11月の終わり頃、監督役の東雲先生が恐ろしいことを言った。
「んー……赤点取った人は、演劇祭不参加よね。だって、学生の本分は勉学でしょ? それが疎かになっているのに、どうして楽しい楽しい行事に参加できるのかしら」
光太が「あはは。嘘ですよね?」と凍りついた表情で言うと、
「あら。わたし冗談は言うけど嘘は言わないの」
先生の深い藍色の瞳は本気だった。
光太が絶叫したのは無理もない。期末テストは2週間後に迫っていて、光太はもう虫の息も同然だ。
けど、それを延命治療しようと愚かにも立ち上がったのは、セイラ、惺、悠、柊さん……まあ、要するにみんなだ。
ミュージカルの稽古や準備に隙間時間を見つけては、勉強会という名のスパルタ教育で叩き込む。真奈海や奈々、綾瀬さんなど、テストに自信のない子も参加した。
――そしてあっという間に12月の上旬。運命の5日間。
光太は全力で闘った。
翌週。最後の返却となったテスト――科目は歴史――が返却されたその瞬間、光太が奇声――勝利の雄叫びを上げた。クラスメイトたちの「なんだこいつは!?」という奇異の視線の中、光太はびいびい泣き叫ぶ。直後、織田先生によって教室から追い出された。
今回、創樹院学園に入学してはじめて、光太はひとつも赤点を取らなかった。
その日の放課後、光太が言う。
「俺、もう一生分の実力を使い果たしたぜ……ふはは……もうやだ。テストは当分嫌だぁっ」
「来年の学年末テストもこの調子でがんばろうな。進級かかってるし」
光太の顔から感情が消えた。
「そっか……捨てるのか。おまえが後輩になるのは寂しいよ。でもまあ、奈々たちと同級生になれるのはよかったな」
光太の口から魂が抜ける。
でも――
光太は本当にがんばった。
◇ ◇ ◇
いつか惺が言っていた。
「作曲っていうのは、どれだけ音楽の理論を熟知してるかなんて、実はそんなに重要じゃない。必要なのはセンスだよ」
綾瀬さんがミュージカルのために書き下ろした楽曲は、どれも図抜けたセンスの塊だった。ジャンルにとらわれない発想の自由な旋律。それは「綾瀬美緒」という唯一無二のジャンルにほかならない。
これは悠が言っていた。
「美緒ちゃんは、創樹祭が終わったあたりからなんか突き抜けたよね。曇り空が一転、清々しく鮮やかに晴れわたったみたいに」
そういえば、創樹祭が終わったら惺に告白するんじゃなかったっけ? と問うと、
「なんでお兄さんがそれ知ってるの!?」
と驚愕された。
けど次の瞬間にはもじもじとしながら、
「だ、だって奈々も――ううん、奈々だけじゃなくてほかのみんなも惺先輩のこと好きでしょ……だから、その――」
今度は俺が驚愕した。
「綾瀬さんも成長したよね。そこまでまわりが見えるようになって」
「それは……その」
またもじもじしてる。
「お兄さんのおかげだから……そ、その! 感謝してるから! あ……ありがとう」
まさかのツンデレ誕生である。
余談。
ミュージカルで使用する綾瀬さんの楽曲は、最初打ち込みで制作されていた。それでも充分なクオリティだったけど、「だんだん物足りなくなってきた」と綾瀬さんから相談があった。
それを聞いた惺がなんと、真城邸の地下の空き部屋に、即席のレコーディング・スタジオをこしらえてしまった。綾瀬さんの話を聞いてからそれができあがるまでに、ほんの数日。
惺が生半可なもので妥協するわけがなかった。機材はもちろん、プロ御用達のハイエンド。かかった費用とか、未成年なのにどうやって買ったんだとか、そもそもこんな短期間でどうやって用意したとか、恐ろしくて誰も尋ねなかった。ちなみに音響機器マニアの遠坂さんいわく、「星蹟島の一等地に豪邸が建つんじゃない?」とのこと。
レコーディングは迅速に行われた。慣れない中、「The World End」が総力を結集して、試行錯誤しながら生の演奏を録音。セイラが楽しそうにエンジニアをやっていた。
もちろんみんなプロじゃないから、拙い部分はある。それでも、とても素晴らしいものだというのは誰もが認めていた。すべてのレコーディングが済んだとき、「The World End」はさらなるステップへ到達したから。
みんなが惺にお礼を言うのはわかる。けど、「ここまで来られたのは、本当にお兄さんのおかげでもあるから」と、またもじもじしながら綾瀬さんに言われて、絶望的な気持ちになってしまった。
