17

 その後、思い切って車を買った。ホンダのオデッセイ。子どもが何人かできても余裕があるように、大きめの車にした。もちろん新車だ。
 晴れた休日の昼下がり。ウッドデッキの上にテーブルセットを置き、コーヒーを飲みながら新車を眺めている。向かいに座っているさっちゃんも、気持ちよさそうに背伸びしていた。
 このブルジョワ感。ちょっと前まで住所不定無職だったのが嘘みたいだ。

「さっちゃんは子ども何人欲しい?」
「うーん……3人くらいかなぁ。あたしひとりっ子だったから、兄弟姉妹って憧れてるの。たーくんは?」
 
 僕たちは結婚しても呼び方を変えなかった。最初の頃に名前で呼び合ってみたことがあるんだけど、猛烈に恥ずかしくなってすぐ元に戻った。

「僕も同じかな」 
「じゃあがんばってお父さん。やなちゃんから精力剤貰ったんでしょ?」
「な、なんで知ってるの?」

 さっちゃんは笑った。
 穏やかな休日は続いていく。この広大な庭で子どもたちが遊んでいる様子を想像しながら、僕とさっちゃんは未来の話に華を咲かせた。

  
 ――しかし、さらに4ヶ月が経過しても、さっちゃんに妊娠の兆候は現れなかった。避妊はしてないし、セックスの頻度も考えるとそれはさすがにおかしい。だから僕とさっちゃんは、近所のレディースクリニックに行った。
 結論から言うと、この世界の神様に慈悲はないということがわかった。まあ最初から信じちゃいないけど、余計に信じられなくなった。
 僕のほうに問題はないようだった。精子は元気で、先生いわく「わんぱく坊主みたいに飛び跳ねてる」そうだ。
 
「……ごめんね」
 
 何度目かの通院の帰り、助手席のさっちゃんがぽつりとつぶやく。
 問題があったのはさっちゃんだった。生理はちゃんとある。ところが、卵子が正常に働いてないらしい。原因は不明で、後日別の病院で検査しても同じような結果が出てきた。子どもができないわけではない。けど、妊娠の確率はかなり低いとのこと。
 
「さっちゃんが謝ることじゃないよ」
 
 そんな慰めは気休めにもならないだろう。そんなことしか言えない自分にいらつきながら、アクセルを踏んだ。
 いつの間にか、僕も強く子どもを欲するようになっていた。だからもう、さっちゃんだけの問題ではない。

 
 それから半年ほどかけて、体外受精やら顕微授精やら、聞いたことあるようなないような高度な治療を行った。かなり高額な医療費がかかったけど、背に腹は代えられない。
 しかし結果は芳しくなかった。ある日、うちの母親が電話で「早く孫の顔がみたいわ」などとのんきに言ってきて、つい切れてしまった。僕が事情を詳しく説明してなかったっていうのもあったけど、タイミングが悪すぎた。
 近くで会話を聞いていたらしいさっちゃんが、目をぱちくりさせる。
 乱暴に通話を切って、スマホをソファに投げ出す。直前、母親のすすり泣く声が聞こえた気がした。
 
「その、ごめん。うちの母親、たまに無神経なときがあって」
「たーくんも怒ることがあるんだね。ちょっと怖かったよ」
「10年に1回くらいね。次怒るとき、僕はもう四十代だ」
「あたしはまだ三十代だけど……子どもいるのかなぁ」
 
 僕はなにも返せなかった。
 そんな僕を見て、さっちゃんは軽やかに笑う。その笑顔の奥に、哀しみが渦巻いているのを僕は見なかったことにした。 
 僕たちは変わったはずだった。
 しかし、一度自ら死のうとした罪は消えないらしい。そんな罪深い男女が新しい命を授かりたいだなんて、虫がよすぎるのだろうか。
 罪を償いなさいと神様に言われている気がした。神様がいるかどうかなんて、本当に疑わしいけど。

  
 望んだ結果を得られないと思っていても、僕たちは交わるのをやめなかった。やがて、僕たちの交わりは生殖を目的にした行為ではなくなっていた。
 ただの傷のなめ合い。精液と愛液と汗と涙を無駄に流すだけの、ただの徒労――激しくも虚しい情事が終わった直後、賢者タイムの僕は漠然とそんなことを思っていた。
 
「ねえたーくん。つらい?」
 
 僕の腕を枕にしながら、さっちゃんが顔を向けてくる。
 
「……なにが?」
「いろいろ」
「いろいろ。うんまあ、つらいと言えばつらい。でも、つらくないと言えばつらくないかな。世界は総じてそんな感じだと思うよ」
「……なんか、村上春樹の小説の主人公みたいな台詞だね」
「村上春樹は苦手だよ」
「知ってる」
 
 さっちゃんは頭を上げた。
 
「子ども、どうしても欲しい?」
「いや……そう思ってたけど、世の中どうしようもないことってあるじゃん。さっちゃんのご両親が事件に巻き込まれたことも、うちの兄貴が自殺したことも、いまとなってはどうしようもないのと同じ」
「……あきらめるの?」
 
 僕は首肯した。
 
「治療を続けるのが無意味とは言わないよ。でも、結果が出る前にさっちゃんか僕の心が悲鳴をあげると思う。そんなのは我慢できない」
 
 なにか頬に熱いものを感じるなと思ったら、自分の涙だった。
 さっちゃんがそれを拭ってくれる。それと入れ替わるように、彼女の瞳から涙が澎湃とあふれ出した。
 僕はそれを拭ってあげた。けど止まらない。僕のほうもさらに流れてくる。お互いの涙に溺れそうになる。
 世界はやはり残酷だった。


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