なんとなく目が覚めた、午前1時。
悪夢を見たわけでもないのに、ひどくのどが渇いていた。麦茶でも飲もうと、廊下に出る。
「…………?」
季節の変わり目を感じるような涼しい風を肌で感じた。
前にもこんなことがあった気がする。
あれはたしか、セイラが転校してきた前日。あの日の自分の行動をなぞるように、ベランダへ向かった。
やっぱりあのときと一緒で、窓が開いている。そして――揺れるカーテンの奥で、豊かな金髪がなびいていた。
声をかけようとして、思わず踏みとどまる。
悠が泣いていた。
肩をふるわせて、自分を抱きしめるようにしている。心奥からの嗚咽を漏らしながら。
ふと思い出す。真奈海の家族がうちの店に来たとき。素敵な時間を写真で切り取ろうとする悠が急に泣き出した。そして、バックヤードでいまみたいに全力で泣いていた。
そんな彼女が、赤く腫らした瞳で俺を見た。
「――――ぁ」
小さく声をあげたのは、どっちだろう。
ここまで来たら、見てないふりして立ち去ることはできない。
裸足のままベランダに降りて、思わず――
本当に思わず、悠を抱きしめた。
「り……凜……くん?」
「いいから」
「……っ……うっ……ぁあっ……!」
俺の腕の中で激しく震えながら、悠は慟哭した。
しばらくして泣き止んだ悠から少し離れ、夜空を眺めていた。
雲はなく、思ったより空気は澄んでいて、頭上いっぱいに無数の星々が広がっている。悠はベランダの壁に身を寄せながら、さっきから静かに佇んでいた。
「あの……凜くん」
小さな声。
「なにがあったの?」
「――――」
「まあ、言いたくないならいいんだけど」
この言いまわし、なんか癖みたいになってる。
「……わたし……その」
悠が自分から語るまで待った。俺なんかが悠の核心部分に触れていいのだろうか、という疑問を心の奥深くに封印する。
「まだ……誰にも言わないでね……?」
「うん。もちろん」
「惺のヴァイオリンと一緒に、ピアノ弾くのが楽しくて……幸せで」
楽しくて幸せなのに、あんなに泣くのだろうか? 嬉し泣きって様子でもなかった。
「ピアノは、もう捨てたはずなのに」
「捨てた?」
「ピアニストを休業してから、わたしの演奏、今日まで見たことあった?」
「……そういえば……?」
悠がピアニストを休業したのは、去年の春。創樹院学園に入学と同時だった。
うちのリビングにはアップライトピアノが置いてある。母さんが子どもの頃ピアノを習っていて、その名残だそうだ。以前は何度かそれを弾いている姿を見たことある。
でも、去年の春以降は……?
記憶になかった。
学業を優先するために、ピアニストを休業した悠。学園入学後すぐ、彼女は生徒会に所属した。「生徒みんなの役に立ちたいから」と、以前言っていた。生徒会の活動が忙しくて、ピアノを弾いている余裕がなかった――本人から聞いたわけでもないのに、そんなふうに考えていた。
「わたしね……もうすぐ、ピアノ弾けなくなっちゃうの」
「――――え?」
「それがわかったから、ピアニストを休業したの……まあ、ほとんど引退したの同じだよね」
「――――」
「わたしが病院通いしてるのは知ってるよね?」
「……あ、ああ……でもその、詳しくは」
「神経内科」
そのキーワードは、前にも聞いたことがある。
「わたし、病気なの」
「――――」
「……あ、ごめんね。こんな重い話で」
悠の瞳が再び揺れる。
「びょ……病気って、どんな?」
「明確な病名はないの。ただ、全身の神経が徐々に働かなくなっていくんだって」
神経は全身に張りめぐらされている。そんなの医療の知識なんかほとんどない俺でも知っている。それが働かなくなっていく。
「で、でも悠は今日ピアノ弾いてた。完璧な演奏だったって、みんな言ってたし……お、俺ですら……感動した……!」
なんで俺はこんなに慌てているんだろう。
心と言動が、どんどん乖離していく。
「耳のいい凜くんでも、さすがに気づかないかな……わたし、あれでけっこうミスしたんだよ? 初見の楽譜でも、プロのピアニストだったら絶対にしないようなミス。まあ、弾くの久しぶりだったていうのもあるんだけど」
まったくわからない。
悠の演奏は精密機械のような正確さがありながら、人間性あふれるほど優しくて、どこにも非の打ちどころが――
「たぶん、あの場で気づいていたのは惺だけだったと思う。わたしにはなにも言わなかったけど」
ああ、そうだ、と悠は思い出したように続ける。
「あの曲、惺のオリジナルなの」
「え?」
「惺が作曲して、ピアノとヴァイオリンの二重奏にするために編曲したんだって」
たしかに、聴いたことのない曲だとは思った。
「晩餐会の前に惺に呼ばれて、楽譜を渡されたの。みんなのために演奏会を開こう、って言われたら断れなくて……ひどいよね、惺」
「ひどい?」
「あんな素敵な曲、作れちゃうんだもん。しかもいつでもわたしと二重奏できるように、ずっと前に編曲していたみたいで……許せないな」
悠は、こちらが気圧されるほど切ない笑顔を浮かべた。
惺がどんな気持ちであの曲を書いたのか、正確なところまではわからない。でも、一度聴いただけで魂に染みいるような、「人間性」のすべてを濃縮したようなあの至高の旋律が、生半可な気持ちでできるわけない。
惺は悠に嫌われていることを誰よりも自覚している。それでも、あの曲を作った。
「わたしね……成人するまでに手足の感覚がなくなっていくみたい。……ここ最近、フォークやペンを持つ手が震えたりするの」
「そ……そんな」
成人するまでって、あと3年もない。
「治らないの? 手術とか――」
「無理みたい」
喰い地味で悠が言う。
「不治の病みたいだよ。……あはは、ドラマみたいだよね」
こんな現実、いくら悠でもすぐに受け入れられるとは思えない。きっと散々あがいて、わらにでもすがるような気持ちで神に祈って、やっと出た答え。
悲しいまでの現実を悠はいま、受け入れている――?
俺の足が震えていることに気づいたのは、そのときだった。
「凜くん……?」
どんな言葉も口から出なかった。
口よりも先に足が動き、俺はその場から逃げ出していたから。