さっちゃんと結婚してからしばらくは僕にとって、人生でもっとも充実した期間だった。 仕事は順調。繁忙期以外は午後8時までには家に帰れる。給料はそこそこだけど、文句を言うほど低賃金ではなかった。
もちろん新婚生活も充足感に満ちあふれていた。結婚しても、さっちゃんは相変わらず猫のように自由に生きている。
ナオちゃんとの関係も良好。たまに彼女の前でさっちゃんといちゃついて、殺意を抱かれることはあるけど。
このときの世界は、少なくとも僕には優しく感じられていた。当然、もう死についても考えることが少なくなる。もちろんいつかは絶対に死ぬんだろうけど、それはいまじゃない。ましてや自らそれを選ぶことなど、もう考えられない。いつかさっちゃんにそのことを話したら、肯定も否定もせず、彼女は静かに微笑んでいた。
ちなみにナオちゃんはもう自分のアパートに戻っている。僕もさっちゃんも気にしないと伝えたけど、「新婚夫婦と同じ屋根の下で生活できると思う!?」と怒られてしまった。
婚姻届を出してから2週間が経過した頃、僕はCharlotteのカウンターに座っていた。仕事の帰りにたまに寄って、2、3杯のお酒を飲んで帰るのが最近のお気に入りだ。
カウンターを挟んだ向かいではやなちゃんがグラスを磨いている。スキンヘッドにピアスというチャラそうな外見。「男女見境なくセックスしまくって、エネルギーを使い果たしたからハゲたんだって」と、いつかさっちゃんが教えてくれた。
彼のスキンヘッドはいつも見事に光っている。夜な夜なワックスでもかけてるのかもしれない。
「最近、ここに来ると知らない人によく声かけられるんだけど、やなちゃんなんか知ってる?」
「たーくんがさっちゃんと結婚したのは、もうだいぶ広まってるからねぇ」
「それがなんで?」
「だってさ、さっちゃんってこの地元ではそれなりに有名人で、この美夜坂最強の堅物って言われている女だったんだよ。それがどこの馬の骨ともしれない男が、またたく間に嫁にしちゃったから」
どこの馬の骨ともしれない男である僕は、思わず怯えてしまった。
「そういえば、オーナーもさっちゃんのこと好きだったって噂が」
「ああ、それは本当。最初の頃は熱心に口説いてたかな。でもさっちゃんは相手にしなくて、オーナーもガキじゃないからさ。すぐに引き下がったよ」
「オーナーって奥さんいるよね。それでなんでさっちゃん口説くの?」
このあいだ銀婚式だったと、オーナーが言っていた。
やなちゃんは笑った。そこは気にしたらだめだよと言うように。
「ところで、結婚式とか披露宴は挙げないのかい?」
「うん。僕もさっちゃんも興味なくてさ」
以前、さっちゃんとナオちゃんにも話したエピソードを話した。立派な式を挙げたカップルが3年以内に離婚した話。やなちゃんも大いに喜んでくれた。
「なんで別れたんだい?」
「奥さんが家に別の男を連れ込んだんだって。で、ヤってる最中に旦那さんが帰ってきたとか」
実は奥さんは、旦那さんとの行為に満足できてなかったらしい。だから魔が差してしまったとか。
まあ、よくある話だ。
「体の相性は大事だよな。子作りっていうのは結果でしかないわけ。だから結婚する前に、いろいろと試してみるべきなんだよ。ま、ひととおりやりきったあとには飽きちゃうんだけどね」
だから俺結婚できないんだと、やなちゃんはつけ加える。
「んで、子どもは作るのかい?」
「うん。すぐにでも」
「ということはだ――」
やなちゃんは左手の指で作った輪っかに、右手の人差し指を抜き差しする動作をした。スケベな表情を浮かべながら。
僕は苦笑した。
「うん……まあ、ぼちぼち」
実際、さっちゃんは思いのほか激しかった。毎晩とまではいかないけど、それに近い頻度でやっている。1年くらいはふたりでゆっくりするのもいいんじゃないとも思ってたけど、さっちゃんは早く子どもが欲しいみたいだ。僕が帰宅して夕飯食べてお風呂入ったら、だいたい求めてくる。
あるとき僕は心配になって、さっちゃんに尋ねてみた。
「まさか不治の病とか抱えてないよね?」
「……なんで?」
さっちゃんはぽかんとして僕を見返してきた。
「病気で近いうちに死ぬかもしれないから、子どもを作ってこの世に生きた証を残したいっていう……ほら、難病ものにありがちな理由」
「たーくん、そういう小説好きだっけ」
「大嫌いだよ。見かけたらうんこ投げつけてやりたいって思うくらいに」
その手の作品をひとつふたつ読んだことあるけど、あの感動の押し売りは心の底から寒気を覚えてしまった。
これで感動できるのならきっと、僕の人生はもっと気楽で幸せだったんだろう。
さっちゃんはほんの少しだけ哀しそうに笑う。
「あたしでも、子どもを産んだらまっとうな人間になれるかなって」
「まっとうな人間」
「旦那さんと一緒に子どもを育てながら老いていく。やがて、大人になった子どもに見守られながら死んでいくの」
平凡だ。
でもその平凡は、実は誰もが持ち合わせているものではない。日常と同じで、ささいなきっかけで一瞬で崩れ去る。それは僕もさっちゃんも、よく知っていた。
「たーくんはどう思う?」
「いいと思うよ」
僕は変わった。
たぶん、さっちゃんも変わった。
だから、もう一度信じてみるのもいいかもしれない。
「ありがとう。じゃあ――」
その日は4回くらいやった。
まあ僕もまだ若いといったら若いから、なんとかがんばってる。でも、ちょっと体力の限界が見えていた。休日は運動でもして体力作りでもしようかと、本気で検討していたところだ。
そんな僕の心情を悟ったのか、やなちゃんが怪しい笑みを浮かべた。
「さっちゃんと体の相性はどうなんだい?」
「……悪くないと思うよ。むしろいいほうかも」
「それはなによりだ。なあ、ダチが怪しい漢方の薬局で働いているんだけど、精力剤作ってもらおうか? 人類最強の絶倫になれるよ」
「はは。……ほどほどのやつなら欲しいかも。もちろん合法でね」
やなちゃんは任してくれ、とでも言いたげに親指を立てた。
「まあ、副作用でハゲるって噂があるけどな」
僕は思わずやなちゃんの頭を見た。照明に反射して、彼のスキンヘッドが怪しく光っている。やなちゃんの瞳は、さらに怪しく輝いていた。