それから何日か経ったあとの夜、僕が帰宅するとリビングからさっちゃんとナオちゃんの笑い声が響いてきた。リビングに入ると、ソファに向かい合って座るふたりの姿がある。
さっちゃんが「おかえりー」とひらひら手を振ってくれた。いい感じで酔っ払ってるらしく、頬が紅潮していて少女のようだ。
「仲直りしたの?」
ふたりともうなずいた。かなり飲んだのか、ナオちゃんも顔が赤い。
僕は一度書斎に引き上げて部屋着に着替えたあと、もう一度リビングに下りる。さっちゃんの隣に座ると、彼女がグラスにウイスキーを注いでくれた。
「お仕事はどう?」
「まあ特に可もなく不可もなくってところかな。前に散々ブラックとか言ってたけど、全然そんなことないよ」
ちゃんと働き始めてまだ数日だけど、午後7時過ぎには家に帰っている。エンジニアの仕事をしていたときはほとんど毎日終電に近かったから、ちょっと感動だ。
ナオちゃんがちっちっちと指を揺らした。
「オーナーはね、最初は飴と鞭の飴しか与えないの。でもうちのマスターなんか、Charlotteで雇われてから2週間くらいで鞭だけになったっていつも愚痴ってるよ。たーくんもそうなるのが楽しみで仕方ないってさ」
「怖いこと言わないでよ」
そんな雑談を交わしていると、やがてさっちゃんが寄りかかってきた。最近気づいたことだけど、さっちゃんは楽しく酔っ払ったときはスキンシップが激しくなる。
もちろんそのままエッチしたこともある。
「ねえねえ、たーくんて、誰かの結婚式出たことある?」
さっちゃんから結婚という言葉が出てきたことに内心驚いたけど、なるべく平静を装って返答した。
「あるよ。前の職場のときね」
「あたし出たことなくてさ。どういうものなの?」
「あれはね、結婚式という名のリア充……いまの言い方なら陽キャ? それの祭典だよ。自分たちはこんな素晴らしい幸せをみんなで共有してるんだ、って自覚をうながすためのね。僕とは住む世界が違いすぎてまぶしかった。いつ自分が灰になるかとヒヤヒヤしてたよ」
ふたりとも小さく笑った。
「そうそう、盛大な式を挙げると離婚しにくいって噂あるけど、あれ嘘だからね」
出席した結婚式は、それはそれは盛大で豪勢なものだった。住む世界が違うとはいえ、こんな僕でも感動した記憶がある。
でも、現実は容赦がない。
「その夫婦、3年で離婚したから」
途端、さっちゃんもナオちゃんも盛大に笑った。
「新郎が僕の同僚だったんだけどね、新婚当初は幸せでとろけそうな顔してたのに、離婚が決定的になるにつれて般若みたいな顔になってさ。一時期、そいつのせいで社内の空気がかなりぴりぴりしてたよ」
小さな会社だったから、張り詰めた空気の逃げ場がない。だから社員一同、かなり参ってた。結局そいつは離婚後に会社を辞めた。いまどうしているのか、寡聞にして知らない。
「それで、さっちゃんはなんでそんなこと訊いてきたの?」
「ちょっと興味があってね」
「じゃあ、将来豪華な結婚式挙げたい?」
「全然」
けろっとして即答された。
「だ、だよね」
「でも、式はどうでもいいんだけど、結婚はしたいかなって最近思ってるの。子どもが欲しいんだ」
僕とナオちゃんは顔を見合わせた。さっちゃんの声の雰囲気は、酔っ払った上での冗談ではなさそうだった。だからナオちゃんが真剣な面持ちで訊いた。
「どうしたの、急に?」
「これまではね、子どもは好きだけど、自分が子どもを産んで育てるっていう発想はなかったの。自分のことすら幸せにできないのに、子どもを育てることなんかできっこないって」
僕も似たようなことを考えていた気がする。
「でもね、最近ちょっと変わってきたっていうか……たーくんと出会ってからね」
つんつん、とさっちゃんに袖を引っ張られる。
「ねえたーくん、あたしと結婚しない?」
思わず水割りを噴き出したのはナオちゃんだった。
僕はさっちゃんの言葉を咀嚼し、何秒もかけてやっと意味を理解した。
さっちゃんは猫のような気まぐれだけど熱を帯びた瞳で、僕をまっすぐ見つめている。そのせいか、体が熱を帯びていくの感じた。
「ぼ、僕でいいの?」
「嫌だったらこんなこと言わないよ」
僕はにわかに慌て始めた。
「あ、でも、待って。ふつうは2、3年付き合ってから決めるんじゃない? 僕たちまだ出会って2ヶ月ちょっとしか経ってないけど」
「別にいいんじゃない? 出会った翌週くらいに婚姻届出した芸能人カップルいたような気もするし」
「僕の住所はここに移したから、もう住所不定無職じゃない。だから婚姻届は大丈夫かな……あ、結婚指輪とか用意したほうがいいの?」
「……最初は婚約指輪じゃないかな」
「え、それって結婚指輪とは違うの? ちょっと待って、まだ働き始めて間もないから貯金が」
「じゃあとりあえず、あたしのお金で買う? 出世払いでもいいよ。というか、結婚資金は全部あたしが払ってもいいんだけど」
「僕は助かるけど……そんなんでいいのかな……」
「あたしは気にしないけど」
「じゃあいいか」
「うん」
「じゃあさっちゃん、結婚しよう」
そのとき「ちょっと待ちなさい!」と口を挟んできたのはナオちゃんだった。
「いろいろと順序があるのに、全部すっ飛ばすな! さっちゃん、本気なの?」
「うん」
「たーくんもなにさらっと即答してるの!」
「つい。でもナオちゃん、前にきみの家でさ――」
「それとこれとは話が別! まさかこんな急転直下で話が進むとは思ってなかったわよ! ……ああでも、あんたたちに常識望んでも意味ないか。ねえたーくん、とりあえずご両親にさっちゃんのこと紹介するところから始めない?」
「……たしかに」
「そういえば、いまご両親とは連絡とってるの?」
「全然。だって最近までスマホなかったから」
いまの仕事が決まってすぐ、新規でスマホを購入していた。連絡先はこの家の電話と、ナオちゃんのスマホ、それから職場の3件だけしか登録してない。まあ、なんか身軽な気がして僕にはちょうどよかった。
ナオちゃんが険しい表情で言う。
「とりあえずご両親に顔を見せなさい。この中で、ご両親が健在なのはたーくんだけなんだから。ちゃんと大事にしないと」
「……はい」
とりあえず今度の休みに実家に戻ろうかと考えてみる。実家で暮らしていたときでも女っ気がなかったのに、いきなりさっちゃんを連れて行って「彼女と結婚します」なんて言ったら、両親の心臓が止まりかねない。
たぶん両親は、いまだに僕のことを童貞だと思ってるんじゃないだろうか。
まあどっちでもいいんだけど。