬間、ナオちゃんは奇声をあげながら高く跳躍し、片足を突き出した。子どもの頃に見た特撮番組で、こんなシーンがあったなぁとしみじみと思い出す。周囲は暗いはずなのに、なぜかナオちゃんの真っ赤な下着の色が、僕の瞳に飛び込んできた。
 瞬間――
 全身がとんでもない衝撃を受けて吹っ飛んだ。たぶん倒れたと同時に、頭を打ったんだと思う。
 僕の意識はそこで途絶えた。


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