なんでこんな俺にお礼を言うんだろう。
◇ ◇ ◇
板の上で演技ができなかった小日向さん。
実は彼女は、惺と悠の演奏会が終わった数日後に「復活」していた。
「元気を……もらったから」
はにかみながらそう答えた小日向さんの瞳は、期待と希望に――俺が目を背けなるほど強く輝いていた。
なにかが吹っ切れたらしい。
分厚い殻をようやく脱ぎ捨てられたように、板の上での小日向さんの演技は、はるか高みにまで飛翔していた。
そういえばあるとき、小日向さんが先輩たちに呼び出されたことがあった。演劇部部長、田村涼子と、副部長の高見智則のふたり。
俺とセイラと惺は、物陰に隠れてその様子をうかがっていた。小日向さんはひとりで大丈夫と言ってたけど、どうしても心配になったからだ。
あなたが稽古しているところを、偶然見たの――田村先輩。
演劇部に戻ってきてくれないか――高見先輩。
ふたりがどういう気持ちでそう言ったのか、なんとなくわかるけど深くは語らない。
小日向さんは優しく微笑みながら首を横に振った。
「わたし、やっと居場所を見つけられたんです。だから……いまは戻れません」
小日向さんにしては強い口調に、先輩ふたりは驚きを隠せなかった。
「見ていてくれますか、わたしの演技……ううん、わたしたちの舞台を」
迷いや不安や苦悩をすべて放り投げ、代わりにかけがえのない光と希望を見つけた小日向さんの言葉。
先輩たちは目を見張り、セイラと惺は顔を見合わせて微笑む。
そして俺は、目を背けた。
◇ ◇ ◇
ある日、柊さんがおもむろに言った。
「将来、演技の勉強をしてみたいわ」
なんでかわからないけど、ものすごく驚いた。
「星峰くん、そんなおもしろい顔してどうしたの?」
「そ、そんなことより、演技の勉強って?」
作家から役者に志望を変えたのだろうか。
「台本を書いて、実際にお芝居をやってみて感じたの。ああ、わたしは『人間』について、まだなにも知らなかったんだって」
「人間」
「小説も演劇も音楽も絵画も……どんな創作物でも根本的な部分には『人間』が内在している。人間の感情、想い、心――」
「……うん」
「お芝居の勉強ってつまり、人間のことを知るいちばんベストな方法じゃないかって」
小日向さんや惺もこの意見には同意したそうだ。
「それが小説につながる?」
「わたしはそう思っている……いえ、確信してるわ」
新しいことを知って、そしてこれから知るであろう知識を想像して、果てしなく楽しそうな柊さん。
「そう……なんだ」
「星峰くんはどう思う?」
「……いいと思うよ」
なんとかそれだけは答えることができた。それしか答えることができなかった。
人間のことをもっと知りたいと心から願う柊さんの瞳には、素敵な好奇心がありありと浮かんでいた。
柊さんはこれから先、いろんな経験をして、失敗や後悔も含めて――すべてを糧として、前向きに生きていくんだと思う。
やがて「何者か」になれたとき、はじめて成功するんだ。
それがつまり「人間」を知る――「人間」になるってことだとしたら。
俺はいま、どこに立っているんだろう。
人間のことを知れば知るほど、暗い深淵に落ちていく俺は――
◇ ◇ ◇
お世辞にも広いとは言えない豊崎家の居間は、賑やかな空気に包まれている。
翠ちゃんを膝に乗せた真奈海が、困ったような顔をしていた。
「ほら翠。お姉ちゃん、いまから針使って危ないから、結衣お姉ちゃんのところに行って」
「みーどーり。こっちおいで。一緒に遊ぼ?」
と、結衣ちゃんが自分の膝を叩きながら言った。
「いやぁ!」
「もう。……ねえねえ翠。この中の男の子で誰がいちばんかっこいい?」
「んんー?」
「かっこいいと思う人のところに行って、甘えてきなさい」
「おー!」
姉の膝の上からぴょこんと立ち上がった翠ちゃんが、まず隣にいた光太の前へ。光太は「いやあ、照れるなぁ」と頭をかきながら、「さあおいで」と手を広げる。
「事案発生」
「凜、うるさい」
翠ちゃんはにこにこしながら光太を眺め、やがて、
「んべーっ!」
と舌を出して拒絶。
「やーい。振られてやんの」
「…………」
「おい。幼稚園児に振られて本気でへこむな」
翠ちゃんは俺の前を通り過ぎ、プロレスごっこして遊んでいた幹也くんや由貴彦くんも無視し、最後に惺のもとへ。
