夏になった。世間はお盆休みで、僕も休みだった。その日の夕食は僕がめずらしく腕を振るい、ナオちゃんにも来てもらっている。
料理に舌鼓を打っているさなか、その大事な話を切り出した。
「転勤?」
斜め前に座っているナオちゃんが目を見開きながらつぶやいた。さっちゃんもカルボナーラをくるくるしていたフォークを止める。
「オーナー直々の頼みでね。今度千葉のほうに支社を作るらしいんだけど、そっちのシステム管理を任せたいって」
「千葉のどこ?」
「柏市だってさ」
ナオちゃんが眉をひそめた。
「そんな中途半端なところで、あのオーナーはなにがしたいの?」
「勢いがあるうちに、事業を拡大させたいんだって」
うちの会社はここ最近順調に成長を続けているらしい。その証拠に、月々の給料が最近少しアップしていて、ボーナスも気持ち多くもらえた。
白ワインを飲み干したあと、ナオちゃんがさらに問うてくる。
「たーくんは引き受けるの?」
「ほかに人はいないし、ずっとそっちにいるわけじゃないみたいだから。2年以内に新しい人材を探すから、それまで頼むってさ」
「行っているあいだは単身赴任?」
「いや、柏ならここからでもぎりぎり通えそうかな。さすがに早起きしないといけないけど」
僕はさっちゃんを見た。
「いちおう引き受けるつもりなんだけど、『奥さんの意見を聞いてから返事をします』って答えておいた。さっちゃんはどう思う?」
さっちゃんは僕を見つめていた。でも、その瞳に僕は映ってなく、虚空がぼんやりと浮かんでいるような気がした。
「さっちゃん?」
「あ、うん、ごめん……大丈夫。たーくんの好きにしていいよ」
キッチンで洗い物をしているところに、ナオちゃんがやってくる。さっちゃんはいまお風呂に入っていた。
「ねえ、さっちゃんってやっぱり子どものこと気にしてる?」
「たぶん」
「なんか、あんたと出会う前のさっちゃん見てるみたいで不安なんだ」
「あんな感じだったんだ?」
「口数が減って、上の空が多くなってたの。ただあのとき、わたしCharlotteの仕事が忙しくてさ。あんまり話してる時間がなくて……いまだに後悔してる」
「そんなだったさっちゃんが、子どもが欲しいって思えるようになるまで回復したんだ。なんとかしてあげたいけどね……」
「ねえ、ちょっと調べてみたけど、代理出産ていうのはどうなの?」
そのあたりはもちろん僕も調べていた。ただ日本ではほとんどやってなくて、法的にも倫理的にも未整備なままだ。海外――特にインドにおいては、代理出産はビジネスとなっているらしい。
ナオちゃんは洗い終わった食器を拭いてくれた。
「こう言っちゃあれだけど、あんたたち夫婦ってお金だけはあるんだから、なんとかなるんじゃないのかな」
さっちゃんの場合、卵子以外の生殖機能は正常だから、受精卵が着床さえすれば妊娠できるらしい。問題は、卵子の異常で受精まで行かないことだ。まあ、どういう異常なのか、結局最後までわからなかったけど。
彼女の場合、自分が妊娠するなら誰かに正常な卵子を提供してもらわなければいけない。つまり、さっちゃんは自分の遺伝子を引き継いだ子を産むのが難しい、ということになる。
「前に僕もさっちゃんにそれとなく提案してみたけど、あんまり乗り気じゃなさそうだった。法律とか倫理とか、正直僕もさっちゃんも必要以上に気にするタイプじゃないんだけどね」
「……わたしでよければ卵子提供してもよかったんだけど」
僕の思考が何秒か止まった。つい洗っていたグラスを取り落としそうになる。
「だって、そうなると遺伝子的には僕とナオちゃんの子どもになるよ?」
「そうだけど……まあ、別にエッチするわけじゃないし」
思わず想像してしまった。すると思考を読まれたのか、ナオちゃんに脛を蹴られる。
ひとまず話題を変えた。
「今度さっちゃんを病院に連れて行くから」
「……病院って、もういくつも行ってるんじゃ」
「あ、ごめん。心療内科ね。母親から紹介されてさ。もう予約取ってるんだ」
ナオちゃんは一度黙り、神妙な様子で口を開いた。
「さっちゃんはなんて?」
「とりあえず行ってみるって。最近、あまりよく眠れないみたいだから」
僕が夜中にふと目を覚ましたとき、さっちゃんが起きていてぼんやりと天井を見つめていることが何度かあった。「どうしたの?」と訊いても、「……なんでもないよ」と静かに返ってくるのみ。
行こうとしている心療内科は埼玉の浦和にある。以前母が兄貴のことを相談していた病院だ。年配の女性が院長さんで、かなり親身に話を聞いてくれたらしい。
実際に兄貴がその病院に行くことはなかったけど。
後日、車で浦和に向かった。浦和駅から少し離れた高級住宅地の中に、その病院はあった。繁盛しているのか、駐車場はほぼ満車状態だ。心療内科が繁盛しているのは世の中的にいいことなのか、僕には判断できなかった。
診療してくれた院長先生は気さくで朗らかな人だった。会話の運び方もうまい。だから僕たちは、気がついたら自分たちが出会ったきっかけとか、ナオちゃんくらいしか知らない話まですべてしゃべっていた。
そして、さっちゃんは軽い鬱状態と診断される。
帰りの車内で、さっちゃんに言った。
「前から考えてたんだけどさ、しばらく旅行に行かない? 新婚旅行には行ってなかったからさ」
「……仕事は?」
先週までお盆休みだった関係で、いま正直かなり忙しい。まとめて休みを取れる余裕などなかった。
「まとめて有休取れないかオーナーにかけあってみるよ」
正直なところ、できないなら最悪仕事は辞めるつもりだった。ただし、さすがにその覚悟まではさっちゃんには言わない。
僕にとっていちばん大事なものは、もうひとつしかない。それを守るためなら、僕はまた無職だろうとゴクツブシだろうと、なんでもなれる気がしていた。
さっちゃんのなんらかの感情のこもった視線を、横顔に感じる。
「僕の気持ちを重く受け止めないでね。自分でやりたいようにやってるだけだからさ」
さっちゃんは無言だった。
かつて、兄貴に対して僕はそこまで自分を犠牲にしようとは思わなかった。結局、両親も僕もなにもしなかった。もちろん、なにかしていれば解決してたのかなんてわからない。
でも、その結果があれだ。
さっちゃんはその後、帰宅するまでほとんど無言だった。