夕食の後片づけをしている。俺と悠がキッチンで黙々と作業していた。
俺が洗った食器を悠が拭く。もう何十回と繰り返してきた一連の作業に無駄はなかった。
「ねえ、悠」
思い切って訊いてみることにした。
「うん?」
「台本の話なんだけど……よかったの?」
「え? あ、キ、キスのこと?」
悠の頬がほんのり染まる。
「それもあるんだけど……ほら、あのシーンがさ」
柊さんが執筆した台本。これはもう誰もが認めるほどの完成度を誇る。その中で悠はヒロインのお姫さま役だ。もうほかにいないってくらい適役なんだけど、少しだけ問題がある。
お姫さまがピアノを弾くシーンが存在していた。それもわりと重要なシーンで数回ほど。悠の演奏を生で見た柊さんが、悠とピアノを強く結びつけてイメージしてしまうのは仕方がない。あの演奏会にはそれくらいの力があった。
しかし悠は例の病気がある。俺だけに語ってくれた事実。夜の空気と星空と悠の涙が、脳裏に強くよみがえった。ちなみにあのとき俺が逃げ出した事実は、あれから俺も悠も一切触れてない。
「いいの。あれは別に……わたしは大丈夫だから」
「でも……」
「凜くん、心配してくれるのはありがたいけど、必要以上はだめ。凜くんの悪い癖、だよ」
似たようなこと、前にも言われた気がする。
けど無理してるのは悠のほうじゃないだろうか。しばらくピアノから離れていたのは、ピアノを弾けなくなるという事実に耐えられないからじゃないかと、俺はどこかで思ってる。
「わたしね、やっぱりピアノが大好き」
「……え?」
「思い出したの。惺との演奏で。わたしは結局、ピアノを弾いているときがいちばん幸せだった。なのにそれから自分で逃げ出すなんて、おかしいよね」
切なさの混じった微笑みを向けてくる悠。
俺にはまぶしすぎたのか、無意識に目を逸らしていた。
「紗夜華には感謝してるの。ああいう形で機会をくれて。だからわたしは、本番のとき全力でピアノを弾く」
迷いも不安も感じさせない言葉が、俺の心を揺さぶってきた。
「な――なんでそこまで――?」
「みんなが感動して喜んでくれるのが、いちばんだから」
がしゃん、と。
思わず皿を落として割ってしまう。
「凜くんっ!?」
「あ――――わ、悪い」
「ど、どうしたの? 顔色悪いよ?」
のぞき込んでくる悠の顔はきれいで、まぶしくて――
俺には一生持てない、なにかを持っていた。
「ご、ごめん――」
いたたまれず、その場から立ち去った。
――ああ、またか。
また逃げるのか。
俺は人間失格だ。
――いや、そもそも。
俺はきっと、「人間」ですらないのかもしれない。