惺がにこっと微笑むと、翠ちゃんはきゃあきゃあ言いながらその胸に飛び込む。「にへへー」と、とろけるチョコみたいに甘えている。……可愛い。
ちなみに光太がそれを見て、「や、やっぱり顔なのか……!?」と自分の容姿の無力さに打ち震えていた。
「あきらちゃん!」
「うん?」
「およめさん! みどり、あきらちゃんのおよめさんになる!」
「ありがとう。それはいいけど、実は真奈海お姉ちゃんにも前に同じこと言われたんだ。どうしようか」
惺は真奈海を見る。翠ちゃんも真奈海を見た。
「おねーちゃん! らいばるだ!」
「ふっ……まさか5歳の妹と争わなくちゃいけないなんて」
姉妹のあいだに火花が散った。
「……おねーちゃん」
「なーに?」
「そのふく、みずぎ?」
「ううん、違うよ」
真奈海が針をちくちくやってるのは、水着のように露出度の高い衣装だった。黒一色でマント付き。妖艶な雰囲気を醸している。はっきり言って、5歳児に見せちゃいけない過激なもの。
「おねーちゃんがきるの?」
「そ、そうよ」
とたん、翠ちゃんが泣きそうな表情に彩られる。
「おねーちゃん……うそはだめだよぉ……」
「な、なんでっ!?」
「だっておねーちゃん、そんなにおっぱいおおきくないもん!」
真奈海に戦慄が走り、光太と幹也くんと由貴彦くんがひっくり返って笑い転げて、結衣ちゃんも口に手を当ててくすくす笑っている。惺だけは何事もなく飄々と……いや、誰もいない方向を見ながら体を震わせていた。めずらしく笑いをこらえているらしい。
「真奈海が製作している衣装はセイラのものだ。当然、胸のサイズは真奈海の比じゃない。それはもう、火を見るより明らかである」
「なんだと凜! てゆーか変なナレーションつけるな!」
「残念ながらそれが現実だった。これが本当の格差社会である。――しかしおわかりいただけるだろうか。本当に恐ろしいのは、それを一発で見抜いた翠ちゃんの観察力であった」
「うぐっ!?」
「というわけで真奈海も、いつかその衣装が似合うような体型になれるといいな」
「ふんだ!」
衣装製作は続いていく。
真奈海の技術は賞賛に値するものだった。一度みんなの前で試しに作ったことがある。1枚の大きな布が、2時間くらいで立派なTシャツとズボンになっていく技術に、誰もが唖然としていた。あまりお金をかけずに、弟妹たちの服や小物を工夫して作ってきた結果だろう。十代の女の子がほとんど身につけてないような技術を持っていた。
その日の夜、真奈海と電話した。電話の向こうでは、翠ちゃんの笑い声や、幹也くんと由貴彦くんのけんかする声、それをたしなめる結衣ちゃんの声が響いていた。
『ごめんね。騒がしくて』
「いや、賑やかでいいと思うよ」
俺の実家も……煌武の家も大家族だった。でも、ここまで和気あいあいとした空気になった記憶はない。
あそこまで歪んだ家族を、俺は知らない。
『ねえ凜……最近、なんか悩んでいることない?』
「…………」
『ほら、あたしと凜は古い付き合いだしさ。いろいろ知ってるし。なんかあるなら言ってほしい。前にも言ったでしょ?』
「じゃあ言っていいか?」
『え……? あ、うん!』
「幼なじみの女の子が、その妹に胸のサイズを抜かされそうなんだ」
『はあっ!?』
「でも事実じゃない? 結衣ちゃん、なんか前に会ったときよりも成長しててさ。そろそろ追いつくよね」
『なんで知ってるの!? 気にしてるのにぃっ!?』
「光太が言ってたよ」
『あ、あのスケベめ……っ!? うちの妹をそういうやらしい目で!?』
はっと息をのむ気配。
『あ……ごめん』
「なんで謝るの?」
『だ、だって……その』
真奈海は本当に「いろいろ」知っている。いや、知られている。知りようがないことでも、俺になにがあったのか、きっとある程度の推察はしているだろう。
「俺のことはいいよ。自分でなんとするから」
本当にそう思っているのか?
『でも……』
「そんなことより、紗綾ちゃんは大丈夫なの?」
『…………。……うん。病院で、詳しく検査してもらったって。ただの風邪みたい』
今日、紗綾ちゃんはいなかった。母親と一緒に病院に行ってるとは聞いてたけど、どうやら大事はないみたいだ。
それから真奈海と他愛もない会話を続ける。
電話の向こうは最後まで賑やかで楽しそうで、俺の過去と対比するように、どこまでも明るく暗く浮き彫りになっていた。